アズワンネットワーク

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「いのち」への配慮とコミュニティ(9)

空閑 厚樹

立教大学コミュニティ福祉学部 コミュニティ政策学科教授
生命倫理学と環境倫理学の諸課題を、「いのち、人生、暮らし」をめぐる今日的課題として捉え、持続可能な福祉コミュニティ形成の視点から研究している。具体的には当事者を主体とした地域活性化の現状、可能性、課題および、持続可能な福祉コミュニティ形成において求められる人間観、社会観を実践事例の批判的検討を通して研究している。

「いのち」への配慮とコミュニティ

シンビオーシス75号(NGO 地に平和) 2014.5.30

「地に平和」の勉強会では、いくつかの聖書の箇所が繰り返し取り上げられます。同一箇所であっても、読む側がその時にもっている問題意識によって、考えることや気づくことが異なります。今回はエリヤの召命(列王記上19:11-12)について考えます。この箇所も地に平和の勉強会で私が学ぶのは3 回目です。最初は何が問題なのか理解することができませんでした。本連載7 回目(74 号)で扱った「説明責任」と「透明性」について考えたことで、私なりの考えを進めることができました。
きちんと説明責任が果たされ、またその過程が検証可能(透明性が確保されている)のでなければ、ある決定に対する「なぜ」に十分に応えたことにはなりません。そして原発再稼働をめぐる決定のように、その決定が多くの人に影響を及ぼすようなものであり、また決定を下す人とその結果を引き受ける人が異なっているような場合、この「なぜ」に応え、決定の根拠を示すことは必須となります。
そしてその根拠に妥当性がないなら決定は覆されるべきです。現代社会では生活の様々な領域において分業、専門化が進み、効率化の要求からその仕組みの規模は巨大化、複雑化しています。このような状況で下される決定の影響は大きく、またその影響が顕在化するのに時間を要するものもあります。したがって、「説明責任」と「透明性」の重要性はますます増していくと考えられます。しかし、それだけで十分というわけではないのではないかと前回指摘しました。説明責任や透明性の要求が有効に働くのは健康の回復や安全性の確保等目指す価値が明快な場合です。現在、「いのち」をめぐる課題として議論の対象となっている出生前診断、能力増強、終末期医療における価値判断は自明ではありません。さらに、先ほど決定の根拠が妥当でない決定は覆されるべきと書きましたが、現実には原発再稼働審査、特定秘密保護法制定、TPP(環太平洋経済協定)参加、憲法改正へ向けた動き等が形式上「説明責任」と「透明性」を果しつつ進んでいます。したがって「説明責任」と「透明性」は現代社会における諸課題においてどこまで有効なのかという問題意識がありました。
今回エリヤの召命について学んだ時、以上のようなことを考えていました。そして特に12 節後半「静かにささやく声が聞こえた」の訳についての議論が参考になりました。ここはヘブライ語で「沈黙の声があった」と書いてあると学びました。このことも3 度聞いているのですが、今回初めてこの違いはとても重要だと思いました。なぜなら、その後のエリヤの決断の根拠がエリヤの外からのものか、エリヤ自身によるものかという違いにつながるからです。
イスラエルの王アハブはフェニキアから妻イゼベルを迎えます。そしてイスラエルでもバアル信仰が力を得、ヤーウェ信仰の危機が起きます。この状況に警鐘を鳴らしヤーウェに立ち返ることをエリヤは訴えました。しかし、イスラエルの民はその言葉を聞かず自分の命さえ狙おうとしているとエリヤはヤーウェに語ります。この語り掛けは、自分の活動にはたして意味はあるのか、直面する理不尽な現実をどうしたら理解し受け入れることができるのか、なぜ自分はこの活動を続けなければならないのかという問いかけでもあると思います。
この問いにヤーウェが「ささやく声」で答えたのであれば、エリヤはその後の行動の最終的な根拠を、彼が聞き取ったヤーウェの言葉に求めることができます。私たちは重大な決断を下す場面や大きな悲劇に遭遇した時、その根拠や意味を求めます。かつては宗教に求めていたその役割を現代では科学に期待しています。そしてその期待に応えようとして、それぞれ権威を肥大化させ、私たちも答えがほしいためにそれを容認しているといえるでしょう。そして問う者と応える者が暗黙のうちに共有している前提に沿うような答えが示されますが、それは現状をもっともらしく説明したにすぎません。このようにして世界の出来事を意味付け、理解する方法はイエス時代のユダヤ教にもみられました。そして、イエスがそのような見方をとっていないことがヨハネ福音書9章に記されています。生まれつき盲目であるのは本人の罪のせいか、親の罪のせいかという問いかけに対して、イエスはそのいずれでもない、と答えています。
それでは「沈黙の声」とするなら、これはどのように理解することができるでしょうか。「沈黙」が意味するのは、問いかけに対する応えはなかったということです。それにもかかわらずこの体験がエリヤにある確信をもたらした。したがって、この体験以降のエリヤの言動はエリヤの外にある権威に従ったのではなく、エリヤ自身の内側から湧き上がる力に突き動かされたといえるのではないでしょうか。そして「沈黙の声」から想像されるイメージは徹底的にその当事者の声に耳を傾けること、この場合はエリヤが自分自身これまで見聞きし、考えてきたことを改めて聞き直し、またそのためにも出来合いの、不必要な意味づけをしないということです。そうすることで、取るべき行動の方向性が当事者においておのずから了解される状況、不要な意味づけをすることなく悲劇を受け入れられる状況が期せずして現れてくると考えられないでしょうか。
このことを昨年度調査しました「アズワンコミュニティ鈴鹿」を具体例として挙げて考えてみます。
2000 年に三重県鈴鹿市で発足した「アズワンコミュニティ鈴鹿」は、当初からメンバーを確定せずにゆるやかなネットワークとして現在に至っています。当ネットワークに関わっている人は現在100 名前後で、食事や宿泊など必要に応じて相互に提供しています。
そして農産物販売、弁当販売、不動産事業などを経営しながら、当コミュニティの理念である「誰もが、反目や依存なく、自立した自分に成ろうとする人達で、考え方や生き方を検べ(しらべ)、人として成長し合うための場でもあり、人を責めたり統制する必要のない社会」を目指しています。そのために定期的に勉強会を開催し、また並行してその勉強会の内容についての検討を行っています。
当コミュニティの特徴として、徹底した自主性の尊重と、その自主性に基づく相互扶助システムが挙げられます。具体的には前述した事業経営において強制、命令、義務ではなく「やりたい人がやりたいことを自主的にやる」という方法を採用しています。また、報酬についても成果や実績、労働時間に応じて支払われるのではなく、必要に応じて支払われています。このような方針を採用しているため、一般的には採用されないであろう経営上の決定(たとえば営業成績の良い弁当屋店舗の閉店や弁当や農作物の無料配布等)もなされているものの、事業は継続しています。
ここで、収穫した農産物の一部をコミュニティメンバーへ無料で配布することを提案し、了承されたという例を紹介します。当コミュニティにおける農業は借金をして始めた事業であったため、その返済のために収益を上げる必要がありました。しかし、収益を上げることが目的となっていることに疑問をもったメンバーが、コミュニティメンバーの交流を促す方法として無料配布を提案したといいます。この取り組みは弁当事業においても取り入れられ、弁当惣菜の一部は無料で配布されるようになりました。そして、コミュニティメンバーが集まる「コミュニティライフストア」でこれらの農作物や弁当惣菜を受け取ることができ、交流の場ともなっています。このような金銭授受を介さない仕組みが貨幣価値を相対化する価値を具体的に、暮らしの中で生みだしていると語ってくれました。
そしてこのような経営判断がどのようになされているかといえば、もっとも重要なのは信頼だといいます。前述したコミュニティの理念を実現するための提案であることを信頼しているからその決定過程はスムースです。そして問題があれば適宜柔軟に軌道修正をしていくといいます。形式的に説明責任や透明性が要求されたり、これらが十分に果たされていないと問題になることもないといいます。
「アズワンコミュニティ鈴鹿」における徹底した自主性の尊重は、伝統的勤労道徳や能力主義を是とする現在支配的な価値観と相いれないとも思えます。また素人目にみても効率的な組織運営とはいえません。またそのため事業は頓挫するリスクもあります。しかし始める前から失敗する可能性を予想して始めないのではなく、その事業がコミュニティの理念と一致すると考える人がいるなら、まず始めてみる。そして問題があれば変更するという柔軟性は、置かれた状況と呼応しながら在り方も変わる(たとえば暑ければ汗をかいて体温調節をする)という、より自然のいのちの在り方に近いといえると感じました。そして、このような方法で前述のコミュニティライフストアでの野菜や惣菜の無料配布やコミュニティオフィスの活動の他にも多様な事業展開という具体的成果を実現しています。
もちろん、このような組織運営は説明責任や透明性に加えて、利益相反など合理的な組織運営を求める近年の動向にも与せず、馴れ合いによって組織が活力を失う危険性は否定できません。信頼によってその危険性を回避するなら、100 名前後の規模で全員がある程度コミュニティの理念を共有しているから可能だとも考えられます。そうであるなら、むしろ「合理的な」組織運営が厳格に適用されなければ機能しない組織規模の方に問題があると考えられないでしょうか。そして、このような小規模な多様なコミュニティが存在することが、「説明責任」と「透明性」だけでは対処困難な課題への一つの処方箋になるのではないかと思います。