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社会気風
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前略 懐かしの友へ
お互い、いい歳になってきたけど、久しく顔を合わせてないね。
今、僕はF1で世界中に知られている三重県鈴鹿の街に暮らしている。
ここは僕らが過ごした街とは趣が随分違うけどね。
「どんな街に住みたい?」
「どんな人達と、どんな生活がしたい?」
と尋ねられたら、君ならどう答えるかな?
僕が、ここに越してきて13年になるけど、いつの間にか面白いコミュニティができてきてるんだ。
ちょっとその紹介をしようかな。
親しさ 70億人に達するという地球の人口。その中で僕が直接言葉を交わしたりするのは、1000人にも満たない。僅か0.000000143%。その数字を見れば奇跡的に出会えたかけがえのない人達のように思えるのに、実際はその中で仲が良かったり、悪かったり、断絶してしまう人までいる。喧嘩別れすることを最初から望んでいる人などいないだろうに。人間って何してるんだろうね。
親子、兄弟、夫婦、親戚、友達、師弟、仕事仲間など、いろいろな関係があるけど、今、目の前にいるその人と僕はいったい何で繋がっているんだろう?
損得勘定の付き合いや、相手のことを思ってと言いながら自分の良かれを押し付けたりの縛り合いやらがあるうちは、どうしたって仲が悪くなっちゃうのかなあ。そんな条件付きの仲良しではなく、どんなことがあっても崩れない親しさで繋がっている人ってどれくらいいるだろう。
心安らぐ なんと言っても、「これ」があるかないかでは大違いだよね。
心の底を眺めてみて、ホントに穏やかなものが流れている自分かどうか…子ども達の心の中もどうなんだろう、不安の無い日々を送れているんだろうかってね。
安心といっても、保険や、財産があるからというのは表面的なもので、あるばっかりに余計に気を揉んだり、ホントの安らぎはお金で買えるようなものじゃない。自分一人だけ悟って静かに暮らそうとしても無理な話だしね。会社とか家庭とか地域とか、その中で心も大きく影響を受けて生きている訳で、いつの間にか不安が無くなり、安心しきっている自分にふと気付くと、コミュニティの大きさや意味を改めて思うんだ。
満ち足りて ここのコミュニティに訪れて、いつの間にか居ついてしまった青年がいる。彼は最初こう思ったそうだ。「ここは、お人好しばかりの集まりか?」って。
彼が今まで体験してきたのとは随分違う雰囲気で、不思議に思ったみたいだが、こんな人ばっかりで成り立つのかなと眺めているうちに、興味が出てきて一緒に暮らすようになってしまったらしい。
そう言えば、相手を責め立てる人だとか、悪口やら陰口言う人も、最近あまり見たことがない。別に善人という訳でもなく、好きなこと言ったりやったりしているけど、他の人をどうこうしようって気にならない人が多いようだ。満ち足りている子どもが、回りにちょっかいかけないで、上機嫌で自分のことに没頭しているのと同じかもしれない。
人として 何かがやれるようになる、資格を取るとか、スキルアップするとか、そういうことも大事かもしれないけど、それだけでは十分じゃないってだんだん分かってくるよね。
日々、"一人の人間"として成長している自分だろうかと考えたことないかな? 人間にしかない知性は伸長しているだろうか、"人ならではの心"は歳と共に豊かになっているだろうかと…それって、目には見えないことだけど、自分には誤魔化しようがない気がする。
人としての内面の充実に、一番の関心や価値を置いている人達の中で暮らしていると、いい格好しても仕様がないし、手柄を自慢する必要もないし、"そのままの自分"で居られるから楽なものだ。外見を着飾ったり武装したりでなく、自分の中身を見たり、検べたりが面白くなってくる。
心の趣くまま 本心で生きてる?って聞かれたら、どう答えるかな?
自分の人生なのに、ホントに自分で歩いてきたって胸張って言えるかな?
自由に生きてきたように思っていたけど、振り返ってみると、学校や会社でも、その組織から求められている姿になろうと一生懸命だったかもしれない。自発的に服従してきたようなものだね。そして、周囲の人に対しても、それを求めていたようだ。
その方が生きやすいと、大きな思い違いしていたものだなあ。
今は、"そのままの自分"で居られる場所がだんだん広がってきているからか、自分の本心から願っていることがクッキリしてきたよ。そして、その心の趣くままに、実際に暮らしていけるっていうのが、得がたいことだと思うんだ。
創る日々"躍動" 「やらなくちゃならないからやる」とか、「そうするべきだからやる」とか、そんなんでいくら事柄がやれたり進んでも、心はプレッシャーやら義務感やらに押し潰されて面白くもなんともないよね。子どもの頃は他愛ないことでも心躍ることの連続だったのが、大人になるにつれだんだんと減っていってるように感じていたけど、社会の中で生きていくには、それも仕方ないと諦めていたんだよね、
世の中そんなものってね。だからあまり矛盾も感じないで、我慢してやり続けられたのかもしれない。
でも、ここに来て『諦めていない人』が結構いるのを知った。心が躍動している人は、見ているだけでも元気になってくる。元々、人間って心が萎縮したり頑なになるのを好む訳ないよね。
子ども達に残すもの 「そうなればいいよなあ。だけど現実は厳しいからなあ」と、随分やってきたけど、ここでは、「そうなるといいなあ。一つ試しにやってみようか!」という気風に溢れてきたように感じているんだ。そうは言っても、決して「出来上がったもの」ではなく、失敗も多いし、積んだり崩したりの連続だけど、自分達で創っている雰囲気が面白い。
今の世の中、家や土地をいくら残せたとしても、子ども達の為には何にもならないような気がしている。そんな「遺跡」の面倒を子孫に託すよりは、生身の人間が、例えどんな人でもイキイキと生きられるような社会気風を残せたらと思ってね。
始まったばっかりで、海の物とも山の物ともつかないコミュニティだけど、一度見に来て、君の眼で確かめてくれないかな。
それじゃあ、また。
待ってます。
追伸
贈り合って暮らす 一つ大事なことを忘れていたよ。
お金がないと暮らせない、だから生きるためには先ずお金を稼がなくちゃならない。子どもの頃からそう教えられ、それで当たり前と何の疑いもなく信じてきた、だろ?
僕はそうだったよ。
だけど人が生きてる実際をって眺めてみたら、生命にもっとも大切な空気も水も光も食べ物も全て自然界からの贈り物ばかり・・・。驚きだよね。
ある日、野菜や米を作っている農業者が、「野菜を作っているといっても、自分がしているのは種を蒔き、草を引いて、収穫する位のこと、野菜が育ったのは殆どが自然の力に拠るもの。そうして出来た米や野菜を、コミュニティの皆にタダで贈りたい。」と、言い始めた。そして、それが最初の一歩になったんだ。
面白いね、贈られて満足すると、何か自分からも贈りたい気持ちが湧いてくる。これは誰にでもある心の働きなのかな。
各自が携わって出来たもの、それぞれの特技や持ち味も、一方的に贈り合って暮らすだけ、自然が成り立っている理の中で、人もまた生きられるのではないか。物やお金に翻弄されなくてもいい、取ったり奪い合ったりしなくていい・・・。そうだ「イマジン」でも歌われていたっけ。そんな今までにない社会の試みが僕の周りで始まっているよ。
そのこと伝えたくてね。
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