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【オンライン対談】本当に自由な社会とは?の文章化ができました。

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~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~

2020年10月25日に第1回、12月9日に第2回を開催して好評だったアズワンネットワークのオンライン対談は、2月11日に第3回「本当に自由な社会とは? 」
を開催しました。2月号で動画を紹介しましたが、文章化できましたので、下段に掲載します。

対談の文章は何回かに分けて、毎週Webサイトにアップロードします。

第1回の対談動画はこちらから
第2回の対談動画はこちらから
対談第1回のテキストはこちらから

 
対談者は、元大手出版社の編集者で、個人の意識の覚醒と社会変革を求め続けて、一昨年アズワンに出会った三木卓さんと、アズワン初期からのメンバの一人でもある、サイエンズ研究所の小野雅司さんです。



~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~

三木
千葉在住の三木卓と申します。
2019年春、アズワンがメイン会場になっている持続可能な社会に向けてのユネスコ認証の教育プログラム「ガイアエデュケーション」を受講するためにアズワンに行って、アズワンコミュニティの実態に触れ、またアズワンコミュニティの実態を作り出している背景としてサイエンズメソッドがあるっていうことを知って、サイズメソッドのサイズスクールっていうのがあるんですけれども、そこで学んできました。
本当に世界中、地球上もどこも行き詰まってるなーっていう感じ、多くの方が危惧してるんじゃないかなと思うんですけれども、アズワンコミュニティとそのサイエンズメソッドの試みっていうのは、それに対しての本当の突破口っていうか、全く新しいやり方で全く新しい社会を小さなスケールだけども実現している20年の歴史があるなって、行くたびに実感してきました。
と同時に全く新しいっていうと、どんなものだっていうんですけども、逆に自然で普通で、本当に地に足ついたコミュニティっていうか、鈴鹿という20万人の都市の中に溶け込んでいる姿に感銘を受けて、これは静かにすごい革命が起きてるって、個人的に非常にインパクトを受けました。
それでサイエンズ研究所でサイエンズメソッドを研究してきた小野さんにいろいろ今日も聴いてみたいなと思っていますのでよろしくお願いします。


小野
僕も自己紹介したいと思います。小野雅司といいます。59歳です。大学生の頃から、新しい社会をつくりたくて、いろんな活動をしてきて、もう40年くらいになりますね。2001年から鈴鹿に移住しまして、ゼロからもう一度新しい社会をつくってみようってことで、アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティというコミュニティをつくってきて20年が経過しました。その中で、サイエンズと呼んでいる新しい、いろんなことを探究していく考え方が見えてきたんですけど、そのサイエンズを使って研究するサイエンズ研究所というところで、研究をずっとさせてもらっています。
コミュニティをつくってきて、いろんなことを経験しながらやってきたんですけど、そのプロセスを経て、鈴鹿のコミュニティ自体ももっと大きな規模で試していきたいっていう段階に入ってきてます。そして、鈴鹿だけじゃなくて、日本各地とか世界各地でこういうコミュニティができるようなサポートもいろいろさせてもらって、それもまた研究材料にさせてもらいながら進んでいます。
今日初めての方も参加されているって事で、その体験してきたこと、それを通して見えてきたことなども含めて、三木さんと一緒にいろんなことをお話しできたらなと思っています。よろしくお願いします。


三木
よろしくお願いします。では早速始めたいと思うんですけれども、今回で3回目ということで、今回は「本当に自由な社会とは?、サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿というテーマです。
僕がサイズメソッドを受けててなるほどと思ったのは、「自由な社会」とか 「幸せな社会」ということを、実は今まで人類は、それが実際どういうものかを知らないままに、そこを曖昧にしたまま、「自由な社会」「とか幸せな社会」とか皆が平等な社会を作ろうとしていたんだなと。それじゃあダメなのは当たり前だなと。逆に言うと、その知らないことをまず知って、じゃあ本当に「自由な社会」とか、「本当の幸せ」とは何かということを探究しようっていうところからサイエンズメソッドは始まっていて、その知るところから、実際の現れとしてコミュニティができてきたと理解しています。
ではその本当に自由な社会ってなんだろう? 20年やってくる中でどういうふうに見出してきたのか、あるいは、自由だと思ったことが実は自由じゃなかったと知ったことなども含めて聞かせてもらいたいなと。


小野
最初からズバリですね(笑)。2001年に、本当に自由な、争いのない誰もが親しく本心で生きられる社会をつくりたいということでスタートしたんです。すごいやる気もあって、いろんなことに取り掛かったわけですけども、それこそ理想はそういうことを掲げているわけですけれども、なかなか自由にならない。理想と現実のすごいギャップに直面するわけですね。
例えば、自由な会社をつくろうと始めるわけですけど、ちょっと自由にしている人がなかなか認められない。よくあると思うんですけどね。忙しい時に急に休みたいとか、急にどこかへ遊びに行きたいとかいう人が出てくると、とてもそれが受け入れられない。自由な会社を目指しているけど、自由にしている人が認められない。そういう現象が起こってくるんですね。「いくら自由と言ったって、それはないだろう」って。そういう現実に、ホント1年、2年したら直面しまして。皆で決めたことはやると思ってたら、それをやらない人がいると、「なんでやらないんだ。勝手てにして!」とか。そういうことは、多分、今何らかの活動されてる方もすごく直面するテーマなんじゃないかと思うんです。
一方で、やっぱり自由を求めているんだけど、「決めたことに従わなければいけない」ということを当然としている。なにか矛盾しているものを感じながらも、自由を求めていると言いながら、「でも、決めたことには従わなくては」とか、「こんな忙しい時に休むのはアカンでしょう」みたいな。そういうジレンマがどんどん浮き彫りになってくるわけですね。これはこのまま行っても本当に自由な社会はできないんじゃないかということで、2004年にサイエンズ研究所というのができるわけです。これは、今の矛盾した状態をそのままにして先に進めないというか・・・、そこが非常に大きな転換点になったかなと思うんですけど。本当にそういうことで言うと、自由な社会と言ってるけども、本当に自由ってことを知らないんじゃないかっていうことを思い知った感じですね。
2002~2003年とやってみて、理想としていることと実際がそぐわない。そこから本当に真剣に、一回ゼロにして「自由とはどういうことか?」って見直さないといかないなと、となって、ひとつ新しい段階に入ったかなという感じがしてます。


三木
自由な社会を求めてるんだけども、自由にやっている人間を見ると「ちょっとオイ」みたいになっちゃう。同じ自由という言葉を使ってますけど、違ってるわけですよね。自由な社会って言っているときの「自由」と、あいつ自由にやりやがってっていう時の「自由」と。自由って言っているものが何かっていうことが分かってなかったていうことですね。


小野
そこから自由ということだけでもないですけど、行き詰まりのどこに原因があるかって探っていく中で、サイエンズメソッドという考え方が見出されていくわけです。サイエンズメソッドの一番大切な要素となる「人間の考えを知る」「人間の考えを自覚する」っていうところに焦点が当たってきたわけなんです。例えば、「みんなで話し合って決めたことには従わなくてはいけない」とか、「○○しなきゃいけない」ということがあたかも実際にあるみたいな感じで自分たちは捉えていて、それを当然としてますよね。「みんなが決めたことは守らなきゃいけない」と、それを当然だとしていたり、「忙しい時だったら、みんなのことを考えるべきだ」とかも。「○○すべきだ」「○○しなければいけない」ということを、あまりにも当然にして言ってるんですけど、それを僕達は「調べる」って言葉を使いますけど、「それがどういうことか?」とか「これはどうなっているのか?」「どういうことなんだろう?」って考えていくと、「しなければいけない」とか「してはいけない」ってことは別にそういう事実があるわけじゃないということがハッキリしてくるわけです。そういうふうに考えているだけですよね、自分たちが。自分たちが「そうすべきだ」と考えていることをあたかも事実のようにして、それも自分だけじゃなくみんながそれを当然と思い合って、それが共通の観念になって、あたかもそれが事実みたいになってる。そういうことを「思い込み」や「キメつけ」って言ってるわけです。自分達がそういう状態であるっていうことに、いろいろ研究していて見えてくるわけですね。それが実は人間同士を縛りあっている。前回も前々回もお話に出てきましたけど、ハラリ氏っていうイスラエルの歴史学者、『サピエンス全史』を書いたハラリ氏という人が、人類がこれだけ進歩してきた大きな能力として、フィクション、虚構を共有することで、大きな協力体制をつくって人類がこんなにも繫栄してきたということを言われてます。人間には実際ないものをフィクションとして、虚構ですね、フィクションをあたかも事実のように共有しあって人類は進歩してきたわけですけども、さっきも言った通り、「こうしなければいけない」とか「決まったことを守らなきゃいけない」っていうフィクション、それも人間が考えたフィクションだと思うんですけど、あたかも事実として共有しあって、実は縛り合っちゃってる。それがすごい不自由を生み出しているんじゃないかってことがだんだん見えてきたわけですね。


三木
そこは対談の1回目2回目でも繰り返し言われてきていて、本当に大事なところだと思うんですけど、今回は「本当に自由な社会」テーマで、そこで深く掘っていきたいんです。「○○しなくちゃいけない」とか「○○してはいけない」ってことは、自由とは真逆だって頭でも分かりやすいことじゃないですか。


小野
そうです。はい。


三木
自由っていう言葉は一見「自由」じゃないですか。何も縛らないことが自由と言いながら、実際に、自由な社会を求めて上手くいかない。今の現状の考え方だと、社会と個人において、個人の自由と社会は対立的ではないにしても、個人の自由と公共の福祉とか、個人の自由と社会の秩序という対立的なもののバランスをとる必要があるという感じで、民主主義か、あるいは一党独裁の方が効率がいいよとか、何かそういうような議論になるんですけど、アズワンが目指している本当に自由な社会はそういう議論と全然違うからこそ、次の社会で、本当の可能性だと思ってるんです。そういう文脈の中で、今の「キメつけ」とか、そういうのが縛っているということも含めて、自由っていうこと、自由な社会ってのを語っていただければと思います。


小野
そうですねえ
なかなかのテーマだし、今の社会からしたら、かなり根本的な問題を含んでいますね。今だったら社会っていうのは、「守らなければいけないことがある」「守らなければいけない法律がある」そういう秩序がある。それを守ったうえで個人が自由にするって、それを当然のようにしていると思うんですよね。だから、「守るべきものがある」、それが社会だっていうね。その中で個人の自由があるんだ。だけど、それではやっぱり本当に自由にはならないと思うんですよね。
さっきも言ったけど、元々フィクションというのは、無いものをあるとして人間が考え出したものでしかないわけですから、本来は、「人間がこうしなければいけない」とか、「こうしてはいけない」っていう人間の考えをちょっと置いてみたら、元々そういう人間を縛るものなんか無いと思うんですね。元々は。
サイエンズっていうのは、Scientific Investigation of essential nature+ゼロということで、科学的本質の探究+ゼロなんです。ゼロには無とか空とかですね、元々って意味を含んでいるんですけども、元々の姿に立ち還るっていう願いも込めてサイエンズってZを使ってるんです。人間が「こうしなければいけない」「こうしてはいけない」っていう人間の考えを置いてみたら、「何をしてはいけない」とか、「何をしなきゃいけない」っていうことは元々は無いわけです。そこに立ち還ったら本来は元々自由である。これはちょっと普通の考え方としてはちょっと分かりにくいかもしれませんが、、、。


三木
そういう話を聞くと、割とすぐ、例えば無政府主義者か、というような話が出てきますね。


小野
アナーキズムとかね、、


三木
ですね。


小野
だから、「しなければいけない」とか「してはいけない」っていうことが、フィクションだっていうことですよね。例えば「規則」を、じゃあ「無政府主義」だったら、「そんなものは一切なしだ」、そういうことになる。そういう思想もあるかと思うんですけど、サイエンズでは、そういうことではないんです。例えば、規則とかルールと言っているものでも、「しなければいけない」とか「してはいけない」という「人を縛る部分」がテーマだと思うんです。例えば「こういうふうにしよう」とか「こうゆうふうにやりましょう」ということ、そういうフィクションもあるかと思うんですけど、そういうことを別に無い方がいいと言っているわけではないのです。先ほどからも出てますけど、フィクションを共有することで多くの人が協力できるというフィクションの力は大いに活かしたいわけです。今の社会は活かすだけではなくて、それに人がどんどん縛られるように、そのフィクションが逆作用を起こしてしまっている。つまり、強制、束縛などで、どんどん縛られてしまうという、そういう作用を持っていると思うんです。フィクションの良さを、持ち味を活かして、フィクションを共有できるっていう、その人間の能力を活しながら、縛ったり、強制したりとか、そういう要素を取り除いて、縛らないフィクション、強制しないフィクションというもので社会を構成できるんじゃないかっていう実験をしている感じがしますね。
だから、「しなければいけない」とか「してはいけない」は、人間のフィクションにすぎないのわけですから、元々に立ち還ったら、元々自由なわけですよね。
「自由になる」と言って、自由を求めていくと逆方向になってしまうわけです。例えば今ある強制とか束縛を、今度はまた強制とか束縛することで、自由を獲得しようっていうことになってしまう。「しなければいけない」ということを「してはいけないんだ」みたいに、どんどん複雑化している。そんな感じもするんです。


三木
自由を求めて束縛するものに対抗するとか抵抗するとか、自由を求めて逃走する、勝ち取るみたいなことがずっとこれまで続いてきた人間の歴史かなっって大雑把に言うと思うんですが、そこと本当に自由な社会とはどういう違いがあるかということですよね。


小野
もともと自由に立ち還ってみたら、そういう「しなければいけない」とか「してはいけない」とかということが無いわけですよね。そういう中で、さっきも言いましたけど、だからって「何もしなくていいんだ」とか「規則もルールも無しで」とか、「それぞれが勝手気ままにやったらいい」ということじゃないんです。一応「こういうふうにしようか」とか「こういうふうにやってみようか」って、みんなで「こんなふうにやろう」という感じで、フィクションを共有しながら、より協力できるような仕組みとか生み出していけると思います。そういうのはどんどん生かしたらいいと思うんですね。ただ、それをやらなかった人に対して罰を与えたりすると窮屈になりますよね。一応決まったことについても、やらなくてもいいということが認められなくて、そこから外れている人を責めたりすると、窮屈な社会ができてくると思うんです。「一応こうしようか」という時に、「やりたくない」って人の気持ちも聴きたくなる社会ですね。「どうしてやりたくないのか」とか「こういうふうにしてほしいんだ」とかいうことが、強制とか束縛なく、やらせたり止めさせたりということなく、話し合っていける社会ですね。
 そういう中で本当に自由な社会っていうのができてくるんじゃないかっていうことが見えてくるんですけど、今の話は、今の社会からすると、ちょっと分かりずらいかもしれない。。。


三木
束縛の無いところでやっていこうっていうコミュニティや人の集団の中で、それがまた束縛になっちゃうみたいなことに、アズワンは直面した。最初、自由な社会を今度こそ作るぞって言ったのに、自由にやってるやつを見ると腹が立つ、束縛がイヤだって言いながら、自分からすると「あれはちょっと許せない」みたいなことを、やっぱりみんな思っちゃう。そのあたりのところで何でだろう?ってことでサイエンズメソッドとか自分を調べるということが出てきたということですが、その辺りをもう少し話してくれますか。


小野
僕も自由な社会をずっと願っていました。学生時代から束縛されるのはイヤだなぁと思って、自由に生きたい、自由な社会をつくりたいって思って、新しい社会をつくろうって活動してきた感じがあると思います。でも、そう言いながら、やっぱり自分でもこの社会で育ってきて、自分は、特にスポ根みたいなものが根強く染み付いてしまっていたんです。野球とかやって、スポ根ですごい育ってるんで、知らない間に社会に対する観方、社会観ができていて、「約束は守らなきゃいけない」とか「決めたことはやるべきだ」とか「みんなの和を大事にするべきだ」とか、そういう社会観が出来上がってしまっていたんですね。あと責任感ですね。「決めたことは最後までやりぬく」とか、そういうものが知らないうちに自分の観念に入っているわけです。言ってみたらその反動みたいな感じで自由を求める。そういう縛られている観念から抜け出したいみたいな欲求が、多分あったんだと思う。それってすごく自由を求めていたりもするんですね。そうなってくると、口では、とか、願いとしては、ハッキリ「自由な社会」「自由にやろうよ」って言うんですけど、いざ自分がそういう場面になると自由を認められない。例えば職場とか、仕事で「明日、じゃあ何時から、たくさんお客さんから注文あるから○○時に集まろう」って言ったら、「○○時に集まるべきだ」というのがなんか当然みたいになっているわけですね。だから、そういうキメつけている自分の「当然だ」というものをベースにして見るから、そこに来ると言った人が来ないと、「なんで来ないんだ!」みたいな形で、すごい責めるようなことになってしまんです。そういうキメつけたものがものすごく自分の中に一杯あるってことに直面したわけですよね。だから、自由を唱えながらも全然自分の中が自由になっていない。そこを解決しない限りは、いくら「自由な社会」と言ってもできないんだってことを、2003~4年頃にハッキリしてきたのです。自由ということは、社会としてのテーマでもあるわけですが、実は自分の中の思い込み、キメつけに向き合わないと進まないということですね。そこで自分の思い込みキメつけを調べていく、探究していく、サイエンズメソッドが見出されていくということがあったわけです。そういうプロセスがありました。


三木
今の聞いていると、「○○時に来い」って言ったのに来なかった人を責めちゃう、そういう自分の中にキメつけがある、そこで自分を調べる方向にサイエンズメソッドはいったということなんですけど、そこで「いや、それはそうは言っても会社の今目の前のやらなくちゃいけないことをやるためにはそんなこと言ってられないだろ」っていうのが普通で、そういう理想論はポーンって吹っ飛んじゃって終わりみたいな、寝言言ってんじゃないよ、みたいな感じになると思うんですが、そこはなぜそういったのか。しかも、それでちゃんとうまく今まわってるわけですよね。


小野
そうですね。


三木
そのあたりがみんな知りたいところだと思うんですけど。それで何故うまくいけるのか?


小野
三木さんの表現がすごく言い当ててると思うんですけど、「理想はそうだけど現実を見ろ!今この仕事があるじゃないか」。やっぱりそうやって理想はあるけど、「現実は守らなきゃいけないことがあるだろう」「注文があるだろう」って。だから「理想はそうだけど、現実はこうだろう」と言って、「現実は」っていう方で生きると、結局は「しなければいけない」ということをくり返すわけですよね。そこで、「現実はこうだろう」としてやっている限りは、ずっと「やらなければいけないこと」を肯定した社会を毎日、日々積み重ねているんだっていうことに、そこに気づくわけですよね。だから僕らは本当に何がしたいのか、本当にどっちに行きたいのかって問い直したわけなんです。理想としている本当に自由な社会をつくりたいんだったら、本当に理想とすることを今、実現しなかったら、いつまでも夢の話をしているだけになってしまうわけですよね。「やらなければいけない」ということを肯定し続けて、「やらなければいけない」っていうことをやりながら、それ以外の時間で「やりたいことをやる」っていうふうになっているんじゃないかなって思ったんです。


三木
そうですね。今、非常に面白いなと思うんですけど、今の現状の社会は現状の社会のままであって、今、不満はそれこそネットを見てても渦巻いていて、何かあるとワァって不満が出てきますけど、社会に対して、まさに今の「理想はそうだけどそうは言っても現実があるから」ということで現実を選び続けているのが、今の社会の中にいる人じゃないですか。それをなぜ小野さんたち、アズワンの人たちは、なぜっていう問い方がいいのかどうか分からないですが、そこが決定的で、普通はそこでいつも「そうは言っても現実が」っていうところでいまの社会がずっと続いていると思うんです。


小野
そこがやっぱり一番のポイントだと思っています。「そうは言っても現実が」って言ってますけど、さっきも言いましたけど、そこが考えどころなんです。「現実は」って言ってますよね。「やらなければいけないことがあるでしょ」と言いますよね。「現実はやらなければいけないこともあるでしょ」というところですね。さっきも言いましたけど、「やらなければいけない」っていうのは人間の考えでしかないですよね。現実に「やらなければいけないこと」があるわけではなくて、「やらなければいけない」と思っているということですね。だから現実は、「やらなければいけない」ことはないんじゃないか!ということなんです。ここが決定的に変わるわけですね。人間の考えというものがどういうものであるかを知ると、現実には「やらなければいけないことがある」のではなくて「やらなければいけないことがあると思っている」ということでしかなくて、現実にはやらなければいけないことはないんじゃないかっていうことに気づくわけです。



つづく
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