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「本当はどうだろう」は、まるで天に向かって伸びる木の枝葉のようにあらゆる可能性。アズワンセミナーに参加してみて

11月のアズワンセミナーに参加した城所壮汰さん。
今回参加した感想をシェアしてくれました。
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僕らはこの世界をどのように捉えているのだろうか?
おそらく日常生活において、「私の耳の聞こえ方や私の目の見え方はどうなっているのだろうか」などと真剣に考える人はほとんどいないのではないかと思う。そんなこと考えてないで勉強しろとか、働けと言われるのがオチかもしれない。

実際、人間の目も耳もたいして当てにならないのだが、聞き違いや見間違いはまるで起こっていないように人は振る舞う。
知識で人間について知ることは出来ても、自分のことはまるで知らない。自分のことを知らないと、世界についてもありとあらゆる知識を蓄えたとしても世界のそのものをあまりに容易に捉え損なってしまう。そんなことをアズワンセミナーを通じて気がつかされた。

僕はけっこう自分は飽き性だと思っていた。次々といいなと思うアイデアが浮かぶからか、どんどん次にいきたくなって、計画は立ててもすぐ破綻しがちで、プロジェクトぽいのはだいたい終わりに辿り着かない。その様子を自分でも他人からも飽きっぽいねと言われそうだと思いこんでいた。

調べてみるとどうやらそうでもない。それは僕の性格というよりも、言い出しっぺがやらないといけない、一度始めたことは最後までやり通さないといけない、責任が負える範囲で物事すべき、責任者がより重い責任を負うべきなどなど、それらが今の社会で醸成された価値観であることが見えてきた。

そして、僕はそれらをなぜ前提にしたのか、いつから採用しているのか、それらの価値観は人の役にたってるかなどなど考えてみると、僕が飽き性なのかどうかは途端にぼやけてくることがわかった。僕自身の別の側面によくよく注意を向けると、毎日飽きもせず歯を磨くし、ご飯も食べるし、飽きもせずこんな文章を書いている。正反対の凝り性とも思えてくる。不思議だ。

僕らは見たいように見て、聞きたいように聞き、感じたいように世界を感じる癖があり、なぜかその見え方、聞こえ方、感じ方が世界そのものだと思い込んでしまう。

あるとき誰かに言われたり、あるときテレビや道端、家庭で見たり、感じたりしたことがどういうわけか自分の一部になってしまう。まるであなた自身は意図的に選択してこのような考え方や振る舞い方を身に着けてきたように思うかもしれない。本当はどうだろうか?

もしあらゆる思考は自分のものでもなんでもなく誰かの考えの寄せ集めであることをみんながわかりながら暮らしたらどうなるだろうか?

AさんがBさんにいかなることを言ったとしても、どちらの口から出る言葉も誰のものでもない。誰の言葉でもないから無責任なことも非難することもない。そもそも発言者を非難したり責任を負わせたりして何か変わるだろうか?非難や責任ってなんなんだろうか?非難や責任と口にしたくなるあなたの言葉の裏にはどんな思いがあるんだろうか?

通常、人は言葉を文字通り受け取りよく傷ついたり怒ったり悲しくなったりするが、それはどうしてだろう。

悲しくさせる言葉、怒らせる言葉、傷つける言葉。言葉は音であったり書かれた文字として認識されるけれども、それ自体は何もしてこない。ならばどうして感情が湧いてくるんだろう。何が自分な中で起こっているんだろう。
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そんなことを皆で炬燵でお茶を飲みながら和やかに話し合ってみる。
僕はずっと自立しなくてはとか、自給自足はいいもんだとか、思っていた。

一人で生きていく力をつけなくてはと思うから、稼げるようにならなくては、食っていける技術や知識を蓄えなくては、と変に一生懸命肩に肩肘張って仮想世界に対峙してきた。これからはどんどん頑張らないで生きていこうと思う。

その辺の広告や宣伝を見渡すだけでも自分らしさとか、個性とかいった言葉が溢れているから、物心ついた頃には「一人でやらなきゃ」に囚われてしまう人は、きっと自分以外にもたくさんいるんじゃないかと思う。

目隠しを外してよくよく世界を観てみると、「な〜んだ」と言いたくなるくらいシンプルで奥深いことがわかってくる。心配や不安ではなく、安心して「じゃあ、どうしようか」とみんなで考えることができる。

この世の中、家庭内のいざこざから社会・環境問題に至るまで大小ありとあらゆる問題が提起され、日々多くの人が解決に勤しんでいる。これはこうなってると決めつけたときから、なんだか世界は色褪せて味気ないものになっていくようだ。魔法の質問「本当はどうだろう」は、まるで天に向かって伸びる木の枝葉のようにあらゆる可能性と方向性を示してくれる。

反対に決めつけは、ある解決に辿り着くためにお尻を叩かれるイメージだ。速いほうがよしとされるからか焦る気持ちなんかが湧き出てくる。
さて、あなたの人生は問題の解決のためにあるのだろうか?問題は本当に問題なんだろうか?

炬燵での一週間おしゃべりは、どんな話題になっても終始和やかで心地よいものだった。人がより人らしい姿で暮らす。

小さな社会から拡がる大きな社会。それはまったく見た事もない姿ではなく、どこかで誰しもが見たり感じたりしたことがあるような温かくてやさしくて懐かしいものかもしれない。

そっちが当たり前の未来はわりと近いうちにやってくるんじゃないだろうか。
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