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【アズワンスタイル実習プログラムに参加して】 落合圭太さん

アズワンセミナーに参加して、その後アズワンスタイル実習プログラムで約一か月、鈴鹿コミュニティに滞在しながら、その暮らしを体験した「落合圭太さん」。

どんな体験だったのでしょうか。 一か月を終えて今、感じたことをレポートしてくれました。
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※写真左が「落合圭太さん」。 各地のコミュニティで暮らしながら体験している

11月19日~12月22日までの約1ヶ月間、実習プログラムを利用してアズワンの暮らしを体験した。

実習では、主に職場体験としてコミュニティが経営するファームやお弁当屋さんで1日に6時間程度はたらき、夕方に1時間程度、ミーティングとしてサポートスタッフにその日感じたことを伝えて話し合う、そんな日々を過ごした。また、実習生が暮らすアパートやコミュニティの人たちが集うダイニングで人と交流するとともに、これらの暮らしの場を体験した。

アズワンで暮らし感じたことはたくさんあったが、特に印象に残ったことについてまとめた。

【“挨拶”を通して感じた、“人とのつながり”とその“ベース”の違い、世界観】

実習生として暮らし始めてまず僕が感じたこと、それは「ここではみんな、“挨拶”というものをしないのだろうか?」という違和感。
例えば、初対面(に限らず)の人と食堂で会った時、職場に着いた時、家の廊下ですれ違った時。僕の方からこんにちはーとか、会釈したりしても、「・・・」と反応がなかったり。また、はじめましてとか、名前を名乗ってから相手に尋ねた時にも、返してはくれるけど、「なんでわざわざそんなこと?」というようなニュアンスで苦笑いされるような印象を相手に感じたりすることが多々あった。

コミュニティで暮らす人たち同士の普段の様子を観察してみても、みんな挨拶のようなことはほとんどし合っていないように見えた。
「もし僕の方から挨拶や名乗ったりしなかったら、きっとこれらのやり取りは交わされないに違いない」と思い、僕から挨拶をしないで過ごしてみる実験をしてみたりもした(結果、ほとんどないなと感じた笑)。

また、「“敬語”や“ありがとう”が使われていない」という印象の違和感も感じた。
例えば、職場で祖父母と孫ほどの年齢差はあるであろう人たちの会話を聴いていても、孫世代の人が普通にタメ口で話している。また、僕にはその人が何かを“やってもらった”ように見えた場面においても、“ありがとう”という言葉が発せられるのを耳にすることがほとんどなかった。実際に僕が触れ合った中でも、同様の印象だった。

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※圭太さんの地元「藤沢市」では、アズワンの探究体験会も開催している

もちろん、これらの例は全て僕が捉えた認識上のことであり、数多くあったやり取りのうちのごく一部ではあるけど、僕にとっては印象的な出来事であり違和感だった。

「(特に初対面では)挨拶はするもの」
「挨拶がないと、名前を最初に名乗り合わないと、良い関係性は築けない」
「お互いに嫌な気持ちになる(に決まっている)」
「まずは敬語から入らないと失礼」
「親しき中にも礼儀あり」

礼儀、マナー、義務、謙虚、謙遜・・・

長年染み付いた固定概念・反応として、これらが今も出てくる自分はいるけど、ここで僕が感じた、挨拶や敬語、ありがとうを言う・言わないの“現れ”の違いは何なのか?どこから来ているのか?ここで暮らす人たちの内側はどんな感じなのだろう?

自分で想像したり、人に聴いてみたりしながら過ごす中で見えてきたのは、人とのつながりにおける「前提、ベース」が違うのではないかということだった。
僕の中に感じたのは、人とのつながりや関係性というものが、挨拶や敬語、ありがとう等のある種形式的なものによって容易に左右されうる、「とても危うくて表面的」なものだったということ。人に対しての基本的な見方の中に、警戒や疑い、不安的な要素があって、そこから関係性がスタートしていくから、挨拶等にも意識が向くし、それが人とつながっていく・関係性を作るための大事なツールだったりする。いつの頃からか、そんな感覚が染みついて習慣化し、人との間を生きてきた自分を感じた。

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※2022年7月に【アズワンセミナー】に参加

一方、アズワンの人たちからは、人とのつながりや関係性というものが少しのことでは左右されない「揺るぎなさ」を感じた。人へ警戒や疑い、不安というものが薄く、自分の中にあった、人に気を遣うとか、遠慮をするといった感覚もあまり感じられなかった。
挨拶等が全く交わされていないという訳ではない。でも、それをする・しないで人とのつながりや関係性が本質的に変わるものでもないから、わざわざ当たり前にするものでもないし、そもそもそこに“意識”がない。そんな感覚が、ここで暮らす人たちのベース、“当たり前”になっている。人への警戒や遠慮等の「ベース感覚の違い」が、挨拶等の “現れ”の違いになっているのではないかと思うようになった。

現代社会で挨拶や敬語、ありがとうを言うのかどうかや、その良し悪しは別として、

もし自分の中に、人という存在に対しての心からの安心感があったら。
人とのあいだに、本当の家族のような間柄があったら。
それが当たり前の世界だったら。

人に気を遣う、遠慮をするという“概念そのもの”がなくなり、
挨拶をしてもしなくても、どちらでもいいし、
わざわざ敬語を使わなくてもいいし、
あらためてありがとうと思わなかったり、言わなかったり、
本音で何でも言い合える、認め合える。

「本来の人間」の姿って、そういうものなのかもしれない。

ここでの暮らしを重ねていく中で、当初抱いていた違和感がどんどん薄れ、人との間に自らがつくっていた形式的な壁、囚われが小さくなっていくのを感じたのとともに、As One(元々一つ)の世界観を垣間見たような、そんな印象的な体験の一つだった。
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