<< ドイツ サステナを学ぶ旅(3)ツイーベンリンデンへ | main | ドイツ サステナを学ぶ旅(5)バウハウスで考える >>

ドイツ サステナを学ぶ旅(4)ルター500年祭



時代を超えた普遍性とは Hiroko Katayama




ゼロに立つ 

ハーンさんに曰く、「ルターは、ただ情熱や正義感ではこれほどの仕事は出来なかったはずだ。旧来の宗教観に圧倒的に社会全体が覆われている時、ゼロのところまで何度も自分の内面に向けて本当はどうだろうかと問いなおしたからこそ絶対安定的な心境に立てたのだと思う。だからこそ、最初の一人として、これまで誰も声に出せなかったこと、生き方を表現することが出来たと理解している。」ハーンさんは、サイエンズ(Scientific Investigation of Essential Nature+Zero)によせて、その「ゼロ」の、時代を超えた普遍性を強調する。

きょうは文化の日にしようということで、ルター500年祭を祝うヴィッテンベルグを訪ねることになった。ルターにはそれほど関心を持ったことがなかったが、ハーンさんのこの言葉を聴いて、すっかりその気になって----。1517年の公開質問状を出して以来、ちょうど今年の10月がその500年目に当たるということで街をあげてそれを祝っているということでしたが、平日ということもあって、ヴィッテンベルグは中世の趣そのままを残した閑静な空間。石畳の美しい街並みの端にある、ルター時代の教会の並びがユースホステルになっていて、そこに宿泊することが出来たのはラッキーでした。

自己との対話だけでは、探究は進まない。
ルターが自分の本心のところまで深く潜って自己との対話を繰り返し、揺るぎないところで、自分の本心からの言葉でシンプルに語り始めたことで、その本心にまた、率直に、自分の本心で反応する人たちが集まっていった。そうしたお互いが、主体的に探究しながら、本質的な方向に問い直していく作業が繰り返されたのだろう。そうした探究の環境があった。

天国か地獄かどちらに行くかではなくて、自分に問いかけること。神との対話は教会に行くかどうかという外面では決まらない。と、主張した。
当時のヴィッテンベルグはヨーロッパでも有数の、特に宗教に関する研究がすすめられたヴィッテンベルグ大学を擁した文化の中心地として多くの才能が集まっていたようだ。聖職者は単に宗教学だけにとどまらず、天文学やギリシア哲学など、学究の徒も多くあったようだ。ルターもその一人だった。





時代は、宇宙の仕組みを探究するもの、人体への探究、実際の構造を知ろうとする動き、さらに、グーテンベルグの印刷機の登場など、大きく変わりつつあった。ルターはまず聖書を、一般の人たちが読めるものにしようとして、平易なドイツ語に翻訳したが、それに呼応して聖職者だけではなく、市民の中で、知的な方向に目覚めていく人たちが出て、ヴィッテンベルグ市長もその一人として、ルターとその生き方に賛同をし、ルターによる聖書を精力的に印刷してヨーロッパ中に広めることになった。そして市中の人たちと、聖書そのものへの理解を深めてこうとした。

そうした活動が別のところで対立構造を生んで、大きな殺りくを繰り返す戦争にまで発展したことは痛ましい。そうした不要な争いを引き起こすことなく進むとしたら、私たちはこの歴史の中から、何を学べるだろう。

中世の信仰や価値観を支えていた理念には、アリストテレス的な世界観や人間観が大きく影響していたようだが、ルターは女性を人間として対等な存在として向き合っていった。
一つには、女性が実は読み書きできる知性を備えていること。彼は女性にその力を認めて、女性たちに聖書を通して読み書きを教えた。また、聖職者は結婚を許されていなかったが、公に結婚を公言し、妻や家族の暮らしを大事にしながら、妻や周囲の人たちの力とともに、活動している。ルターの心がやさしく満たされていたことだろうと思う。











サステナの旅(5)「バウハウスで考える」へつづく

サステナの旅(1)  サステナの旅(2) サステナの旅(3)
- | -