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『けんさん科学』第2号の感想 (1)

『けんさん科学』第2号の、感想です。

【自分を知るってどんなこと・・】 津市 宮地昌幸さん

 どんなことでも、パソコンで検索すると「どういうこと?」「こういうこと」と分かってしまう。
わかってから、いつも「だからなんだっていうんだろう」と言う気持が尾をひいている。
 最近、高校3年生の女の子たちに「自分って、どんなものだろうね」と問いかけたところ、
「パソコンでしらべてもいいか」と言う子がいて、あきれたという話しをある人から聞いた。
わが身をふりかえってみて、あきれてばかりいられるかどうか。
 研鑽科学2号「特集 内観と心の健康」を読んだ。ヤマギシズムに出会って、かなり「じぶんと向き合う」ということを、自分にも言ってきたし、他の人にも説いてきた。
それで、やってきた。出来ているとまでいかなくとも、長いことやっているんだから、いい線いっている、身についているぐらいに、無意識に思ってきたふしがある。
このごろ、ほんとにそうだろうかと、そんなこと、感じるようになっている。
 井川さんは、「自分に向き合う」とか「自分を観る」というのは、どう思っているとか、どう思ったということを<観る>とは言わない。「自分の言葉になる前のもの、実際にあるものを直視することではないか」と、いろいろな表現で、なんども、なんども言われているように受け取った。
ああだ、こうだと、自分のことを解釈し、その解釈からいろいろな言動、振る舞いにあらわれていそうだ。「思う」ていどのところで、「ぼくは向き合っている」としてきたかもしれない。
井川さんは、<観る>というのは、難しいことは要らないという。自分が蓋をしてきたこと、ぱっくり開けてしまったら、どんなことになるか、不安である。不安な思いはあっても、それはそのままにして、実際を<観る>をやったらいいだけで、簡単という。
いずれにしても、ヤマギシズム社会とか、全人幸福とかいっても、どうも自分の心身の健康・幸福をしらべるところから、はじめるほかない。「それを、ぼくは、やってきた」と思っていたけど、実際どうだったか、どうも検証のときだという感じがする。
 「知る」「観る」「しらべる」、何千回と口でいってきたけど、これはいったいどういうことをすることだろうか。

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