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2ndCSS「社会・人間・心の“豊かさ”を探る」~科学技術の先にあるものとは~《2》





2nd Crossover Study Sseeion (CSS)
「社会・人間・心の“豊かさ”を探る」
~科学技術の先にあるものとは~ 《2》


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出席者 内藤正明(京都大学名誉教授、滋賀県琵琶湖環境科学研究センターセンター長)
    真保俊幸(ScienZ研究所)
    小野雅司(ScienZ研究所)
    坂井和貴(ScienZ研究所)
    片山弘子(GEN-Japan代表)

1.何のための研究か? 専門化し細分化している現状

現実の問題から乖離していく研究

内藤 もともと私は日本で最初に総合解析という研究の必要性を強調し、 そういう研究組織を創った先駆けだと思います。
 
片山 そうですね、やがて国立環境研究所の総合解析部として、 地球​温暖化を防止するためのシミュレーションなど国際的に影響力を持ち、現在は東近江でも生かされていますね。

内藤 創設​した​当時は、「何だそれは?」という反応でしたけど、 今では総合解析という言葉はいろんな場面で使われますね。現実の問題を本気で扱おうとしたら、あらゆる専門分野が関わってこざるをえない。ところが、今の大学でいうと、もともと細分化した研究分野を対象とするわけでしょ。それで“何とか経済学”の“なんとか分野の専門”だとかね。そして若い人は“その分断された狭い分野”に入って、その中でずーっとやって、またそこで偉くなっていくわけだから、世の中の現実とは直接は関係ないんですよね。

現実に何が問題かは関係なく、~~研究なんて言ってますが、それに合った論文を書いて、教授になるけど、実際に日常起きている出来事と関係ないことが多い。そこで誰もやってない研究して教授になったというわけですね。外の人は、偉い学者が学会という特殊部落で活躍しているということが分からないし、肩書に弱いですけどね。

小野 なるほどね、そういう構造になっているんですね。


内藤正明さん
技術の進歩は失業者を作る?

内藤 私も最初そういうのって知らないもんだから、それが当たり前とやっていたら、さっきの話(アカデミー生との対話のこと)の出たように、現実の問題を扱ったときに、自分の習ってきた分野の知識だけでやったら、実社会と大きな乖離があって、最後は裁判沙汰になったりしました。なんで裁判にまでなって、そんなことを言われるんだろう?

私は大学、大学院で習った技術で最善の計画作って、その限りではどこも間違ってないはずなのになんでなんだろう?ということです。だからまさに、技術の範囲の中ではそれで正解だったとしても、その結果がもたらす社会的な影響というようなことは当時特段に考えなかったということです。

私はそこで引っかかって、技術の社会的影響とかその評価といったことに関心が移っていきました。特に、技術がもたらす社会への影響が気になりだしたのは、同窓会での話でしたね。大手の鉄鋼会社に行った友達が同窓会で、「このごろ技術進歩はすごい。昔100人いて作っていた鉄が、今は10人もいたら出来るようになったんや。技術の進歩はすごい」っということです。その時に私は、「それで不要になった90人どうした?」って訊いたら、
「え~、それは知らないな」っていうことでした。

技術の進歩は確かに素晴らしとしても、一方で90人失業者つくって、その進歩というのはなんだろうという疑問ですね。だけど技術屋としては、そんなことは技術開発では考慮に入っていない。私はそこに引っかかって、“技術が社会にとって役に立つっていうのをどう考えるか”ということですね。それはすでに技術の倫理という課題としてはありましたがね。


真保さんと片山弘子さん


総合研究の面白さ

真保 その総合解析というのと、こうなんて言うんですか、セクションに分かれるっていうのですけど、日本の大学って結構どこもどの学部も分かれて分かれてってなってませんか?
現実と合ってないのに、なぜなんですか?

内藤 分かれた方が楽ですから。自分だけの城ができて、誰にも邪魔されない。

真保 あの、僕は獣医学の専攻で北海道の大学行ってたんですけど その大学もそういう構造だなと感じたことがありました。それは、イギリスのグラスゴー大学に留学していた時のことですけど、同じ獣医学でも、あのですね~僕たいへんなショックを受けたんですよ。

例えば一症例が有ったりするじゃないですか、馬かなんかの。そうすると、その症例について、その馬を飼っている人が来ていて、その飼育者と、あとそれを診た動物病院の獣医さん、それから、大学のいろんな分野の先生たちが集まって、その症例について総合的にディスカッションするんですよ。こうなんていうか演壇みたいな階段教室で。
それでいろんな検査データもその場でオープンにされて検討が続くんです。そして、それを学生が聞いているんですよ。こんなのはね、当時の日本の大学ではなかったです。

内藤 でしょうね、面白いですねえ。

真保 もうね、一つ一つの細かいことは僕なんかも病理学ってやってましたから一日中顕微鏡ばっかり見てたんだけど。それがその~何のためにやってるのかというのが、分からない感じだったですね、実際のところ。それが、ああいう風に一症例が総合的にディスカッションされる場に学生が立ち会えるなんていうのは、ホント日本の大学にはなかった。
これは総合的にっていうのは日本人は下手なんですかね?
それか外国はそういう見方が強いんですか?

内藤 これは私が実感したことではないんですけど、昔言われたのは、そもそも学問ができたのは西洋でしょう。近代西洋科学と言うくらいですから。向こうは、実際に問題があってどう解明するかから、学問ができていった。日本は、明治になってから向こうへ行って、“出来上がったもの”を担いで帰ってきたんでしょうね。それで「これが学問だ」って言って帝国大学の教授になって、「これがドイツでは何とか、英国ではこうだ」というので、“出来上がったもの”、まずそれを覚えろということでした。

実は私自身がそのような勉強をした記憶があります。アメリカの最新技術だということで、フィートをメートルに換算するところから始まったですね。
それが既存の知識を詰め込む教育の最初なのでしょうね。
そしてね、そこに少しだけ新しいのを積み上げたらそれで、“研究”と呼ばれるものになるから。「わしの言ってることをやれ」とね。だから、新しいものを見い出すとかでなく、ちょっとリメイクしてるだけ、という時代でしたね。

真保 なるほど、実際からどんどん乖離するわけですね。


坂井さん(左)と小野さん


「お前は何屋だ?」

坂井 京都にいるウチの大学生の息子が言っていたんですけど。今、歴史を専攻していて、卒論を書いているところなんですが、教授がなにかと細目に指導してくるんだそうです。それで彼は自分で調べて、こうなんていうか自分で「どういうことなんだろうか?こういうことなんじゃなかろうか!」ていうところまでやって、そこから持っていこうとするらしいんです。

ところが教授が、「何でもっと聞きに来ないんだ?」て言うんだそうです。
それで、「どうもあの人教えたがっている」って言って、自分はある程度までハッキリさせてから持っていこうと思っているけど、行かないからしょっちゅう催促が来るので仕方なく行くことになると。
「だから、あの教授にとって僕はすごく怠慢な生徒と見られているみたいで、この先どうなるんだろうか?」みたいなこと真顔で言っていました。

内藤 自分のやっぱり全部セクトが有るわけですよね。ニッチ(隙間)を探してセクトを立てるわけですね。誰からもやられないように。そうやってどんどん細分化してきたのですよね。そして、その中で囲い込んで次の人材育てるので、本当の研究者が育たないのかも。

片山 でも、内藤先生は、それとは違う道を歩まれてきたんじゃないですか?

内藤 私はお陰で大らかな教授に着いたので、かなり自由にやらせてもらったけど、隣の教授から「君は危険な方向に行きかけているよ」と注意されましたね。ただし、隣の研究に何か云うのはタブーの世界ですから、小声でね。でも自分の指導者が認めているのだから、ということで、自由にやらせてもらえました。だから、どんどん他人の分野に入っていってしまうのですね。だから、周りの連中が気にして、「お前は何屋だ?水屋なら水を、それも浄水か下水か、領域をはっきりしろ」と脅されましたね。しかし、環境問題は水も空気も自然や生き物も社会も全部関わってくるのだから、分野では切れないです。(つづく)

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