GEN Ecovillage Summit で紹介された「サイエンズメソッド」のビデオ

4月に、GEN(グローバル・エコビレッジ・ネットワーク)開催した、エコビレッジ・オンラインサミットの中で、サイエンズメソッドが、持続可能な世界に向けての7つの解決策の一つとして、紹介されました。
スクリーンショット_-_4月19日_午後4_10.png
As One-GEN Online Summit


このビデオ(英語版)に、5ヶ国語の字幕をつけたバージョンができました。
字幕は、英語、日本語、ドイツ語、ポルトガル語、韓国語です。


また、同内容の日本語版のビデオも同時にできました。(5ヶ国語の字幕つき)
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【オンライン対談】本当に自由な社会とは? テキスト版 その4

2021-2-11youtubeヘッダー用.jpg
~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~

2020年10月25日に第1回、12月9日に第2回を開催して好評だったアズワンネットワークのオンライン対談は、2月11日に第3回「本当に自由な社会とは? 」
を開催しました。2月に動画を掲載しましたが、テキスト版ができましたので、下段に掲載します。

対談の文章は4回に分けて、毎週Webサイトにアップロードします。
今回はその4回目(最終回)になります。

第1回の対談動画はこちらから
第2回の対談動画はこちらから

 対談者は、元大手出版社の編集者で、個人の意識の覚醒と社会変革を求め続けて、一昨年アズワンに出会った三木卓さんと、アズワン初期からのメンバの一人でもある、サイエンズ研究所の小野雅司さんです。

~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~
今回の対談テキスト版 その3は、こちらから


↓テキスト版その3からつづく↓

三木
今の話の中で出てきた質問とかあるいは意見とかあったらまた書き込んで頂ければと思います。
まず小野さんに質問ということで、縛るフィクションと縛らないフィクションというコメントがあったけれども、具体的に縛らないフィクションとはなんですかと言う浜松の智ちゃんからの質問です。


小野
さっきも少しお話しましたけど、例えば普通でしたら規則やルールとか決めたら、ルールは守らなければいけない、ルールを守らない人は責められる、罰せられると、そういうのが今の現状のフィクションですね、縛りのある。
やらなければいけない、やっちゃいけないってことのある強制束縛があるフィクションだと思うんです。例えばアズワン鈴鹿コミュニティでも、ルールっていうか、「こうしようか」っていうフィクションはたくさんあるんですよ。例えばここはこんな風に使おうとか、この日にはこういうミーティングをやろうとかね。そういうのは、全部、そういうことは一応あるわけですけれども、そういうのは、一応あっても、それについて、やらなかったら責められるとか、やらない人を罰するとか、そういうことがない。「一応こうしようか」っていうフィクションがあっても、それについて、やらなければいけないとか、やってはいけないというのがくっつかないフィクション、それを人を縛らないフィクションっていうような形で言っています。例えばこのクルマは僕が使うようにしようとかいうこともね、それも僕用に使うというのも一応のフィクションですね。それで、もし、他の人が使ったからって罰するとかそいうこともなくって、「使わないでね」とか「今は僕が使うからね」とか、そういうことを責めたり罰したりとかがなく、「一応こうしようか」っていう感じですね。そういうことを縛らないフィクションというっていうことかなと思ってるんで


智子(オンライン参加者)
それもうちょっと聞きたいなぁと思って、言ってもいいかな?
ルールを決めて、責めないとかそういうのはただ言わないってだけじゃないような気がしてて。ルールは決めて、それでやりたくない人がいて、それは責めないようにしようと思って我慢して、本当は心の中で思っていても言わないっていう、そういう人達ではないような感じがしてます。そこがなんか大事っていうか、知りたいっていうところです。


小野
なるほど。これも責めないようにしようっていうのも、また人間の考えの方になっちゃうからね。また、責めてはいけませんとかやると、また違う縛りになってくるからね。そこがサイエンズメソッドの大事なところでもあるんです。やっぱその責めたりとかそういうことがないというのは社会的にも、社会の仕組みの中にも責めがないとか罰がないっていうこともありますけど、そういうことが成り立つのは一人一人の中の責めとか、そういうことは罰するべきだという考えがなくならないと、いくら責めがないっていうことを掲げてもならないですよね。そこがさっきもお話しましたけど、2004年頃にね、僕らが一番突き当たったテーマでもあるんですけどね。いくら自由を掲げても、自分の中に、こうしなければいけないとか、こうしてはいけないとか、規則を守らない人は責めるとか、そういうものが自分の中にを深く入り込んでいる。そういうキメつけとか思い込み自体をどうなっているの? 自分の中のそのキメつけていることを、こうじゃなきゃいけないと思っているその自分の中の固定化されたフィクションに気づいて、「あ、それが本当に思い込みなんだ」「自分の単なるキメつけなんだ」ってことに気づいていく。そのプロセスがないと今言った縛りのないフィクションっていうの実現しないですよね。
そこを調べてくるのもこのサイエンズメソッドのすごく大事なポイントになるかなと思っています


三木
八重樫信子さんからの質問なんですけれども、わかっちゃいるけど、その矛盾を繰り返す理由として、お金、所有に対する考え、それらがないことへの恐れの縛りが大きいように感じます。
その従来のフィクションに対して新しいフィクションに移行するのに必要なプロセスも聞きたいです。

このわかっちゃいるけどって、補足すると理想と現実っていうところですよね?


信子(オンライン参加者)
そういうようなループになるというところです。


小野
はい、そうですね。これも、一人でやってるとなかなかっていうのはあると思うんですよね。この壁を超えていくというのは、なかなか簡単ではないという感じが確かにします。そこがコミュニティをつくるって事の一つの大きな意味だと思うんです。例えばお金とかね、さっきの規則とかがないとか言ってもね、一人では、周りが圧倒的に「そういうのをやったらあかん!」とか、やったら責めるという人の中では、なかなかそういう観念も変わっていかない、移行できない。結局また自分も自発的服じゃないですけど、またそれに従ってしまうっていうようになってしまう。それの繰り返しになるっていうのは、個人とか、2~3人という規模だと、やっぱり、そういうふうになりやすいのだなぁと思ってます。そこをコミュニティーという単位で、5人とか10人、今だと僕らは200人とかそういう単位になってきますが、そういうコミュニティの力が大事だと思うんです。今だと一般社会の力の中に、個人がいて、それにもう巻き込まれて、そういう観念にどんどん服従せざるを得ないっていうね、そういう力にこう巻き込まれていくと思うんですけど、逆にコミュニティ単位ができると、本来の方に行こうとする力がどんどん出てきて、お金とか所有とか、なになにしちゃいけないということから解放されていく。そのエネルギーは、コミュニティの力でなっていく。個人でこういうのを悟っていくのではなくて、悟るって表現ね、第一回でもありましたけれども、そういうのを知っていく、そういうふうな人になっていくということですが、やっぱり、みんなで成り合ってくっていう要素が、欠かせないんじゃないかなっていうふうに思います。


三木
今の話にも関わってくるんですけども、香川さんから自発的服従から解放されるって心地いいですね、ということなんですが、自発的服従についてもう少し補足してもらっていいですかね?


小野
そうですね。自発的服従というのは、僕たちが作った言葉じゃなく、自発的服従とか自発的隷従という言葉で社会学の中なんかによく出てくる言葉ですけども、自分自身は自発的主体的であるかのようだけれども、客観的に見ると、規則とか制度に服従してしまっている状態を自発的服従とか自発的隷従とか言うらしいです。
それが、この「やらなければいけない」っていう社会を構成してしまっていると思うんですね。やらなきゃいけないよっていくら言っても、周りが全然そんなことを無視していたら、それは成り立たないわけですよね。例えば一人の人がこれはやらなきゃいけないんだって言っても、周りの人が「何ソレ?」「そんなの関係ないじゃん」って言ったら成り立たないわけですね。やらなきゃいけないっていう人がいて、それはやらなきゃいけないことがあるんだというふうに服従する人がいて、初めてそういうやらなければいけないっていう制度が持続してるとも言えると思うんですね。
ですから、自分が自発的服従して、しなければいけないということが、どこかに、社会の中にあるかのように言ってますけど、実はもう一人一人の中に、それが根付いてしまっているという構造になっていると思うんですよね。そういう自分の中にやらなければいけないことがある、それがフィクションととても思えない。実際にあるじゃないかっていう風に見えるぐらい自分の中に叩き込まれてしまっている。そこに一人一人が気づいていく。
自発的服従から解放されるっていうことは実はすごく気持ちがいいし、その解放された人たちで新しく、従うものがあるとかやらなきゃいけないことがあるとかいうものがない、そういう自由に解放された人同士で新しい社会をつくっていこうじゃないかっていう試みです。そうしたら本当に外から強制されるものがなくて、一人一人が本当に願うもので構成していく社会、そういうものがそこから見えてくるんじゃないかな。そういうことでも社会ができるってことと個人が自発的服従から解放される、それはすごくリンクしていて、大きなテーマになりますね。まず最初に作るときには一人一人が自発的服従から解放される、そういう人がいないと社会が始まらないと思いますけど、今度社会ができ始めると、自発的服従から解放されるのもどんどん簡単になってくると思うんですよね。
さっきの八重樫さんからの質問にもあったけど、自分がそういう人になってくっていうことと共に、社会ができることでなっていく。僕らも自発的服従を強制される社会だから自発的服従になってきたわけで、自発的服従を強制されない社会ができちゃったら、そんなね、自分から服従したい人なんているわけないですから、それから解放されるのは実にだんだん簡単になっていくっていうね、そういうプロセスになるんじゃないかなっていうふうに思います


三木
佐藤淳さんからの質問なんですけど、今の自発的服従にも関連しているところですね。対談の中で自発的服従から解放されることは、何もしなくていいっていう表現も使ったと思うんですけど、それに対して何もしなくていいというの働かなくてもお弁当を食べさせてもらえるというようなことなんですか?って質問が来てますが。


小野
えー、これはですね、ちょっと違うかな(笑)。「やらなくてもいい」っていうのは、やんなきゃいけないとか、やってはいけないってことがないってことですね。何をしてもいいし、何もしなくてもよい。だから要するに、何かしなくても責められたり、罰せられることが一切ないってことで、やらなくても弁当がもらえる、そういう権利があるという話でもないんですよね。だから何もしなくてもいいということは、弁当をあげたいという人がいればあげたい、だからもらえますし、あげたいっていう人がいなかったら、弁当もないっていうことになりますね(笑)。だから本当に一切の当然とするものがないっていう状態のことを、やらなくてもいいって表現してるだけで、なんかもらえる、それが当然もらえるということは、一切ないわけです。逆に言ったら、何もしなくてもいいっていう状態になったら、一人ひとりは自発的なもの、どの人も自発的なもので動き始めるということですね。逆に、じゃあそうは言って、何もしなくてもいいって言ったら、人間何もしなくなるんじゃないかってね、そういう意見も出てくると思うんです。それは僕はすごく違う感じがして、それは何かしなきゃいけないっていう、そういう世界の中にいたら。そうしなければいけないがなくなったらもう反動でも何もしない、遊んで暮らすみたいになるんじゃないかという、そういう風に思われるのかなと思います。だけど、人というのは、そういうものじゃない感じが僕はしていて、子供なんか赤ちゃんとか見ていたら、別に言われなくても、何の強制がなくても、どんどん成長してどんどん自分で歩くようになり、どんどん言葉を覚えて、どんどんいろんなことをしたがりますよね。そういう自発的なものがどんな人にもあると思いますね。
例えばこうやって怪我をしたら体は別に意識しなくても自然と治そうとする作用があるみたいに、人間ってのは体も心も本来健康になろうという作用があると思いますし、やっぱり人と人とが調和していきたいという、意識的じゃなくてね、調和していこうという力は、どの人も本来持ってるんじゃないかって思います。
だから何もしなくてもいいっっていうのは、要するに強制とか束縛がない、そういう状態になってはじめて、その本来持ってる、人間が健康になっていこう、人と調和していこう、より良くなっていきたいとか、そういう本来もっているものがどんどん発揮される、そういう状態を言ってるのかなっていうふうに思うんです。


三木
はい。次はですね。自由には受益者の期待を超える各主体の知性ある努力と、受益者によるその理解、合意され、最小限のルールの順守が成立の前提になると思います。私も自由の一つの形といえるオープンソースや、教育による地方創生、町おこしの取り組みに関わっていますが、まさにそのようなことを痛感します。逆を言えば、反自由(束縛)とは、例えば商業的依存で起こるものであり、それは思考停止などの怠惰が起因して起こるものだと考えます。もしも各主体の努力が取り巻く受益者の期待以下であれば、不平不満が生まれ、それから争いが生まれます。動物行動学的にも何もしないところには自由は生まれないのではないでしょうか、という問いです。


小野
難しいですね。努力なきところには怠惰があり、商業主義に巻き込まれ、思考停止になって、不平不満みたいなものが生まれるみたいな、そういう現状認識かな。
この辺りが、自由というものが元々どういうものか? 自由が生まれるというか・・・この辺りも、ちょっとこれはどういう意味か? 僕も、これだけでは、判断できないんですけど・・・。
自由も生まれるとか生まれないっていう話も、さっきも言いましたが、元々やらなければいけないとか、やってはいけないとかがなかったら、元々が自由ですよね。そういうことから言ったら・・・


三木
そうですね、今回の対談の文脈で言うと、このご意見はやっぱり自由とは獲得するものみたいな・・・


小野
そうですね。


三木
そういう感じの自由という感じで、今回話ししていた自由とは同じ言葉ですけど、違う物差しで考えているのかなと。


小野
そうですね。今の自由というのは、獲得していくというもの。今の不自由ということが前提になっていて、それから自由になっていく。各主体の努力が期待以下であれば不平不満が生まれっていうのも、やっぱり、自分達の感覚で言うと、本当に自由な中で、やりたくてやってるってことで言ったら、別にやりたくてやるわけですから、やりたくてやるって世界で、見返りとか報酬とか、そういうのは一切いらない感じになるんですよね。やりたくてやる行為ですから、期待以下とかってことはないのではないでしょうか。自分がやりたくてやる、それは相手が喜ぶか喜ばないかっていうのは、相手の気持ちがあるわけですよね。けれども、本当にやりたくてやる行為には、報酬とか不平不満とかって出ない。そういう世界かなという感じがしてるんですよね。
自由に、本当の自由に、本当に何にも束縛とか強制とかがない中で、やりたくてやる行為は、まぁ一種の遊びみたいなかんじですね。本当に自分が純粋にやりたくてやる行為。そういう世界になってくると思うんですよ。これは、今の世の中では、なかなか理解し難いところかなーと思うんですけど、見返りとか報酬とか一切ない、本当にやりたくてやる、一方的なやりたい気持ちでやる行為が、束縛や強制がなくなったときに出てくる行為なんじゃないかなって気がしてますね。


三木
うおみんさんですね
貨幣経済って自主的束縛だったんですねっていう意見があります。


小野
そうですね。
貨幣とか、交換とか、所有でもそうですけど、元々所有なんかもね、地球上のものに所有なんか元々なく、人間が所有するって決めて、「これは誰だれのもので、自分の許可なしには使ってはいけない」って、人間が決めたものですね。それこそフィクションの最たるもので、それを交換する材料としてお金っていうのがね、出てきてるわけですね。でもそれも人間のすごいフィクションですよね。すごく自由を阻害している要素のひとつだと思うんですよね。
所有をベースにしてるって事は、これは自分の許可なしには使ってはいけない、そういう束縛を前提としている交換の制度だと思うんですよね。交換しなかったら使ってはいけないって、またそこに束縛が入るわけですからね。
すごくお金を持っていたら、感覚的には自由という感じがありますが、それはお金がないときは使ってはいけない、使えない。そういう不自由な社会をつくっておいて、その中で自由を獲得しようっていう、そういう構造の一つの現れって感じがするんですけどね。


三木
そうですね。最後になるかなと思うんですけど、山ちゃんからなんですけど。科学が発展すれば生産力はあがり、科学が人間を自由にします。


小野
はい。そういう面はありますよね。。生産力がすごく上がって、どんどん自由度が上がってるっていう側面は一つあると思います。でも一方でそれを、今の所有とか貨幣とか国境とかですね、人間が「これは許可がなければ使えない」「お金がなければ使えない」っていう制限でどんどん囲ってやっていますね。物がどんどん増えてるにいる割には貧困ね、日本でも貧困がテーマになったりとか、物が豊富にあるのに、自由に使えない。そのいうことで言ったら、科学がもっと発展して物も移動も自由になるっていう事にはどんどん発展させていきたいですよね。その一方でやっぱり人間のこのフィクションで人間が縛り合うってことから自由にならないと、本当の自由っていうのは生まれないんじゃないかなって僕は考えているんですね。物はもう今でも十分に溢れるぐらいにあるのに、なんでこんなに貧富の差ができたりするんでしょうね? ブラジルに僕は行くわけですけども、すっごい立派な家の脇にも貧民街もずっと並んでる現状を見ると、こんだけ物があるのに、なんでこんな貧富の差が出るのかあって、目の当たりにすることがあるんです。これは人間が作り出したフィクションが、人と人とを囲って、物を自由に使わせない。使ってはいけない。そこから、人間のフィクションから解放されないと、科学で物が豊富になった世界を本当には活かし切れてないんじゃないかなって、そんな風に思ってしまいます。


三木
ありがとうございました。


小野
全部の質問答えられなくてどうも申し訳ありませんでした。


三木
また次の機会に話し合いができたらと思います。どうもありがとうございました。
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【オンライン対談】本当に自由な社会とは? テキスト版 その3

2021-2-11youtubeヘッダー用.jpg
~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~

2020年10月25日に第1回、12月9日に第2回を開催して好評だったアズワンネットワークのオンライン対談は、2月11日に第3回「本当に自由な社会とは? 」
を開催しました。2月に動画を掲載しましたが、テキスト版ができましたので、下段に掲載します。

対談の文章は4回に分けて、毎週Webサイトにアップロードします。

第1回の対談動画はこちらから
第2回の対談動画はこちらから

 対談者は、元大手出版社の編集者で、個人の意識の覚醒と社会変革を求め続けて、一昨年アズワンに出会った三木卓さんと、アズワン初期からのメンバの一人でもある、サイエンズ研究所の小野雅司さんです。

~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~
今回の対談テキスト版 その2は、こちらから
↓テキスト版その2からつづく↓


三木
そういう頭で、考えで縛ってたものが、ただの考えでしかないっていうことに気付くと、元々の自由である自分を知って、そういう元々自然で自由であるということを知っている人同士で、人が本当にそれぞれの自由意志でお互いに対応し合うっていうか、呼応し合うっていう、そういうシンプルな自然な社になっていくということですね。


小野
そうですね。やらなきゃいけないとか,義務だ,責任だっていう中で動くんじゃなくて、ということになりますよね。ほんとうに何もしなくていいよとなったら,働かなくなるとか、みんな何もしなくなるとか、そういうことを言う人もいますけど,そんな感じは全然ないですね。やらなくてもいいとなったら,逆に、本当にやりたいことがいっぱい出てくるとか,さっきも言いましたけど,やりたい気持ちでやってくれる人の行為を受けるとすごくうれしいし,そういう行為を受けたら,何か自分もできることをしたくなるし。縛り合いは,縛り合いの連鎖を生む感じがするんですけど,やりたい気持ちで贈る気持ちとか,何かしてあげたい気持ちとかは,それが連鎖して,それがまたやりたい気持ちのエネルギーになっていくという、そういう喜びの連鎖になってくるんですね。このコミュニティに暮らしていると,そればかりという感じ。やらなければいけないことがないわけですから,動機は,もう自分が本当にやりたいとか,やってあげたいとか,そういう動機だけになっていくわけですからね。もちろんコミュニティもまだまだいろんな人もいますし,いろんな社会の影響も受けるし,育ってきた過程で,やらなきゃいけないってことがすごく強く入っている人もいますから,全員が全員、すべて解放されて,全員が完ぺきな自由な状態というわけではないですけどもね。でもそういう社会ができつつある中で,だんだん自由なベースができた分だけ,やらなきゃいけないという空気が減るし,また新しい人が来ますから,そういう人もそういう空気に触れながら,やらなきゃいけないということから解放されるというサイクルができてきました。社会が小さいながらもできてくると,やらなきゃいけないことが実際あるわけではなくて,本当にフィクションに過ぎないんだなってことを実感しやすくなります。初期の頃は,やらなきゃいけないのは人間の考えだと頭にあっても,時間までに届けなきゃあかんじゃないかとか,そんな感じのこともずっとあったりしたんですけどね。それが,研究したり,実際どうなのかと、研究と実践を重ねながら,徐々にそういう風な方向になってきました。20年経つとだいぶそっちの方向がはっきり見えてきている感じがしますね。


三木
そういうやらなきゃいけないみたいな人間の考えに縛られなくなるって感じなんですかね。我々は植え付けられていますからね。小さいことから,あれやれ,これやれ,こうすべきだってね。


小野
徹底してますからね。しつけとか教育とか,そういう名のもとに,当然のようにやらなければいけないとか,守らなければいけないとか,守らないといけないことを守らないと罰せられるとか,責められるとか。罰とか責められるなら,積極的に守ろうかってね。そういうの,自発的服従って表現がありますけれども,自発的に,やらなければいけないことに積極的に従ってしまう,運動部なんかやっていると,積極的に従っていこうと。そういうのができちゃうと,規則を守らせたい人たちにとってはすごく楽ですよね。いちいち守らせようとしなくても,その人たち自身が規則はあるものとして,お互いが規則を守らない人を責め合ったりしますからね。そういう中で,みんながそうなってくると,あたかも,やらなければいけないことがあるみたいな,そういう見え方に自分たちもなっちゃうんですよね。そこから解放されるのがすごく大きなテーマじゃないかな。


三木
そうですよね。そういう人間を縛っているフィクションから抜け出すというのが次の社会だと思うんですが,これまでは縛らないフィクションとか,新しくフィクションを変えようみたいな,それを人民の力とか武力で,次のフィクションはこれだということで,フィクション間の闘争があったと思うんですけど,そうじゃなくて,そのフィクションから一回離れようよと。なぜなら,それはフィクションに過ぎないんだからという。そこが知性を使うってことですよね。


小野
そうそう。そこから抜け出して,本当に縛らないでやれる,人間は生きていけるんじゃないか。これは理論で話しているよりは,実際に社会のモデルを創るほうが早いしわかりやすいと思うんです。鈴鹿のコミュニティも一つの試みですから,これが絶対に正しいということでは全然ないんですが,やらなければいけないことがなくても,人というのはこういう風に十分運営できる,会社だって,やらなければいけないが一切なくても,こうやって,一人一人の意思で運営できるんだってことがね,実際に証明出来たらこれは面白いな,そっちのほうがずっと楽だなってね,思うんです。実際にあって、それを見たら、そう思われる方がだんだん増えてくるんじゃないかなと思うんですよね。


三木
そういう意味で言うと,こういう話しよりも,百聞は一見にしかずで,アズワンに行って,人と人とが,縛るフィクションから自由になって作る人間関係の,ふわっと心にしみる安心感っていうか,ほっとした感じっていうか,そういうのを味わうとああいいなって言う風に感じでもらえるんじゃないかな。実際にできてきているっていうのが。


小野
人間は,縛られたりするのは不快だと思うんですよね。それがない。今だったら縛られているものから外れるとか,やらなければいけないことをやらないと,責められるとか,怒らるとか,罰せられるとか,そういう恐怖がすごく人の心理に影響していると思うんです。いつも人の目を気にしなきゃいけないとか,報酬をもらう場合も,いい評価を得るようにとかね。絶えず人からの評価とか,人から罰せられないようにとか,人からいい評価をもらえるようにとか,絶えずアンテナ張らなきゃいけないというのはすごくストレスな感じがしているんです。そういうのが一切ない環境。本当に,やってもいいし,やらなくてもいいし,だれも責めない環境。逆に,やりたくてやっているから,ほめる人もいないわけですけどね。笑。


三木
今,150-200人ってことで,そのくらいの規模であれば顔が見える関係で,大きなフィクションなしで,回していける規模なのかもしれないんですけど,アズワンも大きく広がっていこうという次のステップに進もうっていうことだと思うんですけども,その辺のところはどうですか。


小野
今言ってくれたみたいに,150人くらいだからこの試みは成り立つんだという意見もあるんですが,今の規模だったらそう見えるのかもしれないですけど,20年やってきてひな形ができてきているので,次の10年はもっと大きな規模でやれることを実験・実証していくことが大きなテーマだと思っています。また,それが鈴鹿以外の地域,世界に,どんどんできることで,コミュニティ同士が一つのつながりを持った、そういう社会と言えるような段階の実験に入っていく。そうやっていきたいし,それで本当に縛られない世界,一切,やらなければいけない,やってはいけないがない世界がこんなに簡単にできるんだ。そして、それは,人間として快適なんだという実証をしてみたいですね。もう少しわかりやすい形で実験して,見てもらえたらという願いはすごくあります。そういう空間が増えれば増えるほど,話だけじゃないんだなとか,やらなければいけないというのは人間の考えなんだと気づいていく人が増えてくると,そのへんを見直しやすくなっていくんじゃないかと,そういう希望もあります。


三木
そうですね。何もしなくてもいいというところから生まれる社会みたいな。


小野
そうです。そこです。何もしなくもいいんです。どの人も。


三木
してもいいけど,しなくてもいい,みたいな。


小野
そうそう。そういう,一切縛るものがない状態でこそ,何が本当はしたいのかが見えてきますよね。しなければいけない状態で、何したいと聞かれてもね。


三木
なかなか出てきませんよね。


小野
しなきゃいけないことやってから,したいこと考えるとかね(笑)。そういうことではなくて,いつでもしなければいけないことは一切ない。そういう中で,一人一人が本当は何を願っているのだろうという本心で生きていく。本心でやる行為というのは力強いというか,生き生きしているというか,心からの行為になってきますから,一人一人の持つエネルギーというか,すごいものが出てくる感じがしますね。


三木
そろそろ最後なんですけども,今みたいな話を普通に聞くと,何もしなくてもいいなんて,お前はそれでいいかもしれないけど,社会のほとんどはいま生きるか死ぬるかなんだみたいな感じが出てくる。また,現実と理想という,そこに戻ってくると思うんですけども、そこのブレイクスルーを起こすのが,理屈じゃなくて,こっちのほうがいいよねっていう,サイエンズメソッドで,自分の中でそういう風になっている自分を調べていくことで,本当に本来の自由を知っていくってことですかね。


小野
僕らも,「理想みたいなことを言って,今は現実問題解決しなかったらどうするんだ」ってことをよく言われるわけですけども,理想はそうだけど,現実はこうだろうということで,現実はやらなければいけないことがあるじゃないかとやる限り,やらなければいけない社会がどうしてもできてしまう。平和を求めて戦争するじゃないですけども,そういう,矛盾した状態がずっと続いていると思うんですよね。その矛盾を解決するっていうのが根本問題じゃないかということでやってきています。この試みで今すぐの問題がすぐに解決するわけではないですけども,一切矛盾のない,本当の自由,本当に自由な世界に立った社会ができてくるってことが,遠回りみたいだけど,本当の解決になるんじゃないかな。今の社会をよくしようとしている方々の努力も非常に大事だと僕も思っていますけども,それとは別なアプローチですね。本当に自由な社会というのができるということを僕らは違うアプローチでやらせてもらって,いつかこういうことが参考になっていくとか,矛盾を解決していく一つの大きなヒントになったらいいなと思っているんですけどもね。


三木
ちょうどいい時間になったと思います。今日もありがとうござました。


~その4につづく~
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【オンライン対談】本当に自由な社会とは? テキスト版 その2

2021-2-11youtubeヘッダー用.jpg
~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~

2020年10月25日に第1回、12月9日に第2回を開催して好評だったアズワンネットワークのオンライン対談は、2月11日に第3回「本当に自由な社会とは? 」
を開催しました。2月に動画を掲載しましたが、テキスト版ができましたので、下段に掲載します。

対談の文章は4回に分けて、毎週Webサイトにアップロードします。
今回は、その2回目になります。

第1回の対談動画はこちらから
第2回の対談動画はこちらから

 対談者は、元大手出版社の編集者で、個人の意識の覚醒と社会変革を求め続けて、一昨年アズワンに出会った三木卓さんと、アズワン初期からのメンバの一人でもある、サイエンズ研究所の小野雅司さんです。

~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~
今回の対談テキスト版 その1は、こちらから

↓テキスト版その1からつづく↓


三木
大いなる変換が起きたわけですね。


小野
サイエンズメソッドの1番に「人間の考えを知る」というのを先ほどもお話しましたけど、そこを知ると、現実は「やらなければいけない」と思ったりはするわけだけど、それは思っているだけに過ぎなくて、実際には「やらなければいけない」ことはないんじゃないかって気付けるようになる。そこが見えてくると、突然仕事に来なかったりした人に対しても、責める気持ちは無くなりますね。そこが見えてくると、もちろん「来ないんだったら来ないって連絡ほしいよ」とか、「この時は来て欲しいよ」とか、そういう気持ちはありますから、その気持ちを言ったりすることはできるわけですね。「そういうことをしてはいけないんだ」と、そういうところから見ると、怒りとか、責めるのが当然みたいな発想になってきます。が、そこが「やらなけらばいけない」ことはないとか、「やらなきゃならない」というのは考えにすぎないんだというと気づくと、事実を受け止めて、あとは自分がどうして欲しかったのかなとか、どうして欲しいという気持ちはもちろんあるから、気持ちを伝えたりして、やり取りはしますけど、責めたり、その人をやらせようとしたりすることは、だんだんなくなっていくんですね。そこからだんだん自由な社会というものが見えてくるということです。


三木
そこが本当に自由な社会への大きな一歩ですよね。


小野
そこはすごく大きいですね。だから現状では、「やらなきゃいけないことはあるだろ」「守らなきゃいけないことはあるだろ」ということを事実とするし、社会としても当然だという、そういう社会に対する観方をそのままにして、つまり、「やらなきゃいけないことはある」という前提の上に、「できるだけ自由にやろう」っていう発想ですよね。「しなければいけない」っていう不自由な状態を当然とするベースで、その中で自由に生きようってなっているのが普通の社会、今までの社会かなと思うんです。だけど、僕らは、本来は元々自由、縛るものとか「しなければいけない」「してはいけない」というのは人間の考えにすぎないので、それに気づいて取り除けたら、元々の自由な社会に立てるじゃないかっていう観方ですね。


三木
なるほどそうすると、何もキメつけるものはないんだとか、元々本当にすべきことも何もない、自由であるのに、人を縛る社会観というのは、一人一人の頭の中にあって、みんながほぼ同じような社会観を持って、日々お互いにその頭の中の社会観を強化しあってるわけですよね。それこそ「すべきだ」って頭で思っていることをしないで「やらないよ」って言うと、圧倒的に責められることが多いですよね。そうすると、慌ててやっぱりその社会観に同意しないと、責め続けられるわけですよね。そのあたりが本当に自由な社会に向かっていくにはすごく大事なところだと思いますが。


小野
そうですね。だから、たぶん瞑想とか、いろんなことを深く探究された方も含めて、そういう自由な境地を味わったり、自由な世界を見ている方も多分たくさんいると思います。ですが、三木さんがおっしゃってましたけど、そういう人が一人だったら、そういう人が自由にやっていると、それが気に入らない、それを責めたくなる人だらけの社会でしょうね。そういう中にいると非常に苦しいですね。苦しいというか、いくら自分が自由で、例えば「やらなければならない」ということは人間の考えにすぎないんだと気づいても、周りの人はそう思ってないですよね。「やらなきゃいけないことはあるだろう」って。そういう社会の中でいたら、その人は押しつぶされてしまうことも多いと思うんです。だからこそ、僕たちがやっているのは、鈴鹿コミュニティという形で、新しい自由な社会を創っているのです。もちろん僕らも鈴鹿という普通の街に住んでますから、一般の社会のいろんなルールとか税金も含めて、電気代払うとか、まあいろんな「しなきゃいけない」といわれていることはたくさん来たりするわけです。そういう影響はもちろん受けるから、完全に僕らの暮らしすべてが自由にやれているわけではないです。が、今だったら100人とか150人という規模で、そういうことを理解しあっている人の社会ができてきている。「やらなければいけない」っていうのは人間の考えにすぎない、実際にはやらなければいけないということはないんじゃないかっていうことが見えてきている、そういう100人、150人のコミュニティができてくると、その人たち同士の中では、それが普通になってきますよね。やらなければいけないっていうことはないねとか、何をしてもいい、何をしなくてもいいっていうのが普通になってしまう。僕たちのコミュニティでは、一応「こうしようか」っていうふうに社会でなっても、それをやるかやらないか、ほんとうに各自の自由意志に委されています。やらないからって責められたりとか非難されたりとかいうことは一切ないわけです。そういう社会が、まあ社会と言っても100人、150人って小さな単位ですけどね、そういう範囲ですが、現実にそうなっている。そういう人たちが増えてくると、実際にそういう社会で暮らしている感じになってきますね。だから一人でやってるのとは全然違う暮らしが実現してきますね。


三木
そうですね。今度はちょっと観方を代えて、今は個人の方から見てきたと思うんですけれども、今度は社会の方から見ていきたいと思います。
「社会を知るためのコース」の中で、僕自身、非常に痛感したんですけど、さっきでてきた自分が見ている「社会観」、こうしなくちゃいけない、ああしなくちゃいけない、これは守らなくちゃいけない、というような「社会観」をちょっと脇に置いて、今度は「実際の社会」、その人と人とのつながりっていいますか、そちらを見ていくと、社会生活というのは本当に大勢の人に支えられて、自分はほとんど何もしてないのに暮らせている「実際の社会」が、同時に「実は有る」ということを気づいていきますね。
「実際の社会」と、現状の「社会観」との食い違いがあるように思えて。
「実際の社会」を人間の考えで作ってる社会観で見るとゆがんで見えてる。
そういうところもあるんじゃないかなと。
そういう観点からすると「本当に自由な社会」とは、小野さんはどういうふうに考えられているのか、聴いてみたいなっていうふうに思ったんですけど。


小野
社会から見てみる、っていうのはどういう感じだろう。


三木
例えば今のこのzoomの会議も、みんなが「フィクション」を利用して成立しているわけですよね。色んな「フィクション」。時間は一番大きな抽象的なフィクションだと思うんですけど。そういう約束ごとといろんな人の力で成立しているっていう「実際の社会」があって、そこにはある意味不自由な社会っていう感じではないと思うんです。
だけど我々の一人ひとりの頭のなかでは不自由な社会に生きている感があると思うんですけど。


小野
そのことで言ったら、例えば、さっきも言いましたけど、自分も含めて今の社会で育っている人だったら、社会の中でいろんな役をしている人たちも、本当にその人がその人のやりたいとかやろうとしての意思でやってるって言うよりは、役割で社会ができているような錯覚で見ていると言いますかね・・・。
例えば医者だったら患者を見て当然だとか、役所の人だったらこうするべきだとか、先生だったらこうするものだとかね。
身近な例で言ったら夫婦でも、奥さんだったらこうだ、旦那だったら稼いでくるべきだ、親だったらこうするべきだとか。
社会の見え方が、全部、この役割の人はこうするべきだ、こうしなきゃいけないんだって。そういうふうに社会の役割を見ている。そんな見え方が当然となって世界を見ている・・・。
他にも、お金を払ってるから相手は当然サービスするはず、だとか。
だからそこには、実際には人がいて、その人の気持ちがあったり、その人が意思があったり、そういうことが見えにくくなっているのではないでしょうか。
当然そうする人だと見ていて、意思のある人がいるっていうふうにあんまり見えにくくなっていってね。
実際の社会が見えなかったり、見えにくくなったりしている場合もありますね。
だから「してくれてる」とか、その人は本当は気持ちがあってやってるんでしょうけど、そっちじゃなくて、役割でやってるとか、役割でやるのを当然としているから、その人がいるとか、その人の意志があるっていうのが見えにくくなっている。
そういうことはたくさんあるんじゃないかなってね、思うんです。
逆に、当然としていることをやってないと、「なんだあいつ医者のくせに」、「百姓の人なのに何やってんだ」、みたいに責めるほうがクローズアップされちゃってたりしますね。実際にはすごくいろんなことしてくれても、やってないところばかりにクローズアップするみたいな見え方になってしまう。
そんな見え方している場合もすごくあるんじゃないかなというふうに思うんです。


三木
話を実感レベルにおとすと、たぶん自由な社会というのは、やらせるとかやらせないではない、強制・束縛がない社会が、自由な社会っていうのが、みんな同意できるところかなって思います。
そして今まではそういう社会を獲得しようとしていた。強制・束縛のある社会だからこそ、強制・束縛のない社会にしよう、それを獲得しよう、っていう流れだったと思うんですけども、アズワンのやり方とかサイエンズメソッドのやり方って、それとは違う感じがするんですが、そのあたりから語ってもらっていいでしょうか。


小野
強制・束縛っていうのは、人間が考えた考えですから、そこをまた人間の考えで、強制・束縛をしてはいけないんだってやると、ややっこしくなりますね。束縛を強制してやめさせるとかね。
そういう風にまた人間の考えで人間の考えを変えさせようとしてしまう。
強制・束縛を強制・束縛で変えさせるサイクルになってしまう、みたいな。


三木
政治闘争みたいな感じですね。


小野
そこを、強制・束縛ってのは、人間の考えに過ぎないんだ、強制・束縛ってのは人間の考えだから元々はないんだ、って気付いていく。
そういうプロセスですよね。
そこに力も何もいらない。ただ人間が気づいていく。そして強制・束縛のない仕組みを作っていける。
強制・束縛がない社会は獲得するんじゃなくって、元に戻ったらいいだけ。そうしたら、こんなシンプルで簡単に社会ができるんだってことをね。
それはさっき言ったように、個人ではできないことで、何人かそこに気づいた人たちで、そういう社会を、強制・束縛のないモデルを作らないとなっていきませんね。こういう話をしても多分ほとんど理解されないですね。何か夢みたいなこと言ってるとか、理屈は分かるけれどどうやってやるんだって、よく言われますね。
多分わからない人には、何を言ってるんだろうと思われると思うんですけどね。
実際、僕たちって強制・束縛がない社会のモデルを今やってると、すごくシンプルなわけですよね。
だから強制・束縛がないって言ったら、人一人ひとりの意思で動くわけですから、やって欲しい、やってあげたい、やってほしくない、そういうことをやりとりする、そういうだけの非常にシンプルな社会ができてくるわけなんですよね。
もう一つ言うと、すごく邪魔してるのは、さっきの強制とか束縛がなかったら社会はどうなっちゃうんだという不安でしょうね。
みんな好きにやると、つまり、みんなが一人一人の意思でやると、ぐちゃぐちゃになるんじゃない?。みんなが嫌がる仕事はどうするんだ?
そういうことを思われる方が多分いると思います。
それくらい、強制とか束縛とかやらなければいけないことがないかぎり、世界が成り立たないという社会観がみんなの中に入っちゃってるんじゃないかなと、思うんです。


三木
そういう不安に対しはどうですか?そういう風に不安に思っている人に対しての小野さんから、アズワンの暮らしから伝えたいことは?


小野
それはね、もう夢みたいな、何、理想を言ってるんだって思う人がたくさんいると思うんです。
僕もね、学生時代、スポコン系できてますから、「そりゃあ、やらなければいけないことはあるだろう」と固く思ってましたから、その頃の自分だったら多分受け入れ難い、「何を言ってるんだろう?」みたいな感じだったと思います。でも、実際にこうやって、人間の考えに気づいて、やらなきゃいけないということは、人間の考えにしか過ぎない、実際には、やらなければいけないことは存在しないっていうことが見えてきたらね、非常に軽くなる。そうなると、一人一人の意思、意思と意思のやり取りしかなくなりますからね。誰かが上とか下とかもないわけですから、非常にシンプルですね。本当に人がやってくれているということも、さっきの話のように、当然としてたら見えなくなりますよね。例えばお金を払って何か宅配の人が持ってきてくれても、宅配の人が持ってきてくれてるって感覚がなくて、なんか荷物が届いたみたいな、そういう感覚になってる場合もあるんじゃないですかね。あぁ、こうやって宅配の人も本当に荷物を届けようとして届けてくれているんだっていうことが見えてくる。当然とするものがなくなったら、一人ひとりの行為が非常にクッキリと見えてくるし、色んなものが自分の目の前に届くとか、色んな事をしてくれるっていうのは、全て一人一人の意思で、やってもやらなくてもいい自由な世界の中でやってくれているという、そういう一人ひとりの意思とか気持ちがすごくにクッキリと見えてくる感じがするんですよね。それを感じると、自分もまた自分のできることで何かしてあげたい、自分のできることで何か社会に貢献したい、そういう気持ちが自然に湧いてくるんだと思います。何か社会の義務とか責任とかで人が動かされるんじゃなくて、一人一人が本当にやりたい気持ち、本当に人にしてあげたいという気持ちで、行為が起こってくる、そういう社会が見えてくる感じがするんです。


三木
強制とか束縛とか、そういう自分を縛る社会っていうのも全部自分の頭の中の考えにすぎないっていうことに、調べることで気づいたら、なんか、そういうものに縛られない元々の自然な自分を、それこそ知る。


小野
そうですね。
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【オンライン対談】本当に自由な社会とは?の文章化ができました。

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~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~

2020年10月25日に第1回、12月9日に第2回を開催して好評だったアズワンネットワークのオンライン対談は、2月11日に第3回「本当に自由な社会とは? 」
を開催しました。2月号で動画を紹介しましたが、文章化できましたので、下段に掲載します。

対談の文章は何回かに分けて、毎週Webサイトにアップロードします。

第1回の対談動画はこちらから
第2回の対談動画はこちらから
対談第1回のテキストはこちらから

 
対談者は、元大手出版社の編集者で、個人の意識の覚醒と社会変革を求め続けて、一昨年アズワンに出会った三木卓さんと、アズワン初期からのメンバの一人でもある、サイエンズ研究所の小野雅司さんです。



~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~

三木
千葉在住の三木卓と申します。
2019年春、アズワンがメイン会場になっている持続可能な社会に向けてのユネスコ認証の教育プログラム「ガイアエデュケーション」を受講するためにアズワンに行って、アズワンコミュニティの実態に触れ、またアズワンコミュニティの実態を作り出している背景としてサイエンズメソッドがあるっていうことを知って、サイズメソッドのサイズスクールっていうのがあるんですけれども、そこで学んできました。
本当に世界中、地球上もどこも行き詰まってるなーっていう感じ、多くの方が危惧してるんじゃないかなと思うんですけれども、アズワンコミュニティとそのサイエンズメソッドの試みっていうのは、それに対しての本当の突破口っていうか、全く新しいやり方で全く新しい社会を小さなスケールだけども実現している20年の歴史があるなって、行くたびに実感してきました。
と同時に全く新しいっていうと、どんなものだっていうんですけども、逆に自然で普通で、本当に地に足ついたコミュニティっていうか、鈴鹿という20万人の都市の中に溶け込んでいる姿に感銘を受けて、これは静かにすごい革命が起きてるって、個人的に非常にインパクトを受けました。
それでサイエンズ研究所でサイエンズメソッドを研究してきた小野さんにいろいろ今日も聴いてみたいなと思っていますのでよろしくお願いします。


小野
僕も自己紹介したいと思います。小野雅司といいます。59歳です。大学生の頃から、新しい社会をつくりたくて、いろんな活動をしてきて、もう40年くらいになりますね。2001年から鈴鹿に移住しまして、ゼロからもう一度新しい社会をつくってみようってことで、アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティというコミュニティをつくってきて20年が経過しました。その中で、サイエンズと呼んでいる新しい、いろんなことを探究していく考え方が見えてきたんですけど、そのサイエンズを使って研究するサイエンズ研究所というところで、研究をずっとさせてもらっています。
コミュニティをつくってきて、いろんなことを経験しながらやってきたんですけど、そのプロセスを経て、鈴鹿のコミュニティ自体ももっと大きな規模で試していきたいっていう段階に入ってきてます。そして、鈴鹿だけじゃなくて、日本各地とか世界各地でこういうコミュニティができるようなサポートもいろいろさせてもらって、それもまた研究材料にさせてもらいながら進んでいます。
今日初めての方も参加されているって事で、その体験してきたこと、それを通して見えてきたことなども含めて、三木さんと一緒にいろんなことをお話しできたらなと思っています。よろしくお願いします。


三木
よろしくお願いします。では早速始めたいと思うんですけれども、今回で3回目ということで、今回は「本当に自由な社会とは?、サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿というテーマです。
僕がサイズメソッドを受けててなるほどと思ったのは、「自由な社会」とか 「幸せな社会」ということを、実は今まで人類は、それが実際どういうものかを知らないままに、そこを曖昧にしたまま、「自由な社会」「とか幸せな社会」とか皆が平等な社会を作ろうとしていたんだなと。それじゃあダメなのは当たり前だなと。逆に言うと、その知らないことをまず知って、じゃあ本当に「自由な社会」とか、「本当の幸せ」とは何かということを探究しようっていうところからサイエンズメソッドは始まっていて、その知るところから、実際の現れとしてコミュニティができてきたと理解しています。
ではその本当に自由な社会ってなんだろう? 20年やってくる中でどういうふうに見出してきたのか、あるいは、自由だと思ったことが実は自由じゃなかったと知ったことなども含めて聞かせてもらいたいなと。


小野
最初からズバリですね(笑)。2001年に、本当に自由な、争いのない誰もが親しく本心で生きられる社会をつくりたいということでスタートしたんです。すごいやる気もあって、いろんなことに取り掛かったわけですけども、それこそ理想はそういうことを掲げているわけですけれども、なかなか自由にならない。理想と現実のすごいギャップに直面するわけですね。
例えば、自由な会社をつくろうと始めるわけですけど、ちょっと自由にしている人がなかなか認められない。よくあると思うんですけどね。忙しい時に急に休みたいとか、急にどこかへ遊びに行きたいとかいう人が出てくると、とてもそれが受け入れられない。自由な会社を目指しているけど、自由にしている人が認められない。そういう現象が起こってくるんですね。「いくら自由と言ったって、それはないだろう」って。そういう現実に、ホント1年、2年したら直面しまして。皆で決めたことはやると思ってたら、それをやらない人がいると、「なんでやらないんだ。勝手てにして!」とか。そういうことは、多分、今何らかの活動されてる方もすごく直面するテーマなんじゃないかと思うんです。
一方で、やっぱり自由を求めているんだけど、「決めたことに従わなければいけない」ということを当然としている。なにか矛盾しているものを感じながらも、自由を求めていると言いながら、「でも、決めたことには従わなくては」とか、「こんな忙しい時に休むのはアカンでしょう」みたいな。そういうジレンマがどんどん浮き彫りになってくるわけですね。これはこのまま行っても本当に自由な社会はできないんじゃないかということで、2004年にサイエンズ研究所というのができるわけです。これは、今の矛盾した状態をそのままにして先に進めないというか・・・、そこが非常に大きな転換点になったかなと思うんですけど。本当にそういうことで言うと、自由な社会と言ってるけども、本当に自由ってことを知らないんじゃないかっていうことを思い知った感じですね。
2002~2003年とやってみて、理想としていることと実際がそぐわない。そこから本当に真剣に、一回ゼロにして「自由とはどういうことか?」って見直さないといかないなと、となって、ひとつ新しい段階に入ったかなという感じがしてます。


三木
自由な社会を求めてるんだけども、自由にやっている人間を見ると「ちょっとオイ」みたいになっちゃう。同じ自由という言葉を使ってますけど、違ってるわけですよね。自由な社会って言っているときの「自由」と、あいつ自由にやりやがってっていう時の「自由」と。自由って言っているものが何かっていうことが分かってなかったていうことですね。


小野
そこから自由ということだけでもないですけど、行き詰まりのどこに原因があるかって探っていく中で、サイエンズメソッドという考え方が見出されていくわけです。サイエンズメソッドの一番大切な要素となる「人間の考えを知る」「人間の考えを自覚する」っていうところに焦点が当たってきたわけなんです。例えば、「みんなで話し合って決めたことには従わなくてはいけない」とか、「○○しなきゃいけない」ということがあたかも実際にあるみたいな感じで自分たちは捉えていて、それを当然としてますよね。「みんなが決めたことは守らなきゃいけない」と、それを当然だとしていたり、「忙しい時だったら、みんなのことを考えるべきだ」とかも。「○○すべきだ」「○○しなければいけない」ということを、あまりにも当然にして言ってるんですけど、それを僕達は「調べる」って言葉を使いますけど、「それがどういうことか?」とか「これはどうなっているのか?」「どういうことなんだろう?」って考えていくと、「しなければいけない」とか「してはいけない」ってことは別にそういう事実があるわけじゃないということがハッキリしてくるわけです。そういうふうに考えているだけですよね、自分たちが。自分たちが「そうすべきだ」と考えていることをあたかも事実のようにして、それも自分だけじゃなくみんながそれを当然と思い合って、それが共通の観念になって、あたかもそれが事実みたいになってる。そういうことを「思い込み」や「キメつけ」って言ってるわけです。自分達がそういう状態であるっていうことに、いろいろ研究していて見えてくるわけですね。それが実は人間同士を縛りあっている。前回も前々回もお話に出てきましたけど、ハラリ氏っていうイスラエルの歴史学者、『サピエンス全史』を書いたハラリ氏という人が、人類がこれだけ進歩してきた大きな能力として、フィクション、虚構を共有することで、大きな協力体制をつくって人類がこんなにも繫栄してきたということを言われてます。人間には実際ないものをフィクションとして、虚構ですね、フィクションをあたかも事実のように共有しあって人類は進歩してきたわけですけども、さっきも言った通り、「こうしなければいけない」とか「決まったことを守らなきゃいけない」っていうフィクション、それも人間が考えたフィクションだと思うんですけど、あたかも事実として共有しあって、実は縛り合っちゃってる。それがすごい不自由を生み出しているんじゃないかってことがだんだん見えてきたわけですね。


三木
そこは対談の1回目2回目でも繰り返し言われてきていて、本当に大事なところだと思うんですけど、今回は「本当に自由な社会」テーマで、そこで深く掘っていきたいんです。「○○しなくちゃいけない」とか「○○してはいけない」ってことは、自由とは真逆だって頭でも分かりやすいことじゃないですか。


小野
そうです。はい。


三木
自由っていう言葉は一見「自由」じゃないですか。何も縛らないことが自由と言いながら、実際に、自由な社会を求めて上手くいかない。今の現状の考え方だと、社会と個人において、個人の自由と社会は対立的ではないにしても、個人の自由と公共の福祉とか、個人の自由と社会の秩序という対立的なもののバランスをとる必要があるという感じで、民主主義か、あるいは一党独裁の方が効率がいいよとか、何かそういうような議論になるんですけど、アズワンが目指している本当に自由な社会はそういう議論と全然違うからこそ、次の社会で、本当の可能性だと思ってるんです。そういう文脈の中で、今の「キメつけ」とか、そういうのが縛っているということも含めて、自由っていうこと、自由な社会ってのを語っていただければと思います。


小野
そうですねえ
なかなかのテーマだし、今の社会からしたら、かなり根本的な問題を含んでいますね。今だったら社会っていうのは、「守らなければいけないことがある」「守らなければいけない法律がある」そういう秩序がある。それを守ったうえで個人が自由にするって、それを当然のようにしていると思うんですよね。だから、「守るべきものがある」、それが社会だっていうね。その中で個人の自由があるんだ。だけど、それではやっぱり本当に自由にはならないと思うんですよね。
さっきも言ったけど、元々フィクションというのは、無いものをあるとして人間が考え出したものでしかないわけですから、本来は、「人間がこうしなければいけない」とか、「こうしてはいけない」っていう人間の考えをちょっと置いてみたら、元々そういう人間を縛るものなんか無いと思うんですね。元々は。
サイエンズっていうのは、Scientific Investigation of essential nature+ゼロということで、科学的本質の探究+ゼロなんです。ゼロには無とか空とかですね、元々って意味を含んでいるんですけども、元々の姿に立ち還るっていう願いも込めてサイエンズってZを使ってるんです。人間が「こうしなければいけない」「こうしてはいけない」っていう人間の考えを置いてみたら、「何をしてはいけない」とか、「何をしなきゃいけない」っていうことは元々は無いわけです。そこに立ち還ったら本来は元々自由である。これはちょっと普通の考え方としてはちょっと分かりにくいかもしれませんが、、、。


三木
そういう話を聞くと、割とすぐ、例えば無政府主義者か、というような話が出てきますね。


小野
アナーキズムとかね、、


三木
ですね。


小野
だから、「しなければいけない」とか「してはいけない」っていうことが、フィクションだっていうことですよね。例えば「規則」を、じゃあ「無政府主義」だったら、「そんなものは一切なしだ」、そういうことになる。そういう思想もあるかと思うんですけど、サイエンズでは、そういうことではないんです。例えば、規則とかルールと言っているものでも、「しなければいけない」とか「してはいけない」という「人を縛る部分」がテーマだと思うんです。例えば「こういうふうにしよう」とか「こうゆうふうにやりましょう」ということ、そういうフィクションもあるかと思うんですけど、そういうことを別に無い方がいいと言っているわけではないのです。先ほどからも出てますけど、フィクションを共有することで多くの人が協力できるというフィクションの力は大いに活かしたいわけです。今の社会は活かすだけではなくて、それに人がどんどん縛られるように、そのフィクションが逆作用を起こしてしまっている。つまり、強制、束縛などで、どんどん縛られてしまうという、そういう作用を持っていると思うんです。フィクションの良さを、持ち味を活かして、フィクションを共有できるっていう、その人間の能力を活しながら、縛ったり、強制したりとか、そういう要素を取り除いて、縛らないフィクション、強制しないフィクションというもので社会を構成できるんじゃないかっていう実験をしている感じがしますね。
だから、「しなければいけない」とか「してはいけない」は、人間のフィクションにすぎないのわけですから、元々に立ち還ったら、元々自由なわけですよね。
「自由になる」と言って、自由を求めていくと逆方向になってしまうわけです。例えば今ある強制とか束縛を、今度はまた強制とか束縛することで、自由を獲得しようっていうことになってしまう。「しなければいけない」ということを「してはいけないんだ」みたいに、どんどん複雑化している。そんな感じもするんです。


三木
自由を求めて束縛するものに対抗するとか抵抗するとか、自由を求めて逃走する、勝ち取るみたいなことがずっとこれまで続いてきた人間の歴史かなっって大雑把に言うと思うんですが、そこと本当に自由な社会とはどういう違いがあるかということですよね。


小野
もともと自由に立ち還ってみたら、そういう「しなければいけない」とか「してはいけない」とかということが無いわけですよね。そういう中で、さっきも言いましたけど、だからって「何もしなくていいんだ」とか「規則もルールも無しで」とか、「それぞれが勝手気ままにやったらいい」ということじゃないんです。一応「こういうふうにしようか」とか「こういうふうにやってみようか」って、みんなで「こんなふうにやろう」という感じで、フィクションを共有しながら、より協力できるような仕組みとか生み出していけると思います。そういうのはどんどん生かしたらいいと思うんですね。ただ、それをやらなかった人に対して罰を与えたりすると窮屈になりますよね。一応決まったことについても、やらなくてもいいということが認められなくて、そこから外れている人を責めたりすると、窮屈な社会ができてくると思うんです。「一応こうしようか」という時に、「やりたくない」って人の気持ちも聴きたくなる社会ですね。「どうしてやりたくないのか」とか「こういうふうにしてほしいんだ」とかいうことが、強制とか束縛なく、やらせたり止めさせたりということなく、話し合っていける社会ですね。
 そういう中で本当に自由な社会っていうのができてくるんじゃないかっていうことが見えてくるんですけど、今の話は、今の社会からすると、ちょっと分かりずらいかもしれない。。。


三木
束縛の無いところでやっていこうっていうコミュニティや人の集団の中で、それがまた束縛になっちゃうみたいなことに、アズワンは直面した。最初、自由な社会を今度こそ作るぞって言ったのに、自由にやってるやつを見ると腹が立つ、束縛がイヤだって言いながら、自分からすると「あれはちょっと許せない」みたいなことを、やっぱりみんな思っちゃう。そのあたりのところで何でだろう?ってことでサイエンズメソッドとか自分を調べるということが出てきたということですが、その辺りをもう少し話してくれますか。


小野
僕も自由な社会をずっと願っていました。学生時代から束縛されるのはイヤだなぁと思って、自由に生きたい、自由な社会をつくりたいって思って、新しい社会をつくろうって活動してきた感じがあると思います。でも、そう言いながら、やっぱり自分でもこの社会で育ってきて、自分は、特にスポ根みたいなものが根強く染み付いてしまっていたんです。野球とかやって、スポ根ですごい育ってるんで、知らない間に社会に対する観方、社会観ができていて、「約束は守らなきゃいけない」とか「決めたことはやるべきだ」とか「みんなの和を大事にするべきだ」とか、そういう社会観が出来上がってしまっていたんですね。あと責任感ですね。「決めたことは最後までやりぬく」とか、そういうものが知らないうちに自分の観念に入っているわけです。言ってみたらその反動みたいな感じで自由を求める。そういう縛られている観念から抜け出したいみたいな欲求が、多分あったんだと思う。それってすごく自由を求めていたりもするんですね。そうなってくると、口では、とか、願いとしては、ハッキリ「自由な社会」「自由にやろうよ」って言うんですけど、いざ自分がそういう場面になると自由を認められない。例えば職場とか、仕事で「明日、じゃあ何時から、たくさんお客さんから注文あるから○○時に集まろう」って言ったら、「○○時に集まるべきだ」というのがなんか当然みたいになっているわけですね。だから、そういうキメつけている自分の「当然だ」というものをベースにして見るから、そこに来ると言った人が来ないと、「なんで来ないんだ!」みたいな形で、すごい責めるようなことになってしまんです。そういうキメつけたものがものすごく自分の中に一杯あるってことに直面したわけですよね。だから、自由を唱えながらも全然自分の中が自由になっていない。そこを解決しない限りは、いくら「自由な社会」と言ってもできないんだってことを、2003~4年頃にハッキリしてきたのです。自由ということは、社会としてのテーマでもあるわけですが、実は自分の中の思い込み、キメつけに向き合わないと進まないということですね。そこで自分の思い込みキメつけを調べていく、探究していく、サイエンズメソッドが見出されていくということがあったわけです。そういうプロセスがありました。


三木
今の聞いていると、「○○時に来い」って言ったのに来なかった人を責めちゃう、そういう自分の中にキメつけがある、そこで自分を調べる方向にサイエンズメソッドはいったということなんですけど、そこで「いや、それはそうは言っても会社の今目の前のやらなくちゃいけないことをやるためにはそんなこと言ってられないだろ」っていうのが普通で、そういう理想論はポーンって吹っ飛んじゃって終わりみたいな、寝言言ってんじゃないよ、みたいな感じになると思うんですが、そこはなぜそういったのか。しかも、それでちゃんとうまく今まわってるわけですよね。


小野
そうですね。


三木
そのあたりがみんな知りたいところだと思うんですけど。それで何故うまくいけるのか?


小野
三木さんの表現がすごく言い当ててると思うんですけど、「理想はそうだけど現実を見ろ!今この仕事があるじゃないか」。やっぱりそうやって理想はあるけど、「現実は守らなきゃいけないことがあるだろう」「注文があるだろう」って。だから「理想はそうだけど、現実はこうだろう」と言って、「現実は」っていう方で生きると、結局は「しなければいけない」ということをくり返すわけですよね。そこで、「現実はこうだろう」としてやっている限りは、ずっと「やらなければいけないこと」を肯定した社会を毎日、日々積み重ねているんだっていうことに、そこに気づくわけですよね。だから僕らは本当に何がしたいのか、本当にどっちに行きたいのかって問い直したわけなんです。理想としている本当に自由な社会をつくりたいんだったら、本当に理想とすることを今、実現しなかったら、いつまでも夢の話をしているだけになってしまうわけですよね。「やらなければいけない」ということを肯定し続けて、「やらなければいけない」っていうことをやりながら、それ以外の時間で「やりたいことをやる」っていうふうになっているんじゃないかなって思ったんです。


三木
そうですね。今、非常に面白いなと思うんですけど、今の現状の社会は現状の社会のままであって、今、不満はそれこそネットを見てても渦巻いていて、何かあるとワァって不満が出てきますけど、社会に対して、まさに今の「理想はそうだけどそうは言っても現実があるから」ということで現実を選び続けているのが、今の社会の中にいる人じゃないですか。それをなぜ小野さんたち、アズワンの人たちは、なぜっていう問い方がいいのかどうか分からないですが、そこが決定的で、普通はそこでいつも「そうは言っても現実が」っていうところでいまの社会がずっと続いていると思うんです。


小野
そこがやっぱり一番のポイントだと思っています。「そうは言っても現実が」って言ってますけど、さっきも言いましたけど、そこが考えどころなんです。「現実は」って言ってますよね。「やらなければいけないことがあるでしょ」と言いますよね。「現実はやらなければいけないこともあるでしょ」というところですね。さっきも言いましたけど、「やらなければいけない」っていうのは人間の考えでしかないですよね。現実に「やらなければいけないこと」があるわけではなくて、「やらなければいけない」と思っているということですね。だから現実は、「やらなければいけない」ことはないんじゃないか!ということなんです。ここが決定的に変わるわけですね。人間の考えというものがどういうものであるかを知ると、現実には「やらなければいけないことがある」のではなくて「やらなければいけないことがあると思っている」ということでしかなくて、現実にはやらなければいけないことはないんじゃないかっていうことに気づくわけです。



つづく
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対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」文章化(その4)

サイエンズメソッド対談.jpg
10月25日のオンライン対談の文章化(その4)です。
ご覧ください。

▼第1回目のオンライン対談
動画⇒ https://youtu.be/pqCM5PseOPw

文章化テキスト
その1⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1185.html
その2⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1191.html
その3⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1195.html
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10月25日オンライン対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」
(その4)質問をうけて

司会
それでは、グループで先ほど話されたことや質問などありましたら、チャットに書き込んでいただいたり、発表してもらったりしたいと思います。ここからは、それにそって内容を深めたいと思います

質問)
自分が変わると社会が変わるっていうところが今一つしっくりこない、という方がグループに何人かいらっしゃいました。人と社会はどんな関係にあるとお考えなのか、どうでしょうか。

小野
自分が変わると社会が変わる、ですか?
自分の中が変わると社会や世界の見え方が変わるという意味で言ったら、変わって見えるということがあると思うんです。
しかし実際に社会が変わるということになると、まず人と人との関係性が変わるってことだと思うんですよね。もちろん、一人が変わることで関係性も変わってきますけども、本当の意味で社会が変わると言ったら、共有しているフィクションの扱い方が変わるとも言えると思うのです。
そうなるとお互いが変わっていく、お互いの社会の見え方、世界の見え方が変わっていくことから、人間関係が変わっていく。そして社会が変わっていくというのが、最初の段階ではあるのかなぁと思いますね。社会ができていきながら、新たな人間関係の人たちがたくさん出現する。そして、仕組みが変わってくることで、そこで暮らす人たちがまた変わっていくというのもまた次の段階であると思います。
まず、ご質問に答えるとしたら、社会ができていくという意味は、お互いに本心でいける人になり合って、具体的に関係性が変わっていくということが大きいのではないかなって感じはします。

三木
そうですね。今まで僕自身もサイエンズスクールを受けてきた体験で言うと、
現状の社会がまずどこにあるか、ですが、本当に一人一人の頭の中にあって、その頭の中にある社会にコントロールされちゃった上で、人と人が向き合っている。現状の社会というフィクションを通してしか、人がつながってない、だから苦しい。現状の社会っていうのはそれぞれの頭の中にある社会で、それって単なる思い込みなわけですね。
しかし、もっと頭の中は自由になると気づけるとそれが消えます。その時に、初めて直に会う、出会い直しと言いますかね。

直の小野さんと出会う、小野さんにどう思われてるのか、とか、こんなこと言うと小野さん怒るかなとかいった、頭の中に自分がつくったフィクションがなくて、もっと小野さんと自然に付き合い始められるようになる。それが次の社会の本当の始まりのような感じがします。

小野
そうですね。よくありがちな、フィクションが自然な付き合いを難しくしてしまうものに、たとえば、自分の言葉に責任を持つとか、一回言ったらやらなきゃいけないとか、意見を変えちゃいけないとか。

三木
何も言えなくなりますね

小野
さっき言ったことと違うことが、ふっと浮かんだとしても、意見を変えちゃいけないとか、そういう人間の考えが挟まると、本心と違う関係になりますよね。
今、三木さんが言ったように、そんなフィクションから解放されると、本心と本心でやり取りがシンプルになる。
「さっきはこう言ったけど、今はこう思っているよ」とか、
今あるものでやり取りできるような、そんな関係性から出現する社会と、一方で逆に、一度言ったら、もう違う意見は言っちゃいけないとか、責任持たなきゃいけない、という関係性からできてくる社会とは全然違うものですね。

質問)
「調べる」など言葉が独特な感じがある。分かりやすい言葉や説明があるといい

三木
なるほど。どうでしょう、調べる、という言葉、表現について。

小野
僕たち、「調べる」っていう言葉、平気で使っちゃっているんですが、もし言い換えるとしたら、どう言ったらいいですかね。もうちょっと分かりやすい言葉。

三木
普段、どういう文脈で言っているのかちょっと教えてくれますか。

小野
例えば、さっきの悪感情や怒りでも、怒りという現象が現れてくるそのプロセスを観察する時に使ったりします。
一般的に、怒ったりすると、なんで怒っちゃったのか、その原因とか理由を考えますよね。「調べる」というのは、そうじゃなくて、怒りが出てくるプロセスを観察する。何が起こったのかをよく見ることを表現しています。
理由を考えたり、あの人のせいだとか、自分はこういう育ちをしたからだとか、原因や理由、説明を考えることが普通は多いですが、それは調べるとは言いません。

それとは違って、実際に何を聞いて怒りが出るとか、悪感情になるとかーーー、そのプロセスでどんなことが内面で起こっているのか、それを見る、観察する、そういうプロセスのことを言っていますね。

三木
では、たとえば小野さんが何か言った。その言葉をきいて、自分が否定されたっていうふうに捉えて、いやな感情が出て来たーーーーの様に観察することですか?
すると、先程の説明であったような、自分で原因を見つけるとか、説明するということが、なぜ調べるということと区別されるのか、どう違うのか、ここでもう少し丁寧に見たいのですが、どうでしょうね。

小野
自分の内面に実際に起こったプロセスを観察することが、「調べる」ことにつながるんです。しかし逆に、怒ったことを理由づけたり、怒っても「無理もないよな」と納得してしまっている場合が非常に多いと思います。
原因を考えているつもりでも、メカニズムを調べないで、悪感情になったことや否定されたと感じて不愉快になった、そっちの結果のほうを見て、こういう理由があるから怒っちゃうんだと理由を説明して済ましてしまう場合も多いかなぁと思うんですけどね。

三木
小野さんに言われたことで、自分が否定されたから、悪感情が起きても仕方がなかったと。小野さんが言ったことが、自分の悪感情の理由になっちゃってるんですね、この場合は。自分が否定されたから、怒っても当然だ、という感じ。
しかし、調べるとなると、そのプロセス全体から離れて見る。

小野
そうですね。離れて、実際何があったのかと観察する中で、ここが勘違いしているとか、ここに決めたものがあるとかね。こことここを勝手に結び付けちゃっているとか。そういうものが見えてくる。

三木
あくまでも、その悪感情が起こっている原因を、自分の一連のプロセス、メカニズムの中で見つけ出そうとする

小野
そうですね

三木
みなさんに意味が通じているかどうか、気になっているんですが、
まぁ、そんな感じかな。

小野
やったことない人にとっては、すごく新しいと感じられると思います。これ、ぜひ体験してもらったらーー。本当に手に取るように見えてくるので。
つまり、自分の中を観察できるようになると、そこが違うんだな、とか、相手が言ったと思い込んでいたけれど、そうではなくて、自分がこう聞いたんだな、こう受け取っているんだな、等と、思い込んでいたことと実際との区別がついてきます。
すると悪感情とか、怒りから、わりに簡単に解放されるようになる。

「人間だから当然起こるもの」
「あんなこと言われたら、当然いやな気持になるに決まっている」、
という感覚が起きがちですが、そんなこと、実は決まっていないですね。
なぜなら、同じ言葉を聞いても、まったく何も思わない人は思わないですから。
それを聞いたらいやな気持になるのは決まっていると、自分が決めているんだということに気が付きやすくなる。

三木
はい。では次の質問に行きましょう。
「安心安全な場づくり」という言葉は、いつ頃どんな過程で生まれてきたのでしょうか。
それを聞いた時、自分自身が、安心安全の場をそれほど強く願っているとは思えないな、と感じました。本心本音を話せる条件として、安心安全な場づくり、それだということというのはよく分かります。しかし、自分がそういう環境を望んでいること自体、自覚することはなかなか無いと思います。」
という意見ですが、どうでしょう。

小野
そうかもしれないですね。
安心安全な場づくりとか、なんでも本音で言える場があるということ自体、無いことに慣れていますから、そんなことを望むなど思いもよらないでしょう。
今は、人と人とが、他人で、一歩外に出たら敵と思え、というくらい身構えている。それが普通の状態になっているということかなんでしょうね。

三木
そっかー。僕からすると、この「果たして自分がそれをするほど望んでいるのか分からないなと思いました」というのが、そうなんだ、という感じなんです。
安心安全を望んでないっていうことは、安心安全じゃないほうがいいことなんですか。どういうことかちょっとわからなかったです。

質問者
「そういう意味ではないです。求めなきゃいけないほど、安心じゃないとは、自分が普段から思っているかなぁ、と感じたということです。
それほど、やさしい場がないとだめだという風に感じるかなぁと。
逆に違和感というか、私はそんなにやさしさを必要としているかしら、みたいな感じになったんですよ。」

小野
わかりました。サイエンズメソッドを体験されたりすると、本当に安心している場でこそ、もっと心が開いて、関係性が変わってくることが実感を持てると思います。そういう体験をされるとまた違うのかなぁという感じもしますね。
たぶん、人によって、すでに安心の場が結構あって、それほど必要と感じていないということもあるでしょうし、逆に、人間関係において身を守るほうが普通だということで、安心安全という環境がどういう感じか、描きにくい人もいるでしょうし、人によってずいぶん違うと思うんです。
ただ、人っていうものを考えた時に、どんなことでも安心して自分の思いを出せる機会がある、そういう人との関係があるということは、非常に大きいんじゃないかなぁとは思いますね。

三木
ちょっと話がズレちゃうかもしれないんですけど、今の問いに触発されて思ったことがあります。
人間のほとんどの行動はいつでも無意識に安心安全を求めてやってるのかなと。だから戦争とか喧嘩とかでさえも。結局、どっか自分の安心安全求めて、攻撃は最大の防御がじゃないですが、そういうことなのかも知れないと思いました。

小野
そうですね。逆に言ったら、今の社会だったら、さっきの、守らなきゃいけないとか、こうしなきゃいけないとか、大人の場合は特に、言ったことに責任持たなきゃとか、約束は守んなきゃいけないとか、いっぱい、しなきゃいけないことや、こうしてはいけないことが、もう本当に多々ありますよね。勝手に人の家に入っちゃいけないとか。

三木 
はっはっはっ

小野
すっかり慣れて暮らしていますが、実は人間にとっては、ほとんど無意識に実は安心していない、守っている状態になります。

三木
そうですね。ここから逸脱しちゃいけないみたいな

小野
本当に安心安全の場と言ったら、そういう警戒から解放された時、人間ってどうなるんだろうか、それにはすごく興味があるんですけどね。

三木
チェリッシュとか学び舎で、子供たちにとっての強制のない環境の中で、どんな風に育っていくか、ということですよね。

小野
今、鈴鹿コミュニティでは、乳幼児たちが育つ空間をチェリッシュ、小学生たちがいる学び舎という場があります。そこでは、やらせるとか、やめさせるとかが一切ない子育てってどうなるのかなぁということを試しているわけですけどね。

だからと言って、子供たちに好き放題というわけではありません。何か伝える時も、「やらせる」とか「やめさせる」じゃなくて、
「これはしないでほしいよ」とか、
「これしてほしいよ」
等、はっきり伝えたいことはあります。しかし無理やりやらせることがない。そういう空間の中で子どもたちが育つように、と進んでいるわけですけども。

三木
次に行きましょうかね。
「グループの中で、それぞれの人の問題の原因を見つけて、それを解決する手助けを長年やってきましたが、一人一人についてどれだけそうやっても、また元の環境に戻っていく。社会の方の問題が解決されないままで、もぐら叩きだなぁと思っています。
問題が起きるのは、個人というより、すべて人と人の関係の中で起きるので、コミュニティが必要だと思っています、という意見が出て、他の皆さんも共感していました。」

小野
本当にそうですよね。僕も学生時代、心理学を勉強している時に痛感したんです。人が悩みを持ったり、色々病気になるというのは社会のひずみがその人に現れてくるわけで、いくらカウンセリングなどやっても、社会に戻ったらねーーーーやはり、社会の方を解決しなかったら、いつまでも繰り返しになる。このまま行くと、どうなるんだろうという疑問は素朴に抱いていました。
社会が本当に健康になったら、一人ひとりの心は自然と健康になると思うので。でも、そういう世界を作るには、健康な人が生まれないとそうはなっていかない。切っても切り離せないわけです。一人ひとりの心の問題を本当に解決しようと思ったら、社会そのものが健康になること。健康な社会でしか健康な人は育たないということですね。社会と人の心はいつも表裏一体です。

三木
はい。昔はどこの家にも玄関に鍵などかけていない、開放感のある社会でしたよねぇ。今はオートロックにカメラまでついている。社会が常に警戒している現れでしょ。そういう意味で心的安全性が社会から失われていると思います。

小野
本当にそうですよねー。この間、ある小学生の子どもをもつお母さんに聞いたら、最近は警報ベルを付けているって言っていました。だから子どもたちにも、「知らない人は怖い人と思え」のような、そんなことを教育しなければいけない社会になっているのかなぁって。

三木
悪循環ですよね。そうやって不安にさせてーー。

小野
無意識のうちに、絶えず守って、というのが普通になる。子どもだったら本当にどの人でも話しかけたいのが人の姿じゃないかと思いますが。

三木
はい。人間の精神面の成長には安心安全な環境が必要ですね。温かみのある共同体は大事です。

小野
そうですね。本当に。ここのコミュニティでは、子どもたちもたくさんのお父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんに囲まれて、本当にどの人も親しい感じ。そういう意味では警戒心とかほとんどない感じで育つ。
それは元々あった人間の姿って感じがしますよね。しかし今は失われかけている。

サイエンズメソッドで目指す、人間らしく生きる、というのも、要らないものがなくなって、本来持っている親しさでつながれる社会ということです。特別なすばらしい世界、ということではなくて、元々持っている人と人とがつながりたい、協力したい、何かしてあげたい、そういうものが自然に現れてくる社会、そこに立ち還っていくのがサイエンズメソッドって感じがしているんですけどね。

三木
今の社会だと、「人間の考え」という鎧をかぶって自分を守っている気になってしまいますが、それが実はしんどくなっている。お互い鎧と鎧で付き合っているから、会って話しても、心はまったく満たされない感じですよね。
それがサイエンズメソッドで、「これも鎧だった、あれも鎧だった」ってはずしていくと、逆に安全って言うんですかね。元々守らなくてもよかったのだと。

質問
「サイエンズメソッドの受講はオンラインでも開催可能でしょうか。それともリアルで直接会わないとできないものなのでしょうか。」

三木
なかなかいい質問ですね、時宜にかなった。

小野
本格的にサイエンズメソッドを学ぼうと思ったらリアルで、こういう入門的なとか、どういうものかっていうのを初歩的に理解しようというのでしたらオンラインですけども、やはり自分自身のかなり深い部分まで見つめながら観察する、さっきの調べていくことを学んでいくにはリアルじゃないとできないかなと今は思っています。

三木
でもオンライン入門講座ぐらいは用意されてもいいんじゃないですか。

小野
そういう研究はしたいですね。それもこれからの検討課題で。

【司会】今日はオンライン対談初めての試みだったんですけども、これからシリーズでやったら面白いんじゃないかという声もあります。
今日は第一回と位置付けてやらせてもらったんですけども、聞いてみての感想とか、シェアしたいこととか、ぜひみなさんから寄せてもらえたらうれしいです。

三木・小野
今日はどうもありがとうございました。
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対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」文章化(その3)

サイエンズメソッド対談.jpg
10月25日のオンライン対談の文章化(その3)です。
ご覧ください。

▼第1回目のオンライン対談
動画⇒ https://youtu.be/pqCM5PseOPw

文章化テキスト
その1⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1185.html
その2⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1191.html

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「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」(その3)
小野
そうですね、三木さんが言及された、普通は安心した状態になれないということなんですがーーー安心していない、つまり心底に不安や警戒があるわけですが、慢性的になると、自分では気づけなくなっています。人間も動物ですから、不安や警戒、それは危険を感じているということですね。危険から身を守るほうに相当神経を使いますね。
警戒していては、落ち着いて、客観的に自分を観る方向に行くことが難しくなります。守るということは、相手から何か責められたり追及されたりなど、人が自分を襲ってくるのではないか、そう恐れている状態ですから。
今の社会で生きようとしたら、ほとんどそういうベースで暮らしている感じがしますけどね。

三木
そうですね、確かにその緊張に気づいたり目を向けたりすること自体、怖い。

小野
他から身を守らねばならないという心の状態ですと、おそらく自分を観るということは、ほぼ無理、という気がします。そこに着目して、まずは安心して何でもを出せる状態になれるように。そこでようやく、自分の方に目を向けることが始まるわけですね。

たとえば怒りとか、いわゆる普通で言うネガティブとかマイナスと言われる感情は、当人自身が不快ですから何とか無くしたいと誰しも思いますね。しかし実際にすでに起こっている。もう起きているわけですから、それを隠した状態で自分の中を観るという、そのプロセスはあり得ない、ということです。
隠していること自体が、人を警戒しているし、その場で調べていく対象には成り得ない。しかし、普通はそれを自分の内面で、一人で何とかやっちゃおうとしている訳ですから。そのベースは、ただもう人を警戒している状態、とも言えますね。

そこから、まずは警戒がいらない状態でオープンになることが先決ですね。例えば悪感情が起きた場合でも、こんな悪感情が自分に起きている、起きたなって、良い悪いなしに、そのまま観られるような状態が先にあることです。そこで初めて、こんな感情が出るけれど、これはどうなっているんだろうと調べる対象になると思うんです。

安心していたり、なんでもそのままが言えたりする状態がないと、何も始まらない。

だから、怒ったりするのはよくないとか、嘘つくのはよくないとか、隠し事しているのは悪いこと、人に知られちゃダメだ等、そういうものがあるうちは、ひたすら身を守っている状態ですから、どうしてそう思うんだろうと、元にあるものを見つめることができないですよね。むしろ、そこにカギがあるわけですが。

安心の状態と一口に言いますが、身を守ろうとする防御の壁も人それぞれで多様です。できるだけ防御のない状態にできるように、それが、サイエンズメソッドを使ってのミィーティングでは一番ベースになる部分だと思っています。

さっきのスピリチャルとか悟りとか,宗教体験をされた方の場合は,パッと世界が変わって見えたり,それで自分の世界観が変わることで世界が違って見えるってことは、多分あるだろうと思います。ただ,世界観が変わったり、どんなに自由な心境を味わったりしても、今の社会の中で生きる限り、いろんな縛りが社会から来ますよね。

世界が縛るというのも,社会が縛るというのも,実際に「社会」というものがあるわけじゃない。社会というのは人間の考えで,ハラリさんも言っているように、人間は人間のフィクションを使って,これだけ,見知らぬ人同士が協力できる。それは逆に言ったらフィクションがあるからこそですね。ホモサピエンス以前の人の群れだったら、150人程度しか協力できなかったものが,フィクションを共有することで1万人で協同するとか,野球場に5万人の人が集まってくるとか,日本の国だったら1億3千万人の人が日本の国だとか,フィクションを共有することでそれだけの強力な力を得たということです。

それがホモサピエンス、人間の一つの大きな特徴ですけれども、逆に言えば、そのフィクションが、現在だったら規則とか,お金とか,人間を縛る道具にも同時になってしまっている。
さっきの,いくら悟った,世界観が変わったといっても,縛ってくる社会にいる限りは,心境的には変わったと感じて、中にはそれが一生続く人もいるかもしれませんけども,絶えず,縛ってくる影響を受けるわけです。
人間は山の上に一人でいたらそんなに社会の影響は受けないかもしれませんね。
しかし、こういう社会の中で暮らしている限りは、影響を絶えず受けています。人間は、そういう社会動物ですね。人の心境が変わっただけでは、たぶん安心は持続できない。社会すべてから、人を縛るものがなくならない限りは,本当に自由な心境で生き続けることはできないと思いますし,逆に社会が本当にそうなったら,一人ひとりが修行とかサイエンズを学ばなくても,そういう社会の中で暮らすことで、誰でも幸せに生きられるともいえるわけです。さっきもサイエンズメソッドの目的を言いましたけども,社会がそうなったらいいわけで,一人ひとりがサイエンズメソッドを学ばなくていい社会にしたいためにやっているともいえると思っています。

ハラリさんの言うフィクションが人間の持ち味でもあるし,繁栄する能力でもあるんだったら,そのフィクションをフィクションとして扱って,フィクションに縛られない使い方をしていくことはどうか。

それは言い換えれば、人間の考えがどういうことかを知ることだと思うわけです。フィクションは人間の考えの話ですから,人間が人間のフィクションを、フィクションとして扱える,そういう知能の使い方になっていくのがサイエンズメソッドともいえるかなと思っているわけです。

三木
なるほど。だから人間の考えを、もっと意識的に使えるようになることがサイエンズメソッドの目的ですね。

小野
そうですね。新しい知能の用い方だ、と僕は思うんです。
例えば,法律があるとか,お金があるとか,常識があるとか,あたかも「ある」みたいじゃないですか。常識あるよねとか,規則あるじゃんとか。それがフィクションだという自覚もないくらい,お金がなきゃ生きていけないという人が結構多いですよね。それくらい現実感がある。

フィクションと思えないくらい現実感があるように,もう,フィクションに支配されちゃっている。人間が作ったフィクションなのに,人間がそれに支配されて,お金のために働くのは当たり前みたいな。国を守るとか当たり前のように言いますが,「国ってどこにあるのですか?」みたいなね。

三木
でもそうなると問題は、国もお金も全部ここ、頭の中にあるんですが、それをみんながみんな同じように思っていて、もし誰かが外れようとすると「おいおいおい」と引き戻すわけですよね。そこをどうやって開いていくかっていうのが、課題になるのではないか。

小野
そうですね。

三木
そこをサイエンズメソッドは徹底して探究しているのかなと思うんですが。

小野
大きなところですね。フィクションを否定しているわけじゃないんです。
国、という概念を否定しているわけじゃなくて,それに縛られている,縛っているという部分が、もっと自覚できるようになることですね。

そしたら国っていうのは何のために作っているフィクションだろう?とね,人を縛るとしたらそれは逆なんじゃないかとか。規則とかルールとかもそうですよね。規則が悪いというわけではなくて,こうしようかというルールとかはあってもいいと思うんですが,人よりもルールを大事にして,ルールを守らない人を縛ったり,責めたりして。そこがテーマではないかと感じています。

フィクションに縛られないで,フィクションを活かせる。そういう知能の使い方。人間の持っている,フィクションを使って共有できる,協力できる,それをもっと存分に発揮できる方法がサイエンズメソッドではないかという風にも思います。

三木
それが、そのサイエンズの一番新しい本で、『次の社会へ 人知革命』、という言葉で表しているのが今言った内容ですね。

小野
そうですね。革命というと、何か壊したり,あいつが悪いからやっつけろと暴力的になったりしがちですかね。
しかし、サイエンズの場合は、たとえば国とか法律とかお金、それぞれ一体「何」を指しているのか,何をしているのか知っていくプロセスが大きいです。「知る」ことで世界が変わっていく。
何かを変えたり,壊したりしていくのも一切なくて,本当は,それはどういうものなのか,フィクションっていうのはどういう存在なのか,フィクションを使って何をしたかったのかとか,そういうことを知るだけで世界が変わっていく。知ったら,自分自身もそういう方向に進んでいきますし,サイエンズメソッドを使ったミーティングを通して,何がしたいんだろうとか,何にとらわれてきたんだろうと知ることで、これまでとは違う関係性が生まれてくる。
そういう中でアズワン鈴鹿コミュニティという「形」になって現れてきていると思うんですよね。

三木
それで言えば、鈴鹿のアズワンコミュンティが面白いなあと思ったのは、
普通、コミュニティといえば、実際に限られた敷地があって、その中に建物があって、その中で共同生活をしているというイメージを抱いています。実際、多くの場合がそういう形だと思うんですが、アズワンにはそういうのがない。
20万人都市の鈴鹿の中で、それぞれの生活があって、それぞれ外から見ると普通に暮らしてるんだけども、その中に、人知革命で培ったんでしょうかね、ニュートラルな、ナチュラルな意識状態で人と人が行き来し合っている。
そこは見えないけどしっかりあって、またそれを外部から来た人がしっかり感じられる。見えないけども感じられるぐらいに育ってきているなと。

小野
そうですね。

三木
そこが本当に素晴らしいなって思っています。
形がそのまま日本に広がるってことじゃなくて、人と人、ナチュラルに付き合える人たちがどんどん増えていってーーーそれぞれの場でそれぞれの人がまたそれぞれの暮らし方をしていくというか。そういうことですよね。

小野
そうですね。知能の用い方が、フィクションをフィクションとして扱えたり、自分の内面に何が起こっているのかを観察できたりするように働きあう。
そういう人たちがいたら,人と人とのつながりの中から現れてくるのが社会ですから、次の社会は、そういう関係性が生まれたお互いの中で出来てくるもの、ということです。
鈴鹿は一つの実例としてみてもらいながら,こんな暮らし方や関係の仕方がありうることや、そのベースになっている、サイエンズメソッドにも触れてもらったらうれしいですね。感じられたところから、新たに新しいものが生まれていくのではないでしょうか。

何歳になっても、人というものは、自分自身からいろんなこと気づいていけるということ、そういう人同士が何人か集まってきたら、そこに新しい関係性が生まれます。もしそれが皆さんご自身の場所で、各地で生まれはじめると,いろんな形のコミュニティが生まれてくると思うのですよね。コミュニティの形は,そこの地域とか,そこにいる人たちによっていろんな現れ方をしていくでしょうから、結果として多様な姿になってくると思いますけどね。

三木
普通、次の社会というと、民主主義とか資本主義とか、あるいはそういうものじゃない、もっと良い制度とか何とかーーー、という発想になりがちですが、しかしそこは全部オープンですよね。
形にとらわれるのじゃなくて、もっと具体的な、人と人の自然な状態での暮らしぶりが、次の社会を生み出していく。

小野
そうですね。まず一人一人がある。それぞれがその人らしく生きられるために制度がある。しかし現状では,制度に人が合わせる,制度を維持するために人が合わせなきゃいけない,それに合う人を教育する、となっているから,どうしても維持させようとして、人に圧力がかかったり,自分の意志ではないことを強いられたりすることがおきる。だが社会を守るためには、それも仕方がない、いやむしろ必要じゃないかとーー。
要するに,フィクションで作った社会ありきで,そこに合う人を育てる、という構造になってしまっているのですね。

しかし,一人一人が実在するわけです。一人ひとりが本当にその人らしく自由に生きられるためにフィクションを使う。というか,協力し合うためにフィクションを使う。
いまは本末転倒ですね。フィクションを守るために人が要るから、人を縛るためのフィクションを生み出している。
そこ、人のためにフィクションを扱えるようになっていきたい。

今,アズワンがスタートして丸20年になりますが、サイエンズメソッドをベースに,人が社会に合わせるのではなくて,誰もがその人らしく生きるための社会ということに焦点が当たってきました。
研究も,最初は、認識とか個人の悪感情からの解放とか,話し合えるということが最初の研究テーマとして大きかったわけですけども,今は、社会がそうなっていくための研究になってきました。誰もがその人らしく生きられる社会の仕組みはどんなものか。社会がどうできていくのかという研究に重点が移ってきている感じです。

社会ができたら一人ひとりがそんなに努力しなくてよくなるのではないか。そういう社会の中で育ったら、それが当たり前になる。
たとえば、固定しないということも、元々,自然界にも、そこに生きる人間という生物にも、固定のない、常に変化する動きの中で生存している。そういう存在です。実は努力しなくても。本来の人の姿で生きられるような社会というものが、研究を通してだいぶ見えてきた感じはしますけどもね。

三木
その意味でいうと、今の社会の方が、無理をしている、ということになりますね。
無理なことをしている、それで必然的にみんなそこで強いられて、しんどいわけですね。この状態から、もとの姿に自然に戻す感じですかね?

小野
はい。サイエンズメソッドを学んで、何かを身につけて立派な人になる,努力して取り組んで悟るんだ、とかではまったくない。逆に、本来は要らないもの、無理のある社会に適応するためにつけざるを得なかったものを外していくということなんですかね。
それは、元々人間、あるいはその人に備わっている、「ある」ものに気づいていって,元々あるもの同士でつながっていく。
お互いに,互いの元々のもの、その人らしさを応援し合っていこうみたいな,すごいシンプルな感じですね。

三木
そうですね。やっぱり21世紀の禅かなあと。僕としては、そこにこだわってる(笑)

小野
三木さんの文章で、足し算じゃなくて引き算だ、みたいなことを紹介していましたよね。

三木
そこが本当にいいですね。どんどん楽になる。

小野
自分で修行して高みに上がっていく、ということではない、その真逆ですね。要らないものがまず取れていく。もちろん本来のもので伸びていきたいという気持ちは自然にあると思います。しかし、頑張ってとか,努力して、など自分に強いるようなことでは、そうならない。苦しいことではなくて、本当にそうなりたいという分だけが、そうなっていくというかーーー

三木
するとその分、もっと今より豊かな社会になっていく気がしますね。

小野
それはすごく思うね。恐れたり警戒したり,社会に合わせなきゃいけなかったり,頑張らなきゃいけないとか,評価を得なきゃいけないとかーーーー,多くの人たちが、そのことのためにエネルギーの多くを費やしている感じがします。
まず人から責められないようにしようとか,言ったことには責任取らなきゃとか,言いたいことが言えないとか。

三木
はい、自分で自分と戦ってる感じですよね。相当消耗をしてしまう。

小野
そういう無駄なエネルギーが要らなくて,本当に言いたいことが言える,やりたいことがそのまま言えるとか,やりたくないことはやらなくてもいいとか,そうなったらどれだけ人ってエネルギーが出て来るんだろう。みんな、心ならずも、ものすごいエネルギーを浪費してしまっていますよね。

三木
そうなると本当にね、自然に人がみんな、もともと持っているやさしさとか、思いやりとか、創造性だとか、いろんなものが楽に出てくる感じですね。

小野
そういうお互いが,してあげたいとか,他の人からしてほしいと言われたら、やってあげたくなるとかね。人に求めるもの,人に応えたいもの,それで響き合っていく人間関係がベースに。

小野
それが今の鈴鹿では現実に感じられる。初めて来た人にも少し感じてもらえるとこまで成長しつつあるところかなぁって思っているのですが、どうですかね。

三木
僕らは日本語で学べる、学ぶって言い方がいいのかどうかわからないですけど、すごくいいなと思います。今、サイエンズアカデミーには、スイスとかブラジルとか韓国から鈴鹿に学びに来ている人たちがいますが、皆すごい偉いなあ。

日本語から学んで、暮らしを通して学びながら、いずれそれぞれ各国に戻って広げていくんですよね。僕らは日本語で恵まれてるなって。

ここでぼくはOSHOの宣伝をしたいのですが、OSHOは日本に禅のスピリットは今で
も生きてるって言ってたのです。が、そのスピリットは生きてるんだけども、日本人は同時に世界で一番抑圧されている、とも言いました。
そこからすると、多分、日本人くらい、人間の考えに一番忠実に従わなきゃいけないって思っているのかもしれないですね。だから、そこを突破すれば、その日本人がずっと伝えてきた禅のスピリットが開花すると。そして21世紀は禅の時代だと。

小野
そうなんですか。なるほど。

三木
はい、すいません。

小野
それで21世紀の禅なんですね。

三木
そうなんですよ。それで21世紀の禅なんですよ。 ちょうどいい感じでまとまりましたね。(笑)

小野・三木
だいぶしゃべりましたねー、そうですね。少ししゃべり疲れたんですけど。(笑)
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対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」文章化(その2)

サイエンズメソッド対談.jpg
10月のオンライン対談の文章化(その2)です。
ご覧ください。

10月の対談については、YouTubeで動画が見れます。
https://youtu.be/pqCM5PseOPw

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「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」(その2)

三木
それでその問う方法としてサイエンズメソッドが生まれてきたということですね。
自分自身がサイエンズスクールで8つのコースを体験させていただいて思ったのは、それぞれのコースに出てくる問いというものが、実に有効じゃないか、ということです。自分の実際がどうなっているのかを調べる問いになっている。

そこから、僕は、これが本当に21世紀の禅だなと強く感じ入ったわけです。
公案みたいなんですね。
「生まれる以前の、自分の顔とは何か」
など伝統的な公案には、非常に難しいものが多いと思っているのですが、そのような難しい公案ではないし、もっと身近な問いであるにもかかわらず、本当の自分を観れていく、いい問いだなーと思ったわけです。
ああいう問いってのいうのは、どういう形で生まれてきたのですか。

小野
そうですね。僕らは、2000年の暮れに引っ越してきて、2001年当時から本当に研究したかったんですね。
「何がどうなって間違ってきたのか」
「本当はどうしたかったのか」
「本当に固定しないでいくとは」とか、
「一つってどういうことか」とか、
もっと研究したいというメンバーで、最初の頃からズーっと毎週3時間、いろんなことを研究する中で、次第に見えていきました。
それがある程度「こういう方向だろう」とか、
「なぜ固定するのか」、
さっき言っていたように、
「いくら頭で分かっていても、そう成っていかないのはなぜか」とか、
そういうことをずっと研究していく中で、その中で自分たちが調べていく問いが自然に出てくるわけですよ。
それがある程度見えてくると、これをまた今度は
「いろんな人たちが一緒に考えていけるようになるにはどうしたらいいか」
という中で生まれてくる問いですよね。
やっぱり自分たちが問いかけてきたその中で「見えてきた問い」ですね。
またサイエンズメソッドっていうのは教える方式ではなくて、一人一人が気づいていくものにしたかった。おそらく禅の公案も同じ趣旨だと思うんですが、何か教えがあって、それを覚えたりするんではなくて、一人一人が真理の方に気づいていくためのきっかけとしての禅だったんじゃないかと思うんです。
僕たちも、教えること自体が、さっきも話に出ていましたように、考えを固定する方式ではないかと思っています。
「どうやったら一人一人が自分の頭で考えて、自分自身で本来とか真理に気づいていけるだろうか? 本来のものに気づいていくには?」
という方向ですね。特に、それを個人で「うーん」と考えるのではなくて、その真逆で、みんなで考え合う中で気づいていけるようにーーー。そういう研究をする中で見つけ出していった問いですね。

三木
なるほど。
今の話を聞いていて、やっぱりサイズメソッドがすごくいいなぁと思ったんです。
僕は瞑想などを通して、自分で自分の内側を観ることをしてきたんです。ところが、サイエンズメソッドでは僕は不意打ちを受けたんですよ。
みんなでこたつを囲んで、お茶とかお茶菓子を食べながら、問いについてみんなでべちゃべちゃべちゃべちゃ喋るじゃないですか(笑)
そういうと語弊があるかもしれないですが、そうやってみんなで深く考えながら、進むじゃないですか。ここが、自分一人で考えるんじゃなくて、みんなで一緒に探究するっていうんですかねーー。
「これはどういうことだ、どういうことだ」と。非常に新鮮だったし、経験して、これは楽だなあって思いました。
自分一人だとどうしてもブラインドスポットのようなものがあるのですね。ところが、この場合は、他の人の考えを聞いて、
「あ、それはそうだな」
と、はっと立ち止まったり、気づくわけです。そういう感じはいくつもありました。

振返ると、自分がサイエンズスクールに参加している時に、随分、いろんな人に助けてもらったなあと思いますが、しかしやっぱり気づくのは、自分自身なんです。この点が大事じゃないかと思うのは、普通の状態では、人の気づきをいくら聞いてもそれは自分の気づきにはなりえない。しかしサイエンズの探究をしている場合には、
「ああー、なるほどなるほど」と、
そういう時は自分の方で気づいてるんですよ。

小野
うんうん

三木
そういう自分自身が体験してきたことがあって、今の話でもやっぱり非常に考えられてるなぁと思うのは、もしこれが教えとして、
「これが答えだよ」とやってしまうと、
その答えを暗記して、
「この問題が出た、この答えに従って」
のような今までの教育の仕方に戻っちゃう。
だからある意味、現代人がみんなで一緒に考えたらいい質の問いを、アズワンのこれまでの経過の中でみなさんで見出してこられた。それを提供しているという印象があります。
「みんなでこれ一緒に考えてみようよ、探求してみようよ」と。

小野
うんうん

三木
あと一つは、サイエンズメソッドで、部屋に張り紙してあるじゃないですか。正確な言葉はおぼえてないのですけど、終わりなき探究でしたっけ、どこまでも続く探究、、、
ね、どこまでもいくみたいな。どこまでも広がっていくみたいな

小野
そうですね。

三木
自分の固定を、どこまでも取り外していくための問い、ということでしょうか。

小野
ええそうですね

三木
この感じがまた、禅なんじゃないかと思うんですけどね

小野
そうですね。サイエンズメソッドでは「人間の考えがどういうものか」っていうのが一つ目の問い、というか項目で、「人間の考えを知る」っていう項目がすごく大きいんですが―――、

三木
ちょっと待ってください。
その「人間の考え」って言い方がちょっとわかりにくいと思うんですが、それってどういうことですか。

小野
んー、これ、確かにね、話始めると難しいといえば難しい、、、  
例えば、いま僕たちの目の前にマイクがありますが、こういうモノに対しても、人間は全て自分の目を通して、五感を通して認識して捉えるわけですよね。真理とか本当のことを調べていくのも、絶えず人間は何かの五感を通して、経験とか知識とかを使って認識して、それを思考したりしていろんなものを見出していく、そういう生き物だと思うんです。
そういう意味で、いくら事実とか真理に迫ろうとしても、あくまでも人間なりに捉えたもの、五感で捉えて人間なりに捉えたもので真理に迫っていこう、事実に迫っていこうとする存在だと思うのです。ですから、どこまでいっても、いくら調べても、真理にどんどん近づいていくとは思うんですけども、人間は人間なりの捉え方でしか捉えられないという限界を知る。
それがある面で、決して固定しない、決めつけが起こらないことになる、この発見はすごく大きかったなぁ。

こういうのも、知識的には、脳科学の分野で、現代ではすでに言われていることですけれど、じゃあ、いざ自分たちが暮らしている日常では、やっぱり「見たら、そうじゃん」とか、「私は見た!」とかね。
「見た、絶対間違いない」とか、
結構言い張ったりしがちです。この大きさをすごく思うんですね。
理論的に留まることなく、やはり実際に迫っていこう、真理を知っていこうという姿勢でもあるし、それを探究会で、知識ではなくて、人間の限界を自覚して、絶えずそういう姿勢で生きていけるようになる、そこが大きいんじゃないかなと。

三木
なるほど。じゃあ、サイエンズの各種コースではその問いを通して、どこまでも固定しない、決めつけないということを学んでいるんでしょうか。

小野
そうですね。それが一つ大きいです。
人間の考えを知るってことは、どんな時も自分たちが見てるに過ぎない。だから認識していることとかは仮説でね。証明されたと言われている法則とか理論とかでも、
「人間なりに一応証明した」
と思ってるだけで、
「証明したから実際だ」
「証明したからこれは真理だ」
とは言いきれない。まあ実際に科学の理論とか法則も、その時代には真理だって言ってたことも、また新しい発見や理論に塗り替えられていることが多々あるわけで、今の段階で、一応真理だろう、と人間が思っている。だから真理そのものではないですよね。真理だと思っている。真理だと、一応証明されている、としているわけですね。

三木
現時点ではそう思っている、ということですね…

小野
そういうことだと知っていく。すると、決めたこと、固定したものが無くなっていく。その結果として自然に悪感情とか対立から解放されていくーーー
そこが大きいと思いますね。

三木
ここは丁寧にね、もっと聞きたいところですけど、要するに固定がなくなってくるっていうところが、他人に対する悪感情を持たなくなるということに、どうしてそこがつながってくるだろう。

小野
例えばひどいこと言われてとかね
「あいつがひどいこと言ったから、自分が腹がたった」
よくそういうことも話に出ますね。
この例で行くと、ひどいこと言ったっていうことについても、まず、ひどいこと言ったってことが事実かどうか?
:
「あいつがひどいこと言ったから自分が腹立った」
と当然のように思ったり言ったりしますが、はたしてその人はひどいことを言ったのだろうか?
ひどいことを言った、これが事実だ、そこから話が出発しますが、そもそもひどいことっていう事実があるのか?とかね・・・
ひどい事の、ひどいっていう形容詞も、相手の人が言った言葉を自分のイメージ で捉えたり、様子を見て、それを自分のイメージでやはり捉えたり、自分の過去の経験、記憶に照らして解釈して、「ひどいな」となる。そこは自分が認識してそうなる訳ですが、それを、自覚がないまま、自分自身の捉え方であり認識だということが抜け落ちて、
「ひどい事が起こった」となる・・・。
悪感情が起こるには、そう捉えてしまう捉え方や過去の記憶、その事に対する価値観など、いろんなものがあるわけです。

自分なりのそういう捉え方と、記憶や心の状態などが反応して、怒りが起こるんですが、それをあたかも、相手のせいにするメカニズムがいろいろ複雑にからんでいる。
そのプロセスを解剖していくわけです。しかし、解剖の仕方も、論じるのではなく、どういうことが自分の中で起こっているのかを観察していくわけです。
すると、ここで決めている、ここは過去の体験とを結びつけている、とみえてくる。
言葉の問題もありますね、言葉に対する価値観が自分独自のものだ、と知っていくと見えてくる。すると、どんどん悪感情や怒りからも解放されてくるわけですよね。

三木
何かひどいことを言われたと思って自分は怒っているーーそのプロセスをもう一回、最初から調べていくと、ひどいことを言われたっていう、その自分自身の解釈自体がきっかけとなっていくけれども、それは本当ですか? という問いだと言ってもいいのでしょうか。

小野
そうですね。その場面では実際に何が起こっているのだろうとかと観察できるようになるとね、怒りはほぼなくなっていく感じはしますね。
この時の「相手のせいで」となっている部分ですけど、本当に相手のせいなのか、僕たちは「調べる」という表現をしていますが、その始まりとプロセスをちゃんと観察できるようになるとね、怒りはほぼなくなる感じがしますね。

三木
それは実際に起きていることに対して、自分でジャッジしないっていうか、ニュートラルでいられるみたいな感じなんですかね。

小野
だんだんそうなってきますよね。
その起こったことについて、まずは、まあ色んな反応がパッと起こってるんですけどそれがなくなるって事でもないですが、だんだん自分がとらえているんだということが分かってくるとーーー、

三木
この野郎みたいな

小野
はい、そういうことも、なぜこの野郎ってなるのか、だんだん分かってくると
「自分中にそういう捉え方もあるんだな」
と、自分を客観的に眺めたり、
「実際相手は何言ったんだろう?」
と、自分の感情より相手の実際に対して関心がまっすぐ移ります。こうした経過を経て、サイエンズメソッドを学んでいくと、悪感情とか怒りが無くなってきますね

三木
そのプロセスが見えてない段階では、それこそ小野さんに何か言われて、この野郎と思った時には、自分の方に自分の関心が向いちゃってて、何か言ってやろうかと思ったり、いやいや自分みたいな善良な人間はそんなこと思ったりしていけないと懸命に抑え込もうとしたりします。いずれにしても、結局自分の方に関心が行っちゃってるわけですね。
ところが、さっき小野さんが言ったように、そのプロセスが観えて、ニュートラルな姿勢になってくると、相手が言ったこと自体が
本当は何を言っているのか?
と相手に関心が向いていく、そういうことですかね。
それが本当の話し合いのスタート地点になっていく。

小野
そうですね
その人が言葉を通して、何かを表現するのを聴くということは、その表現する前の、その人を知りたいわけです。しかしほとんどの場合、言葉に対して自分が反応をしてしまって、
「ひどいこと言われた」とか、
「ああ嬉しいわ」とか、ね、
もう全部、自分の中だけでぐるぐるまわっているだけですよね。だいたい自作自演で、怒ったり嬉しかったりして、相手にはほとんど関心がない、という例が多い感じがしますよねー。

しかし、「だから怒っちゃいけない」とか
「何かおかしい」とか
怒ったことに対してまたジャッジが入る、そしてそれを「言っちゃいけない」とか
「おかしい」とか言って抑え込むから、ますます何が起こっているのか見えなくなっちゃうのではないでしょうか。
しかし、実際には起こったことは起こったことで、良いも悪いもなく起こってしまったことです。しかも、これを材料に自分の中のメカ二ズムを観察するとか、どういうプロセスが起こっているか観られるようになる。
この点だけでもすでに、何かを信じ込んだり、なにかの価値観で感情を抑え込んだりするような方向とは、全然違いますよね。

起こったことを題材に、何が自分の中にあるか、どういうふうに、どんな価値観があるのかとか、そういうことが自然と見えてくる。 それをまた一人で分析したんじゃないということがまた面白いところですよね。

もし一人だったら、大体自分の解釈の方に行ってしまうことが多い。それがさっきの問いがあったり、みんなの中でいろんな話を聞きながら、冷静に自分の中が観れるようになったりします。人の例を聞きながら「あっ!」てね、自分が気付いたり・・・。
一人で自分の中を見る人は、例えばブッダとかああいう人はできた人なんだろうなと思いますけど、ほとんどの人はそういうのは非常に難しいと思うんです。しかしサイエンズメソッドのミーティングで調べていくと、かなりの人が簡単に気づいていける。
そういう感じがしますね。

三木
それで言うと、僕が体験的に思うのは、何人かと一緒に探究するのですが、そこの空気感、安心して自分の中を調べられる、というのがいいですね。どうしても普段は自分を守ってると思うんです。

小野
そうですね。

三木
そこを安心して素直に調べていける場ができてるような気がするーーーいや、ような、じゃなくて、実際出来ているのですが、そこはやはり小野さんたちのこれまでの経験が、何か生かされているのかと思うんですね。
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対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」文章化(その1)

サイエンズメソッド対談.jpg
10月の対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」
を文章化しました。これから毎週Webサイトにアップロードします。

10月の対談については、YouTubeで動画が見れます。
https://youtu.be/pqCM5PseOPw

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アズワンネットワーク
今日の企画は、サイエンズについて小野さんとじっくり対談をしてみたいという、三木さんの提案を受けて、それは面白そうだということで始まりました。
それぞれ簡単に自己紹介をしてもらいたいと思います。では三木さんからよろしくお願いします。

三木
こんにちは。千葉から来た三木卓です。
簡単な自己紹介をします。長く出版社に勤めたのですが、出版社に入ったその時点で、すでに社会にも絶望し、自分にも絶望していました。
本が好きだからっていうことで、仕方なく出版社にもぐりこんだ感じでしたから、入社しても夜な夜な一人で酒を飲んでは、哲学書や文学書を読んで部屋の中でウダウダしていましたね。会社の上司から「お前、いつまで出てこないんだ、早く出てこい」と怒られるようなダメダメ社員でした。
ある時、OSHOというインドの聖者の本を読んで、びっくりして、のちに私の師匠になるんですが、インドまで彼に会いに行きました。1988年です。
彼のまわりには静寂のエネルギー場とでもいうようなものができていて、そこに入ると、自然に自分の内側も本当に静寂になりました。宇宙と一つになるような体験をし、こんな意識状態があるのだと知りました。その経験からブッダとかキリストのような人たちはこの地球上に実在したのだということも理解できました。
OSHOのエネルギー場の中に人々が集まり、愛と喜びに満ちて暮らす共同体が自然に出来ていました。有給をとっての旅だったせいもあって、彼の元に滞在したのは2週間でしたが、これが地球全体に広がったら本当に地球は天国になるな、とも実感しました。
その確信だけは持って日本に帰ったのですけれども、その静かだった意識がザワザワザワザワとしてきて、いつもの騒がしい心に戻ってしまったんですね。それ以来、あの意識状態に向かうことが自分の人生の目標になり、あの意識状態の人たちが集まれば、天国のような世界がこの地球上に実際にできるんだという可能性は知ったわけです。
しかしOSHOは1990年に亡くなってしまいます。その後ずっと、その可能性の実現を求めて探すことが続いていました。
そして昨年2019年、ユネスコ認証の持続可能な社会のための人材開発教育プログラムでGaia Educationというのがあると知って、ずーっとそういう問題意識があったので参加したのですが、そこで初めて鈴鹿のアズワンに触れました。
ガイアエディケーションの中で、参加者みんなで話し合いながら、いろんなことを深めていくっていうやり方に非常に感銘を受け、これが本当に社会が変わり、人が変わる、穏やかだけど確実な方法じゃないかなと思いました。
そしてその背景になっているサイエンズメソッドを学びたいと思って、ガイアエディケーションが終わるとすぐにサイエンズスクールに行ったわけです。それは8段階まであるんですけど、ほぼ毎月通って受けまして、ちょうどこの8月に「一つを実現する」という、最後のコースを終えました。
コースに行くたびに自分の目標、関心とぴったりだという確信が深まっていきました。
今回そのサイエンズメソッドを開発した一人である小野さんに、いろいろ話を聞いてみたいと思います。よろしくお願いします。

小野雅司
はい、僕の自己紹介させてもらいます。小野雅司と言います。1961年、東京都生まれの59歳です。学生時代から、社会について、自分について、いろいろ疑問が出まして、心理学も勉強してみました。心理学をやっていると、社会の問題が全部人の心に表れているということが見えてくるようになりました。
これは社会がよくならないと、心理だけよくしようとしてもダメだなあと、今度は社会の方に関心がいきました。学生運動とか、突然始めたんですね。ところが学生運動をしていると、平和活動しているのに喧嘩したりしていてね。仲間でも意見が違うと争い合ったりとか、「なんか違うなあ」と満足できなかったんです。
そういう中でいろいろ探しました。やっぱり人の内面、自分の内面も含めて、「怒りや争いが当然だとなっているままで、平和運動をしていてもなあーーー」と、思うようになり、自分の内面と社会の問題が同時に解決していくようなものはないかという、そんな問題意識がありました。
その頃ちょうどヤマギシ会という共同体運動しているところに出会って、ここだったら内面のことと社会のことと同時に進んでいけるんじゃないかという希望があって、大学出ると同時にその共同体運動に参画しました。以後約16年くらい活動してました。最後の3年間ブラジルに行って過ごしたのですが、そこでいろいろな矛盾が出てきたり、自分自身も願ってたこととどんどん違う方向に行っている感じがあって、「これではなあ」という限界を感じるようになっていました。それで2000年に帰国すると、ヤマギシ会を脱退しました。
その頃にヤマギシの中でもいろいろ見直そうという動きがあったんですけど、「一緒に、一回ゼロから見直そうじゃないか」っていう人たちも何人かいて、「本当にもう一回ゼロから、いったい自分は、何を本当に願っているのか」とか、「理想としているものが実現するのは、どうしたらそう実現するのか」と考えていました。
逆に言ったら、「ヤマギシみたいな、そういう願いを持った人たちがたくさん集まっているところで、なぜ実現しなかったのか」、そこを真面目に見直さないとなーというところから、鈴鹿で新しいスタートを切ったのです。
鈴鹿で今年20年になるんですけども、本当にゼロからやり直そうとしました。最初の5年くらいは本当にいろいろなことを見直したり考え直したりとか、「何がしたいのか」、「何が間違っていたのか」とか、「どこがどうなっいたのか」という感じで、そういうことばかり探究していたような記憶があります。そういう中から「サイエンズ」と今呼んでますが、新しい知能の使い方なんですけど、そういうものを5年くらいかかって見つけてきた感じがあって、そこから本格的にこのコミュニティのベースがつくられていったように思います。
今は「サイエンズメソッド」って言うくらい、だんだん中身も洗練されてきた感じですけど、始まりはそこからでした。
今はサイエンズ研究所って、研究部門で僕はやらせてもらっています。
鈴鹿だけじゃなくて、最近だったらブラジルとか韓国とか、スイスとか海外にも行って、「サイエンズメソッド」を使って自分を調べる方向とか、社会ができていく基盤がどうやったらできるかっていうことを、各地でサポートしています。ガイアエデュケーションも、鈴鹿会場でやるときには一緒に入らせてもらったりしていたんです。三期目に参加していた三木さんとはそこで出会ってね。今日はこんな機会まで作ってもらって、うれしいです。よろしくお願いします。

三木
では今日の対談の趣旨について紹介をしたいと思います。

サイエンズメソッドについては『サイエンズ入門』、『次の社会へ 人知革命』など何冊か出版されていますね。けれども、サイエンズメソッド自体の体験がないと、文章だけ読んでも、なかなか分かりづらいことがあると思いました。せっかくのサイエンズメドッドの素晴らしさを、出来るだけたくさんの皆さんとシェアできたらいいなという、僕の個人的な思いから始まって、賛同してくださる方々とこんな形で実現できるまで進んできたわけです。
今回のタイトル「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」
と、クエスチョンマークが入ってるんです。21世紀の禅!?って。
僕の気持ちは、21世紀の禅だと思ってるんですけど、なぜクェスチョンをつけたかと言いますと、実は僕自身は禅寺で修行したとか、そういう経験は一切ない。いわゆる伝統的な禅って学んだことがない。それこそ禅寺で1回ぐらいは座禅したことがあるぐらいで、作法とか教えてもらった程度。そういう意味で日本人の平均的な形でしか禅を知らないと思いますが。
僕がもともと師匠であるOSHOに出会ったのが、英語の本だったんですけども、“Nirvana The Last Nightmare”という禅についての講演録だったんですね。
ニルヴァーナ、涅槃、そういう悟りの境地みたいなものですが、それこそが最後の悪夢になるよっていうタイトルです。
がつーんと来ました。ずっと、自分の人生の生きる目的などを、探し求めてきたにもかかわらず、見つからないってことで絶望し切っていたんですね。まさに悪夢です。
本の最初の1行が、「アイデアリズムが人間を殺す最も強力な毒だ」という文章で始まります。アイデアリズム、日本語に訳したら理想主義という感じだと思うんですけれども、それこそサイエズメソッドで言う「人間の考え」にあたるんです。人間の考え方が、実は人を殺している、人を生かしてないみたいな、そういうことをこの本で指摘されて、本当にハッとして。
「あ、まさに自分はそれだ」という感じがあって、これが禅の人たちが指し示したことかと思った。
だから禅の修行とかそういうのはしてないですけども、「あれが禅だな」って、まあ自分の勝手な体験ですが。
OSHOが、禅の問答を借りながら伝えていたことが、禅の本質だとしたら、それこそサイエズメソッドっていうのは、21世紀のほんとうに生きてる禅だなと。
伝統的な禅は、知らないから言っちゃまずいけど、形骸化してるんじゃないかなみたいに、いつくかの日本の禅の本を読んで思ったりもしました。
そうじゃない本当に日々の中で禅的なものを復活させる方法としてサイエンズメソッドがあり、その実際の現れとして、このアズワンコミュニティがあるというような思いを持ったんです。
それを来る度に、僕は確信していく。
だから本当に皆さんね、普通の感じで暮らしてるけどね、それが凄いことやってるなって。
はい、静かに感動しています。

じゃあ、まずはサイズメソッドの、端的に言って、目的って何なんですか?

小野
いきなりそこですねーー、ずばり言ったら、「人間が人間らしく生きられる」ことが、サイエンズの目的です。
禅など、どんな宗教でも、科学の研究などであっても、その真の目的は人が本当に幸せに、人間が人間らしく生きられるか、人間が人間らしく生きられる社会であるかどうか。
何であっても、本当はそっちの方向に行きたくてやっていると思うのです。そこを実現していきたい。サイエンズは、それを実現していきたい中で見い出されてきた、思考の方法と言いますか・・・。
さっきも言いましたが、自分がいろいろ理想を掲げてやってきても、なぜか理想と違う方向に行ってしまう。やはり人と人が本当に仲の良い、人が人らしく生きたいのに生きられなくなる。その原因は何か、と調べてくる中で見出されてきた考え方。そういう感じはしているのですけどね。

三木
先ほどの小野さんの自己紹介をききまして、ヤマギシ会での経験が非常に大きかったんじゃないかなと個人的に思うのですが。 ヤマギシも理想を目指して行った共同体ですけれども、そこで小野さんは自分の求めているものと違うなと感じられて、そこをまた出ていって、再びゼロゼロベースで始められた。

小野
そうですね

三木
そして鈴鹿での最初5年くらいは、ヤマギシでなぜうまくいかなかったかの問題も整理していた?

小野
そういう面もありますよね。理想を掲げて集まってきた人たちが、なぜまた同じようなトラップというか、同じ所にいくかということが・・・。

三木
その同じようなトラブルというのはどのようなトラブルだったのでしょうか?

小野
端的に言ったら、人と人、ですよね。
なんでもそうでしょうけど、人と人とが話し合えなくなったり、人と人との関係がまずくなったり。
人が悪感情に囚われていくというのは、やっぱりその人の中に、何かこれと決めたものがあったり・・・

三木
決めたものがあるというのは?

小野
あぁ、それは決めつけたり、ということ。
その結果ガンコになっているという、そういうことが人間関係を阻害することは、いろんな人も言ってますよね。僕たちもそう思っていました。ところが、そう思っている自分たちであるのに、なぜかキメツケたり固定していく、囚われていく・・・。

三木
何に固定されていくんですか?

小野
自分の考えですよねー。「相手が間違ってる」とか、「これは間違いなく正しい」とか、そういうこと。しかし、何が原因かと、僕たちも頭では理解してるわけですよね。

三木
すでに、そういうことは話し合ったり、検討している?

小野
そう、ざっとは理解している。ところが実際にはそれができていない。
それはヤマギシ会だけじゃなくて、僕ら自身が鈴鹿に来てからも、ゼロから見直そうと反省をしてきた自分たちも、そうなんですね。
いよいよ鈴鹿でスタートしてやっていくんですけれども、やっぱり同じような問題が現われてくる。ゼロから始めようと言って、それを体験して、反省もして、問題も分かったーーー

三木
固定しているのが問題だって分かってる・・・

小野
はい、そういう自分たちが鈴鹿でスタートして、やっぱり同じような問題が現われてくる。「あれ?これはどういうことなんだ?」と。
これはもう「人間というものはそういうものか」
という感じにもいきそうだったけれど、
「いやいや、待て」と。
「これで諦めてしまったらお終いではないか」と。
これはゼロからスタートしてやろうとしている自分たちに現れているけど、自分たちの意識の下にそういうものが根深くあって、いくら理論で知ったとしても、実際にはそうなっていかない。これは自分たちの範囲に留まらない問題ではないのかーー。

三木
こういう言い方はできるのかなと、今聴いてて思ったのは、自分が信じたいこと、「人類は一つ」とか、「私は優しい人だ」と信じたいことがあるけど、でももうなんか信じちゃってることとか、無意識の信念というか、全然違うことを実は信じてるから、そこを観なくちゃいけない。

小野
そうですね、逆に言ったらそこの自分の心の状態が、つまり、意識じゃない、意識の奥にある価値観、世界観や人間観が現れて、いろんなことが起こっているだと気づいたわけです。
人間の無意識のところがどうなっているかを調べないと、いくら口ではよいことを言っても実際には成っていかない。そこを調べる方法を見出そうとして、サイエンズメソッドができてきた。
だから逆に言ったら、環境の中でできてしまった見え方だったり、心の状態ですけど、その奥にはもっと人間本来持っているものはあるんじゃないかって、調べる中で見えてきました。
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人類に贈る!サイエンズメソッド



人類が初めて月面に立ったのはちょうど50年前(1969年)のこと。その前年にアポロ8号が月面から昇る地球の姿を撮影し全世界に届けました。地球の出(Earthrise)と呼ばれるその画像は、人類の意識に大きな影響を与えたとも言われています。青く光るその星の中で私たち人類は共存し暮らしているのです。地上では見えなかったその姿を遠く離れて眺めることによって、私たちは初めてその存在を知ることが出来たのではないでしょうか。

青い地球の光を人類が目にした最初でした。

ジョンレノンの名曲『イマジン』が作られたのもこの少し後です。

「The world will be as one.」(世界は一つになる)と歌われているその発想にもひょっとしたら影響を与えていたのかもしれません。



そして、私たちは、これから先、どこに向かおうとしているのでしょう。
物があふれ暮らしが便利になっても、人が人を強制し、縛る考えは営々と引き継がれてきて、社会は住みにくく、そこから自由になれていません。
こうした問題を根本から解決し、人間らしく生きられる方式が「サイエンズメソッド」です。今、その光が、人の中にある「ねばならない」という固定観念を消し去り、誰もが本心で生きられる社会を現しつつあります。

◆サイエンズメソッドについて(2019 サイエンズ研究所パンフより)

人類は、人間の考えで設けた善悪や決まりを共有し、それによって秩序や治安を保とうとする方法を数千年以上に亘って守り続けてきたようです。
この行き方には人と人の間に強制や束縛を必要とし、人の心に精神的な圧迫をもたらし、幼い頃から警戒心や対抗的感情を生じさせています。
このことが、人と人との争いなど人間問題の根本的原因であると考えています。

現状では、人に対して警戒心や対抗的感情を抱くのは当然という考えが根強いでしょう。そして、人間が善悪や決まりを共有し、強制や束縛を必要とするのも当然としているでしょう。しかし、この行き方では、いつまでたっても不正や犯罪や争いごとはあとを断ちません。
善悪や決まりを頑なに守ろうと努力し、そのために強制や束縛を必要としているかぎり、人間同士の抵抗や反発、争いはなくなりません。

このような人間問題の原因を根本から解消し、人間らしく生きられる社会を実現する道筋・方法として見出されたのが「サイエンズメソッド」です。

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