【次の社会創造】 連載第12回 (最終回) 争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

次の社会創造 連載第12回(最終回)
【争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ】
サイエンズ研究所  小野雅司
次の社会創造

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第三章
16. The world will be as one. ~I hope someday you will join us.

【The world will be as one】

John Lennonの「Imagine」の歌詞の最後のフレーズです。

世界中が一つで、争いなく、気持のままにやさしく生きられる世界。
これは、世界中のほとんどの人の素直な願いではないでしょうか?

Imagineが作られたのは1970年。それから50年以上が経過しても、世界各地で歌われ続けているのは、そういう願いの現れなのでしょうか。
しかし、JohnがImagineを作った時点から、その願いが実現に向かって進んできたでしょうか?

アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティづくりの元となる理念は、その名前の示すとおり、As One(一つ)です。
宇宙自然界には単独で存在しているものは何もなく、切れ目のないつながりの中で絶えず変化しているようです。人も物も、その中で、ひと時、現われ、また次のものに姿を変えながら存在しているのです。人の生き方もまた、この自然界の理にそって生きるからこそ持続可能であり、そういう生き方が楽で簡単で安心なのだと思います。

そういう世界観に立って、人とはどんな存在か、人間らしく生きられるにはどんな社会が必要か、こういう問いを元に、コミュニティづくりを通して、20年以上にわたって研究と実験を重ねきました。

その中で、人間の作り出したフィクションが固定化し、自然界の理から大きく外れてしまい、人間自らが自らを縛ってしまう自縄自縛状態であるという現状の姿も見えてきました。その固定化したフィクションから解放される方式を見出すことができました。そして、元々の姿、人間らしい姿に立ち還っていくプロセスも見えてきました。

元々一つ。所有も国境も権利も義務も責任も罰もお金も交換もすべて、人間が作り出したフィクションです。そこから解放されると、元々、自由、平等なのです。人間の考えで作り出したフィクションで自縄自縛の世界を作り出しているだけなのですから。どの人にも、すべてのものと調和し、健康に成長しようとする働きが元々あるのだと思います。何かを得たり、獲得しなくても、元々の姿に立ち還るだけでいいのです。

こういう理論的な話になると、ちょっと難しく感じる人もいるかもしれませんね。

しかし、アズワン鈴鹿コミュニティの実際に営まれている姿に触れてもらったら、実にシンプルで簡単なことだと理解してもらえると思います。元々の姿ですから、理屈でもなんでもない、人として実に当たり前の普通の姿だからです。

僕は、22年にわたるアズワンネットワーク鈴鹿コミュニティでの研究と試行錯誤の実践を通して、人間の素晴らしい能力を使えば、自分達が心底で願う世界は実現できると真面目に思っています。
まだまだ規模は小さいですし、未熟な点もまだまだありますが、「争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会」のミニモデルができつつあると思っています。

その社会を創っていける次の世代が育つ道筋も見えてきています。
これからは、研究と試験を重ねながら、規模的にもっと大きなコミュニティづくりに挑んでいく段階に入っていくと思いますし、鈴鹿以外にも日本各地・世界各地にこのようなコミュニティが創られていくサポートをしていきたいと思っています。ブラジル、韓国、スイスなどでもそういう動きがスタートしています。

この連載を読んでもらった人達とも、心底で願う世界を一緒に創っていけるとステキだなと思っています。
夢を夢に終わらさないで、みんなで知恵と力を合わせて、現実のものにしていきたいなって思っています。
みなさんは、どうですか?
僕は、一緒にやっていきたいなと願っています。

Imagineの一節に以下のような歌詞があります。

You may say I am a dreamer. 
僕のこと、ただ夢みてるだけって言うかもしれないね

But I’m not the only one.  
でも、この世界が見えてるのは僕一人じゃないはず

I hope someday you will join us. 
いつしか君も手を携えて、共に歩く日が来るよ

And the world will be as one.
だって元々僕らは「一つの世界」に生きてるんだから

僕達の試みは、今はまだ、夢追い人、変わり者のように見えるかもしれません。
しかし、現実に存在するし、その芽は確実に伸び広がり、多くの人と心の手を結び始めています。

世界中の多くの人と心の手を取り合って、争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会を一刻も早く実現していきたいと願っています。
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【次の社会創造】 連載第11回  争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

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サイエンズ研究所  小野雅司
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第三章

5.新しい社会への学びの宝庫 ~未来を拓く学びの場

2001年から20年を超す、新しい社会の実現を試みるアズワン鈴鹿コミュニティは学びの宝庫です。
社会、組織運営、経済、職場、会社、コミュニケーション、人間関係、子育て、シニアの生き方、青年の生き方、暮らしなど、様々な分野での新しいあり方を学ぶことができます。

それはきっと未来の社会を拓く学びの機会となるでしょう。
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上の図はアズワンスタイルと呼ばれる、人間らしい、豊かで快適な社会のライフスタイルを表しています。
アズワン鈴鹿コミュニティでは、このアズワンスタイルを学べる場を提供しています。

国内にとどまらず、世界各地から新しい社会のモデルとして、多くの人が鈴鹿コミュニティを視察・研修に訪れています。
コミュニティの空気や実際に触れ、自分の内面や社会の本質を探る機会になっています。
アズワンコミュニティを舞台に、アズワン鈴鹿ツアーが定期的に開催されています。

また、各種教育プログラム、大学のゼミ合宿や社員研修、高校生の体験学習、国際交流プログラムの会場としても活用されています。
また、GEN-Japan(グローバル・エコビレッジ・ネットワーク)が主催する、ユネスコ認証の持続可能な暮らしのための包括的な教育プログラム「ガイアエデュケーション」とユース向けの「ガイアユース」が、アズワン鈴鹿コミュニティをメイン会場に開催されています。

20年にわたり、コミュニティづくりを進める中で、コミュニティづくりの核心は、否すべての人間生活の核心は、人間関係であることがハッキリ見えてきました。
アズワン鈴鹿コミュニティでは、この良好な人間関係を育てていくことに、最も力を入れてきました。

そのためには、人としての成長が欠かせない要素です。人としての成長に対しての研究・実践を重ねる中で、今のアズワン鈴鹿コミュニティができてきたとも言えると思います。
その実践の中で、次の社会を創り出せる人が育つ道筋が見えてきました。
2018年4月、「争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会
」を世界各地に創っていける人材が育つための学び舎=サイエンズアカデミーを開設しました。

★サイエンズアカデミーHP

「次の社会」を創る人材が育つ
理想の社会を創り出すには、既存の常識や価値観に執われず、全く新しい立ち位置から考え、行動できる人材が必要になります。
人間や社会の本来の姿を知り、それを現実の社会の中に実現していくクリエイティブな力を有する人材を育成することが急がれています。
人として成長し、どこでも誰とでも、良好な人間関係で生きられる、つまり誰とでも話し合いができる、そしてそんな場を創り出せる人材です。
そのために、サイエンズアカデミーでは、人間らしい生き方をどこでも実現することができるサイエンズメソッドを学んでいます。
アズワン鈴鹿コミュニティでの暮らしや職場や、コミュニティの人との交流などの実体験を通して、他にはない濃密な学びの時を過ごしています。

現在 日本人6人、ブラジルから3人、韓国から5人、スイスから1人が学んでいます。

良好な人間関係をジャマするものは?
遠慮したり、気を使ったり、気持を抑えたり、我慢したり、不安になったり、または強く自分の意見を主張したり、自分の意見を固持したりする状態では、良好な人間関係とは言えないですね。
良好な人間関係とは、安心して、自分そのままでいられる、何でも言える、本心で生きられる関係性だと思います。

無理がある関係性は続かないし、持続可能ではないと思います。
サイエンズアカデミーに集う青年たちは、皆、志を持って入学してきます。
しかし、皆と共に暮らす中では、人にどう思われるかを気にしたり、人間関係が崩れることを恐れて言いたいことを言えなかったり、「否定された」「傷つけられた」と落ち込んだり、職場では「ちゃんとやらなければいけない」と緊張したり、不安になったり、「やるべきこと」を優先して本心を見失ったり、劣等感を感じて「自分はダメだ」となったり、人を責めたり、イライラしたり・・・と、様々な人間関係問題に直面します。

サイエンズアカデミーでは、ここがチャンスになります。
こういったことが、すべて自分を知るためのキッカケになっていきます。
これらの悪感情は、自分の中のキメつけ、思い込み、当然としていること(これは皆フィクションですね!)などに気づく絶好のチャンスになるのです。本心からのサイン・シグナルとも言えるかもしれないですね。
そこを、相手のせいや、職場や社会のせいにしてしまったり、人間はそういうものだよと諦めてしまったりすると、自分を知るチャンスを逃してしまいますし、良好な人間関係に進んでいけません。
そこを調べて、キメつけや思い込みなどに気づき、元々の姿に立ち還る方法がサイエンズメソッドです。

人としての成長。安心の中、豊かに、愉快に、楽しく。
何をしても責められない、何でも言える(もちろん、何も言わなくてもいい)アズワン鈴鹿コミュニティの安心な環境の中、サイエンズアカデミーの学生達は、だんだんに心が開き、自分の中にある本来の願いや希望に自然と向き合えるようになっていくようです。そして、自分の中にあるキメつけや思い込みが見えてくると、自ずとそこから解放されていきます。

すると、自分でも驚くほどの人としての成長が現れてきます。
人の目が気にならなくなり、人との関係が近く親しくなり、主体的に動き始めている自分に気づきます。誰とでも何でも話し合えるようになってきます。不足、不満が多かった自分から、人からしてもらったこと、自然から贈られたものへの豊かさを感じられるようになっています。仕事も、「やらなければいけない」という世界から、多くの人や自然から受け取っている豊かさを感じられるようになり、仲間と共に成し遂げる嬉しさを味わい、多くの人に製品や作品を贈る喜びを感じるようになっていきます。

次代へ贈る
サイエンズアカデミーが始まって、約4年しか経っていませんが、青年たちが日に日に成長する姿は、見ていて本当に嬉しいし、頼もしくも感じています。
こういう青年たちがどんどん育って、世界各地で活躍し、どんな場でも良好な人間関係を創り出すことができれば、世界は確実に変わっていくのだろうと思っています。

サイエンズアカデミーの様子を紹介するビデオがあります。
1.「Scienz Academy」 次の社会を創る人が育つ

2. 「Scienz Academy」第2話 ペックフンミ: 国境なき友情

3. サイエンズアカデミーって、何してるの?
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【次の社会創造】 連載第10回  争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

次の社会創造 連載第10回
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連載第10回
第三章

4.「やらせる・やめさせる」のない子育ち ~その子らしく育つ

「アズワン鈴鹿コミュニティでは、子育てや教育はどうしているのですか?」という質問もよく受けます。
次代を担う子どもたちの育ちはとても大事なテーマですし、力を入れていきたいところです。
コミュニティの初期には、無認可保育園を4年ほどやっていた時期もありました。しかし、いくらやる気や意欲があっても、まだそこを「やれる人」「やれる社会」ではないことがハッキリして、人気のあった保育園を閉鎖しました。
まずは自分達大人自身が「やれる人」に育つこと、そして社会環境を創ることが先決課題だとして、それから約10年かけて、人育ち、コミュニティづくりを進めてきてきました。そして、2015年から、いよいよ「子育ち」というテーマに具体的に着手し始めました。その一端を簡単に紹介してみたいと思います。

「孤育て」→「子(Co)育て」へ
子どもたちに、その子らしく育つ環境を用意していこうと、「キンダーハウス・チェリッシュ」という“子どもの家”の試みが2015年の秋から始まりました。
子育てというと、各家族で子どもを育てるというイメージが強いかもしれません。
鈴鹿コミュニティでは、家族のような親しさの中で、コミュニティのいろいろな人が関わる中、どの子もその子らしく育つ環境を創るために、心を寄せ、知恵と力を合わせています。
(「子(Co)育て」のCoは、CommunityのCoでもあり、Co-operate(協力)のCoでもあります。)

その子らしく育つ環境づくり
今の社会では、「教育」とか「しつけ」という名目で、子供たちに「やらせたり・やめさせたり」することが多いのではないでしょうか?
自らの自由意思で動くのが動物でしょうし、人間も自分の意思を妨げられたり曲げられたりすることは最も好まないことでしょう。しかし、今の社会では、「やらなければいけない」「やってはいけない」ことがあるのを当然としています。それを守らせるために、「やらせる」「やめさせる」ことが必要だとして、責めたり、罰を与えることを当然としています。社会の秩序を守るためには、自由意思を妨げたり曲げることは仕方のないことだとしています。ここをゼロから見直さないと、本当に自由な社会は実現できないと思います。
自由意思を妨げられたり曲げられたりすることで、子ども本来の素直に成長しようとする作用が歪んだりねじれたりするのだと思います。
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アズワン鈴鹿コミュニティでは、一切の強制・束縛(やらせたり・やめさせたり)がありません。子育ちの場でもそうです。
どの子にも、すべてと調和し、健康に成長しようとする力が、元々内在していると思うのです。そこがそのまま成長していく環境を用意したいと思っています。そのためにも、叱ったり、責めたりがない、つまり「やらせる・やめさせる」が一切ない環境を用意したいのです。
大人の都合や考えを優先させない、物理的にも心理的にも圧力・圧迫のない無重力空間のような環境を用意しようとしています。しかし、いわゆる、自由放任とも違います。大人として、やってほしくないことは「やってほしくないよ」と伝えたり、こうしてほしいと思うことも、その気持を素直に伝えていき、お互いでやり取りする中で、話し合いのできる人間関係の素地を培っていきます。
意志を妨げられることが決してない環境の中で、人と共に生きる主体性、自発性を培っていきます。
“自分らしく、気持のままにやさしく生きられる人生”のベースができていく環境づくりです。

「キンダーハウス・チェリッシュ」の試み
現在、0歳~6歳までの7名の乳幼児が遊び過ごすスペースです。
家族のような親しさの中で、実の親も交えて、30人以上のおにいちゃん・おねえちゃん、お兄さん・お姉さん、お父さん・お母さん、おじいちゃん・おばあちゃんに見守られて、子どもが育っていきます。
親も子も、安心と満足が得られる環境を用意しています。チェリッシュは英語のcherish(可愛がる, 愛しむ, 愛情を持って大切に育てる)からの命名です。

子(Co)育て環境づくり①
2018年の春、お互い隣り同士1ブロック4軒の建売り住宅を入手することができました。そこに子育て真っ最中の4家族が住むことになりました。(購入するのも、大家族のような経済だからこそできました!)
公園のすぐ側の区画です。チェリッシュに子どもを送り出しているもう一軒の家も徒歩数分のところにあります。
家と家の間に塀がないので、子ども達が自由に行き来できます。
どの家も家族のような親しさの中で、どの子も我が子のように育つ環境です。
そして2018年の秋、4軒家の真ん前の家が、「学び舎」として入手することができ、更に2019年夏には学び舎の横の新築の家も子育て世代の人の住む家として入手できました。

子(Co)育て環境づくり② ~ママの日
0歳、3歳、5歳の3人姉妹を持つお母さんは、ともすると下の子の世話にかかりきりになって、上の二人の子になかなか気も手もかけられない場合があるのではないでしょうか?すると、上の子が下の子をいじめたり、ダダをこねたり・・・。そうすると「お姉ちゃんでしょ!」と思わず、お母さんは上の子を叱ってしまったり、ガマンさせたり・・・。そういう悪循環に陥るケースがありますね。一軒の家だけでその問題に対処するのは、なかなか難しいことだと思います。
そこで、「どの子も満足して暮らすには?」「お母さん自身も無理なく楽に満足して過ごせるには?」という視点で知恵を寄せ合うと、いろんな案が浮かんできます。
「一人の子とお母さんが、一日ゆったり過ごせる日があったらいいね!」というアイディアがすぐに実現に向かって動き出しました。他の姉妹は、チェリッシュやコミュニティの人でお世話するのです。
その日は、お母さんも、その子も、マンツーマンで満々足で過ごせる一日です。
今では、その日を「ママの日」と呼んでいます。
満足すると、お姉ちゃんも下の子達に自然と優しくなるようです。
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子(Co)育て環境づくり③ 
子どもの育つ環境としてお母さんの要素はとても大きいでしょう。お母さんが安心して、満たされて暮らせるということが、子どもにとって、とても大事だと思います。育児を夫婦で助け合うとか、実の親のサポートだけでは限界がありますね。
アズワン鈴鹿コミュニティでは、コミュニティスペースJOYやファミリーダイニング・ゼロがあることで、お母さん達が献立を考えたり、買い物・調理・片付けをすることから解放されるようになっています。(やりたい時はもちろんやれます!)また、職場や各種の研究会や、一週間合宿のサイエンズスクールのコースへの参加の際も、チェリッシュや学び舎でその人の子どもを見るだけにとどまらず、コミュニティ全体で、その子や家族の暮らしが安定して営めるようにサポートしてくれます。ですから、お母さんも、自分のやりたい仕事も思い切りやれ、自分の成長のための時間も十分に取れます。そして、子供といる時の時間も、心に余裕を持って子供と接することができるようになっています。子供の育ちについても、チェリッシュのスタッフと相談しながらやれるので、一人であれこれ考え悩まなくていい環境が実現してきています。
学び舎
2019年4月に一人の女の子が、翌年には二人、今年は二人の子どもが小学校に入学しました。
ホームスクール、学び舎が始まっています。フリースクールへの検討も始まっています。
その子の成長に応じて、親から少し離れてやがて学び舎で過ごす子も出てくるでしょう。
学び舎で、子どもたちで子どもたちの暮らしを創るようになっていくでしょう。
(親元を離れて、子どもたちで暮らす空間になっていく構想です)

子どもが本来的に育つことについての基礎研究も始まっています。
生まれてから、一生幸福な人生を歩める道を造る試みがスタートしています。
どんな子育ち環境が生まれてきているのか一度、実際の現場を見に来てくださいね。

子育て真っ最中のお母さんのライフスタイルを紹介するビデオができました。
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アズワンスタイル「お母さん」~ 子育て真っ只中 心から愉しんで!こちらからご覧ください。
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【次の社会創造】 連載第9回  争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

次の社会創造 連載第9回
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第三章
3. 心が満たされる会社 ~『おふくろさん弁当』『鈴鹿ファーム』の実践から

規則も命令も上司も責任もない会社って、想像ができますか?
実際に、そういう会社が、この資本主義社会の日本の中に存在しているのです。

「争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会」の経済的基盤を創ろうということで、自分達でコミュニティビジネスを立ち上げ、運営しています。コミュニティビジネスによってコミュニティ全体が豊かになり、その中で各人も豊かに暮らせます。
そういう会社の中では、稼ぐために働かなければという仕事はありません。やりたい人がやりたくてやる仕事になります。仕事をすることで、その人が満たされる、そして、その仕事から生み出されるものを受けて多くの人が満たされるのです。
各自の持ち味を発揮できる、その人に適した持ち場を見出すことに重点を置いています。
自分が持っている技術や知識や経験を人のために生かしたい、使ってもらいたいという気持だけでやる心地よさ、快適さを実感している人がたくさんいます。
上下や罰則のない、何でも話し合える会社の中で、自分の持ち味を発揮し、心が満たされていく会社づくりが進行中です。

おふくろさん弁当は、今年で16年目を迎えます。社員が約50名。一日約1000食の手作り弁当を製造し、ピンクの車で一個でも配達するというスタイルで、鈴鹿・四日市・津・亀山の人達に親しまれています。
「本当に美味しい弁当とはどういうものか」を探りながら、上下や命令によらない話し合いで運営する会社を試みています。

会社設立当初から、目指すものはハッキリあったのですが、最初から順調に進んだわけではありません。試行錯誤、研究と試験の連続で進んできた16年です。(今もその途上です!)
例えば、「昼の弁当は12時までに絶対に届けてください」と言ってくるお客さんもいるので、「やらなければなない」というフィクションからなかなか解放されることができないでいました。そういうフィクションに縛られると、会社の中もギクシャクしてしまいますね。
研究が進むにつれて、「自分達はどうしたいのだろう?」と自らに問い直すことができるようになってきました。「やらなければならない」という世界ではなく、「本当はこうしたい」という本心からの世界が見えてくるのです。自分の原点に立ち返ると、「言われるから届けなければいけない」のではなくて、「美味しいお弁当を、待っている人に届けていきたい」という、会社を立ち上げた原点、やりたい気持が、自分の心の中にあるのが見えてくるのです。

研究が進んできたと言っても、人がやる営みですから、日々、いろいろな事が起こりますし、ミスや失敗ももちろんあります。
例えば、特別弁当を100個作って届けに行ったら、「あのー、それ、来週の注文なんですけど・・・」ということもあったりするのです。1個1000円の弁当でしたら、10万円になりますよね(汗)。一般の社会では、こういう事が起きると、「誰のせいだ!」と責めたり、責任問題になったり、始末書を書くなど、いろいろ面倒な事が起きそうな「事件!」になりそうです。
しかし、責めたり、責任追及したりしても何になるのでしょうか?
責めても、間違いが元に戻るわけではありません。
できることは、今ある100個の弁当をどう活かすか、そして、二度と同じ間違いが起こらないように、何が原因かを探究すること(責任追及ではないです!)です。
この例の場合は、その持ち帰られた弁当は、コミュニティの人達にすぐに連絡が行って、コミュニティの人達が美味しく味わうことができました。そして、「こういう事がなぜ起きたのか?」と原因を探る中で、今回の間違いが次に生かされていくようになるのです。このような間違いから、受付方法の見直し、そして、特別弁当の専門の部署の創設へとつながっていくことになりました。
また、そのような事が起こった時に、人を責める気持や、誰かのせいにしようとする考え方などが、関係する人の内面で発生したりします。「こういうことが起きたら責める気持が出て当り前だ」と当然としないで、そういう内面もどうなっているのだろう?と探究する対象になっていきます。次第に、責めのない人同士に育ち合っていくことができるのです。
そういう責めのない気風の中で、安心して楽に働ける職場環境ができつつあります。責められると思うと、責められないように、間違いを隠したり、嘘をついたり、ミスを言いにくいような警戒する気風ができてしまいます。責められることがないからこそ、明るく出来事を話し合うことができ、問題の核心が何かが見出しやすくなるので、問題解決がスムーズに進んでいきます。

鈴鹿ファームという若い人達が2010年に設立した農業の会社もあり、地元の人達に野菜を供給しています。囲いや隔てのない関係性なので、人もモノも自在に交流し生かし合う関係ができています。農繁期には、弁当屋から人が駆けつけたりします。また、弁当屋は、鈴鹿ファームでできた野菜をできるだけ生かそうとしています。形の悪いものもできるだけ、弁当の食材に生かせるように工夫しますし、豊作でたくさんできたものは、できるだけ多く弁当のメニューに入れるように工夫していきます。(2021年5月から、より一つで運営し、人もモノも最大に生かし合えるようにとの願いから、二つの会社は一つの会社に合併されました)。

ティール組織やホラクラシー組織という次世代型の経営の仕方が話題になっているようですが、自分達で、固定したフィクションから解放されて、心底で願っていることを見出しながら進むことで、現実にこういう会社が実現していけるのだと思います。
全国各地で、それぞれの理想とするものを形にしていけるといいですね!
おふくろさん弁当や鈴鹿ファームは、その一つの実例になるかなと思っています。一度、現在進行中のおふくろさん弁当や鈴鹿ファームの実際を見に来てくださいね。
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【次の社会創造】 連載第8回  争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

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連載第8回
第三章

2. お金の介在しない経済の試み ~すべてが生かされる自由自在な世界

アズワン鈴鹿コミュニティを訪れた多くの人が一番興味を示すのは「コミュニティスペースJOY」です。JOYというのは、暮らしに必要な食品・食材、日用品などが並んでいる場所です。

人々が何に驚くのかと言うと、ここは、お金の要らない場所だからです。ギブアンドテイクでもないのです。もちろん交換や報酬もない、つまり、一方的に贈り、一方的にもたらされる仕組みで運営される場所なのです。
鈴鹿ファームからは米や野菜や農産加工品、おふくろさん弁当からは弁当や惣菜が贈られます。街のはたけ公園から果物が、里山から椎茸や炭や木作酢が届けられます。

料理好きな人の手料理、手作りの菓子・味噌・漬物など、庭に実った柿や、山で採れたタケノコや山菜や栗、海で採れた貝や魚、交流のある各地の人達からの贈り物、そして海外の韓国、ブラジル、スイス等の親しい人達からのお土産が並びます。

買い物上手な人が購入してくれる食材や日用品も並んでいます。
購入品は、みながお金を出し合って共同購入というような形をとっていますが、内実は、これらの物が、お金を介さないで、自由に、欲しいものを欲しいだけ持ち帰れる仕組みなのです。家族の中の食料品や日常品の置き場所のようなところなので、単身の人は、調味料やパンなども、小分けにして持ち帰ることができるので、家で腐らせたり、ムダにすることがなくなります。

日常で暮らすのに必要な物はほとんど揃うので、地元のスーパーなどでの買い物に行くのは月に数度という人がほとんどです。
現在約100名の人達が使っています。(家族を入れると150人くらい)

2020年12月からは、JOYの隣のスペースに、ファミリーダイニング・ゼロがスタートしました。コミュニティの人達に昼ご飯と夕飯が用意されるようになりました。ファミリーダイニングで大家族で団らんしながら食べてもいいですし、そのおかずを持ち帰って、家で食べることもできます。

子育て中のお母さんは、「夕方まで仕事など自分のやりたいことをやって、ファミリーダイニングでおかずをもらって家に帰って食べられるから、メニューを考えたり、買い物したり、調理したり、片付けしたりをしなくてもよいから、すごく楽だし、子どもたちとゆったり過ごせる」と喜んでます。もちろん、家族に自分で作ってあげたい時と思う時は、思う存分やれます。
まとめて約100人分の食事の調理を、おふくろさん弁当の機材を使ってするので、1人で数時間でできてしまうのです。個々の家庭で、それぞれが食事を準備する手間と労力とエネルギーを考えると、どれだけ効率がいいか、エコな生活になるかも想像がつくでしょう。

JOYを見て、コミュニティを訪れる人から、「たくさん持っていく人はいないんですか?」という質問をよく受けます。コミュニティに住む人からしたら、「?」という質問です。いつでも好きなだけ持っていけるのですから、必要以上に持っていきたい気持は湧かないですから・・・。

所有も貨幣も個々の家計も交換も報酬も、すべて人間が作り出したフィクションです。地域通貨やネット上の仮想通貨なども、やはり、みな交換というフィクションの上に成り立っています。
元々の世界には、所有も、家計も貨幣も交換も報酬もないですね。宇宙から見る青い地球の写真には、どこにも国境はないですよね!自然界は交換で成り立っていないと思います。それぞれ贈る一方、そして必要なものを受け取るだけです。実にシンプルです。

元々はシンプルな世界にいたのに、人間の考えで作り出した所有というフィクションに人類の多くが縛られているのが今の社会だと思います。所有すると、自由にモノが使えると思っている人がいるようですが、元々はどんなモノも誰がどのように用いてもよいのです。人間の考えで囲ったり、隔てを作らなければ、元々が自由なのです。

所有は、所有する人が他の人に、そのモノを自由に使わせないという考え方だと思います。所有する人の許可があれば使えるけど、許可なしに使うと罰せられる制度です。つまり、一人の人があるモノを所有すると、その人以外の世界中の人が、そのモノをその人の許可なしに自由に使えなくなってしまうのです。現代社会は世界中の人が所有を拡大しようとしていますから、モノがいかに豊富になっても、自分の所有しているモノ以外は自由に使えるモノがほとんどないという状況になってしまっています。

そういう社会の中では、自己防衛的に、所有するしか、モノを自由に使うことができないということになってしまっているのです。そういう悪循環の中で、自らの首を絞め合って苦しんでいるかのようなありさまです。所有をそのままにして、より自由に、より豊かにとやっても、縛り合いの牢獄の中で、より自由に、より豊かにとやっている様と変わらないのではないかと思います。

アズワン鈴鹿コミュニティでは、人間が作り出したフィクションから脱け出した経済が営まれています。つまり、人間の元々の姿、すなわち、交換も所有も報酬もない、お金を介在しない経済が営まれているのです。

物を豊富にするのはもちろんですが、誰もが自由に得られる仕組みと運営が大事です。現状では、個々別々に稼いで暮らす経済観念が強いと思いますが、個別に頑張らなくてよいのです。みんなで社会を豊かにして、その恵みを受けて安心して暮らし、心身ともに満たされながら、その人らしい人生を送れるようにしていくのです。

鈴鹿コミュニティは、普通の街の中で、それぞれ家を建てたり借りたり、アパートやマンションを借りたりして暮らしているので、個々別々の家族の暮らしに見えますが、コミュニティが「我が家」のような存在になり、隔てのない「一つの家計」で暮らしている人達が70数人います。物もサービスもお金(給料も家計も財産)も自由自在に活用し合う経済です。

フィクションから解放された、仲のよい家族のような親しい間柄ですから、お金を介在しないということも、お金を自由自在に融通し合えるのも、ごく自然な姿なのです。親しい家族の間柄だったら、家族の中でお金をやりとりしないことも、お金を自由自在に融通し合うことも普通のことですよね?そんな親しい家族のような関係の人がたくさんいるということです。

「一つの家計」がスムーズに流れるために、コミュニティHUB(ハブ)という仕組みがあります。仕事、住まい、教育、健康、家族、税金、保健、お金、そして心理面に至るまで、生活全般のことを何でもオープンに気兼ねなく相談できる場所です。
各家庭の経済状態の把握や手続き事務や管理作業を専門的にやってくれるので、各人は家計を気にする煩わしさがなくなり、自分の持ち場に専念できるようになります。

僕も鈴鹿の街中で暮らしていますが、普段は財布は持ち歩かない暮らしです。

贈る行為は物だけにとどまらず、知恵や技術や能力にも広がります。
人の行為に見返りや報酬が要りません。人の行為をお金に換える必要がありません。すべてその人がやりたい気持からの働きになってきます。その人の心からの行為や贈り物です。

美容師の人や自動車や自転車の修理・整備、家電の修理やエアコンの取り付けなど技術を持っている人は、その持ち味を存分に発揮してくれています。
また、コンピューターや家や土地、家電や自動車の購入・サポート、旅や引っ越しの手配など、素人や苦手な人には手に余ることを、得意な人が気軽に引き受けてくれます。
してもらう方も、してあげる方も、どちらも満足する喜びの連鎖になっています。

隔てのない親しい間柄では、お金のことを気にする必要もなく、車も家電も本も衣装も、必要なモノが必要な人のところに流れていく仕組みが次々と生み出されていきます。

鈴鹿のような地方都市だと、1軒に2~3台の車を持つ家庭も多く見られます。アズワン鈴鹿コミュニティでは、家族以上に親しい間柄の人達が近所にたくさん住み、職場も近く、コミュニティスペースJoyやファミリーダイニングの仕組みもあるので、買い物に行く必要もほとんどないので、車の台数もとても少ないです。その人専用で使っている車もありますし、カーシェアとして、いろんなコミュニティの人が使う車もあります。

僕も自分の名義の車はありませんが、遠くに行くときはそれに合う車、荷物を運ぶときはそれに合う車、人を迎えに行くときは大きめのキレイな車と、用途にあった車を用意してもらい、使わせてもらう暮らしをしています。親しい間柄が実現すると、エコ的にも経済的にもいい暮らしが、楽に簡単に実現していくのです。

アズワン鈴鹿コミュニティを訪れる人の中には、お金の要らない暮らしに触れて「いいなぁ!」と思う人がたくさんいます。「JOYを持って帰りたい!」「自分のコミュニティでもJOYを作りたい」。
でも、形を真似してやってもうまくいかないですね。形の前の親しさが肝心です。

それには、親しさを邪魔している所有や家計や交換や報酬などの、固定したフィクションを自覚し、解放する必要がありますね。
形だけでやろうとすると、「所有してはいけない」という逆の縛りが出てきて、却って不自由になる場合があります。

固定したフィクションから解放された世界は、本来の自由の世界です。それは、人と人とが、なんでも話し合える関係性ということでもあります。
本当に親しい人間関係ができ、なんでも話し合うことができたら、お金の要らない世界は簡単にできてしまうということなのです。

論より証拠!? お金を介在しない経済の試みを一度見に来てみてくださいね。
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【次の社会創造】 連載第7回  争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

次の社会創造 連載第7回
【争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ】
サイエンズ研究所  小野雅司
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次の社会創造
~争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

小野雅司

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連載第七回
第三章
1. 次の社会の組織運営 ~意思決定はどうするの?

アズワン鈴鹿コミュニティには、日本や世界各地の人達が訪れてきます。そして、命令や上下や規則や責任のない会社運営や、お金を介在しない経済の試み等に触れて驚かれる人が多いのですが、必ず出てくる質問があります。
「どうやって意思を決定しているのですか?」
「本当にリーダーはいないんですか?」
コミュニティづくりの核心的なテーマでもありますし、ティール組織やホラクラシー組織など新しい組織運営を求めている人にとっても興味深いテーマだと思います。また、様々な活動に関わる人や、家庭や夫婦などの、人間関係にとっても、「どのように事を決めるのか?」は大きなテーマなのかもしれません。

ガイアエデュケーションという、コミュニティづくりを志す人向けのユネスコ認証の教育プログラムがあります。世界45ヶ所で開催され、日本でもGEN-Japan(グローバル・エコビレッジ・ネットワーク・ジャパン)の主催で2016年から開催されるようになり、アズワン鈴鹿コミュニティもメイン会場として協力しています。そのテキストに、コミュニティづくりで最初にやることとして、「まずはどのように意思決定をするかを決めること」が挙げられています。「全員で多数決」とか「代表数人を選んで、彼らに一任」とか「リーダーを決めて、その意思に従う」とか・・・そんな感じでしょうか。

アズワン鈴鹿コミュニティでは、どうなんでしょう?
一言で言うと「なんでも持ち寄り、よく検討し、自由にやってみる」という運営方式です。
こう説明すると、「みんなで集まって、みんなで決めるんですね!」と勘違いする人が多いのですが、全然違うのです。みんなで集まるなんて、20年間で一度もしたことがないんです~。
寄りたい人、やろうとする人が、あちこちで自発的に集まって話し合いをしています。

そして「こうしよう!」と意見がまとまることもあります。しかし、そうなったとしても、それをやるかどうかは、各人の自由な意思に委されているのです。つまり、「意思決定」は各自がしているということです。納得しなかったら「やらなくていい」のです。また、一度決めたことでも、状況も、気持も意見も変わっていきますので、そうなったら、やらないこともできるし、考え直すこともできるし、また話し合うこともできるのです。自然界はすべて常に変化していますし、どこかに中心やリーダーがあるわけではありません。人間社会の運営も常に変化してくのが自然界の理にかなった姿だと思うのです。中心やリーダーがなくても、人間社会も調和していけるのではないかと思うのです。

「えー、それでコミュニティが成り立つの?」
「毎日、1000食もお弁当を作る会社が、それで運営できるの?」
という疑問が湧く人もいると思います。

民主主義の教育を受けてきた僕達は、無意識の中で「みんなで集まって、みんなで決めて、決まったことには従わなければならない」という思考パターンが根付いてしまっているようです。「それが民主主義のルールだ」というフィクションが固定化してしまい、それにそってやらない人を、「自分勝手な人」「わがまま」と見るようになっているのかもしれません。「決まったことは、自分の意思とは違っても従う」という「自発的服従」状態が当たり前になっているかもしれません。

「自発的服従」とは、「主体が自己の自律性を確信していながら、客観的には他者や制度に知らぬまに服従していること」を指します。誰から言われなくても、「ここではこうしなくちゃ」「ここではこれをしちゃいけない」と「自分で自分に教えている」状態です。子供時代から、「やらなければいけない」「やってはいけない」ということを罰と報賞で教え込まれることで、怒られるくらいなら褒められることを積極的にやろうという態度が身についてしまうのかもしれません。

その結果、「やらなければならない」「やってはいけない」ことがあるとというキメつけ状態になってしまうわけです。自分一人がそういう状態なら、「どうなんだろう?」と考え直す機会もあるのでしょうが、社会のほとんどの人が同じような状態だと、「やっぱりそうなんだ」「誰もがそうだ」となりやすいでしょう。また、そこから外れる人を「変な人」「おかしい」として排除したり責めたり、否定したりすることもしばしば起きます。また、責められたり、否定されている人を見て、自分も責められたり否定されないようにと、また自ら服従状態をより強固にしてしまうというサイクルにハマってしまうのでしょう。

「やらなければならない」を当然視していては、本当に自由な社会は訪れないと思います。
いろいろなコミュニティや団体と交流がありますが、運営におけるこの常識を見直しているところはほとんどないようです。縛り合ったり、上下ができてしまうのも、この点の見直しがないところからくるようです。

今の社会だと、自分が関わっていないところで事が決まると、それに「従わなければいけない」という恐怖心から「自分も参加しておかないと不安」という意識がでてくるのでしょうか?「どこで決まったのだ!」と腹を立てている人は、実はとても不安な心の状態なのだと思います。

アズワン鈴鹿コミュニティでは、どこかで考えてくれることは豊かで嬉しいことばかりです。自分にはない発想で決まることもたくさんあります。そうやって考えてくれたことは、まずは面白そうだから、乗ってやってみたくなる、そんな明るい・軽い人間関係があるのが大きいです。
仮に、やりたくないこと、関わりたくないことだったら、もちろん、やらなくていいのですしね。また、一度決まったことでも、違う意見があったら、いつでも、いくらでも言えるし、いつでも見直したり、変更したりできるのです。

しかし、鈴鹿コミュニティの運営方法をただ形でやろうとしても無理だと思います。「決まったことはやらなければならない」「言った事には責任を持つべきだ」「みんなで決めなければならない」等の今の社会で当然されているキメつけから解放されないと、自分も自由に行動できないでしょうし、自由に行動する人を受入れられないでしょう。

また、「本当に話し合う」ということを知らなかったり、「人を聴く」という話し合いに不可欠な基本的なことを理解できていないと、スムーズにこの運営方式は流れていかないと思います。

例えば、自分が呼ばれないところで数人が寄って何かが決まった時に、「仲間はずれにされた」「無視された」という被害者意識や、「なんで自分を呼んでくれないんだ!」「どこで決まったんだ」という不満が出てきてしまうようでしたら、自由な運営は成り立たないですよね。また、「本当はこの人達で話し合いたいのに、あの人を呼ばないと機嫌が悪くなるから呼ぼう」とか「可哀想だから呼ぼう」と気を遣っていても、本当に自由な社会になっていきません。
「みんなで話し合うべきだ」とか、「断るのが悪い」等というキメつけから解放されることがまずは第一になりますね!

「次の社会」の組織運営をやろうとするならば、まずは自他を縛るキメつけから解放された自由自在の人になることが先決です。内面が旧式の思考のままでは次の新しい社会は営めないのです。
自他を縛るキメつけから解放された人達によって、各自が自由意思でやりながらも調和がとれた社会運営が実現されていくのです。そういう運営方式を、僕達は、「自由意志調和型社会=動的調和社会」と呼んでいます。

自由意志調和型社会の運営は、言葉で説明してもなかなか理解し難いところがあると思います。百聞は一見にしかず。一度、ぜひ、実際に目にして実感してみてください。
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次の社会創造】 連載第6回  争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

次の社会創造 連載第6回
【争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ】
サイエンズ研究所  小野雅司
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次の社会創造
~争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

小野雅司

第1章 

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連載第6回
第二章
3.人を聴く ~心が通う話し合いとは

快適な社会生活を営むためには、話し合いは不可欠だと思います。その話し合いが上手く機能しないことから、不快な気持になったり、対立や争いなど様々な問題を惹き起こすことにつながっていきます。
話し合いが本来的なものになることで、私達は安心した状態で、知性を発揮することができ、その結果、様々な問題に対しも、一時しのぎではない、本質的な解決の方向に進んでいけるのだと思います。

本来の話し合いになっていく上で、一番の要になるのが、「聴く」という要素です。それは、単に言葉や表面的な気持や考えを聞くのではありません。その人そのものを理解する聴き方、つまり「人を聴く」ことで、心から通じ合える、人を尊重し合う豊かな話し合いが実現されていくのです。

この聞き慣れない「人を聴く」というフレーズは、アズワンコミュ ニティを創る試みの中で、本当の話し合いを探究する中で生まれてきたものです。(今は、サイエンズスクールの中で、誰もが学べるようになっています)
「人を聴く」ってどんなことでしょう?
人の話を聞くでもなく、言葉を聞くでもなく、人を聴く。

日常の会話や話し合いの場面でも、言葉を尽くしても何か通じ合えない、とか、すれ違ったりとか、話題は盛り上がるけど何か物足りない、時には、苛立ちを覚えたりすることがあるかもしれません。また、意見が違うことから対立したり、相手の言葉に傷つけられたり、腹が立って言い争いになったり・・・。
また、「そうそう」「一緒だね」と共感したり、同調しているように感じることでも、言葉の上で、表面的なところでの反応に過ぎない場合も多々あるようです。
私たちが言葉に出来ることは、思いや気持のごくわずかな部分をその人なりの表現で表しているにすぎません。しかし、言葉がその人の気持や考えだと思い違いしやすく、言葉でその人が分かったつもりで反応してしまい、感情的になったり、行き違うことも多いようです。

講演会などで、参加者の人に、「なぜ話し合えなくなるのか?」という質問をすると、よく「意見が違うから対立になってしまう」という答えが返ってきます。
ゼロから考えてみましょう。「意見が違うのは、多様な視点があっていい」「違う意見があるからこそ発展する」という観方もありますね。意見が違っても、「そうだねー、どっちがいいかな~?」と親しく話し合っている人もいますね。
意見が違うから対立するということではないと思います。自分の意見を「絶対に正しい」「~ねばならない」とする「キメつけ」があるから対立するのだと思います。自分の考えを「正しい」「~ねばならない」とする頑固さが対立の根本原因だと思います。サイエンズメソッドによると、この頑固さの原因も、調べて簡単に取り除くことができます。頑固さがなくなると、どんなに意見が異っていても、楽しく、却って面白く話し合えるようになっていきます。

どの人にも、その人独自の世界があります。
自分の意見と同じように感じても、また違っているように感じても、自分とは異なる、自分には知りえないその人独自の世界があるのです。その人が培ってきた経験・知識・体験・人間関係・感情などで形成されてきたその人の世界です。
それは、誰からも否定も肯定もできない、そのままそうでしかない存在だと思うのです。そういう世界があることを知り、それを理解しようとしていくことが「人を聴く」という営みだと思います。
相手にも自分の世界を知ってもらい、共に考えていくのが話し合いだと思います。
意見が異うからこそ、その人の世界を知りたくなるし、異った観え方を知ることで、より世界を豊かに深く知っていける話し合いが生まれてきます。

今の社会は、「言う」ことにすごく重点が置かれている社会だと思います。日常の会話を観察してみると、多くの人が「言おう」「言おう」としているように見えます。安心して聴いてもらう体験が少ないのかもしれません。また、「聴く」ということの意味や、その潜在力についての理解がまだまだ足りないようにも思います。
「聴く」ということは、テクニックやスキルではありません。
聴いてもらうことで、人は安心し、満たされていくのだと思います。
聴いてもらうことで、自分の本心に自ら気づいていけるのだと思います。
聴いてもらう喜び、聴く喜び。喜びで満たされ合う話し合いが始まります。

その人そのものを知りたい、私そのものを知ってほしいというお互いが、「その人」を聴き合おとする営みが始まります。互いに知り合い、理解し合う中から、新しい「何か」が生まれてきます。なんでも聴き合えるお互いになることで、隔てや対立のない、安心した人間関係がつくられていきます。
何を言ってもいいし、言わなくてもいい。何を言っても、否定されない、拒絶されない、怒られない、頑張らなくていい、いいことを言わなくてもいい。人に合わせなくてもいい。気を遣う必要がない。そのままの自分でいられる。
それが安心できる人間関係だと思います。そして、これが争いのない、誰もが親しい、本心で生きるコミュニティのベースになっていくのです。

この内容に興味がある人には、『人を聴く--心が通う話し合いとは』(SCIENZ No.2)という僕の著書がありますので、ご一読ください。
『人を聴く--心が通う話し合いとは』(SCIENZ No.2)はこちらから

また、サイエンズスクールのコースの中には、「人を聴くためのコース」として位置づけられています。
サイエンズスクールの詳細はこちらから

4.心通う話し合いがすべての問題を解決する! ~持続可能な社会は、持続可能な人間関係から

「このような話し合いができるのは理想かもしれないけど、現実的には無理だよ」と思われる人もいるかもしれません。しかし、そこをあきらめて、現実問題に対処しようとしても、本当に話し合うことができないために、解決に向かわないことが多々あるのではないでしょうか?
問題の解決を急ぐために、却って人間関係をこじらせ、話し合いができなくなってしまい、「人間は意見が違ったら対立する」、「利害関係があったら争うしかない」などと、あきらめ的に思い込んでしまっている人が多いのではないでしょうか?
前述したように、そこをゼロから見直して、話し合えない原因、対立する原因を探究して取り除いていくことが大事だと思います。話し合えるようになって(話し合える人に成り合って)から、話し合う。すると、話し合いがスムーズに展開してくのです。こういう観点が今の社会では抜け落ちている、または徹底していないのだと思います。サイエンズメソッドによって、対立感情・悪感情から解放され、誰とでも親しい関係性を持てるようになると、どんな人とも、どんなテーマでも、心通い合う話し合いが実現できるようになります。持続可能な社会は、持続可能な人間関係から。つまり、心通い合う話し合いができる人間関係が持続可能な社会のベースなのです。

環境問題なども、利害の対立を超せないことから、解決策が見いだせないことが多々あると思います。それぞれの立場を固く守り合っていては、心通い合う話し合いは実現しません。自他を縛り合うキメつけから解放され、それぞれの立場を理解し合うことができれば、自分も含め、周囲・後代の人達にとって本当に良いと思われる道を見出すことは、そう難事ではないでしょう。互いに理解し合えれば、あらゆる技術やメソッドが真の解決のために活かされ、役立たすことができるようになるでしょう。
また、人間が作り出した固定したフィクションから解放されたお互いで話し合うことで、モノも人も自在に活かし合えるようになります。第三章2. お金の介在しない経済の試み で詳細を紹介したいと思いますが、所有や交換・報酬から解放された世界では、ムダなこと、捨てるモノがどんどんなくなっていきます。売り買いがないだけで、ムダな計量や包装がなくなります。そして、お金のやり取りやその記録や経理が要らなくなります。個々に買い物したり、調理もしなくていいので、エネルギーや時間もムダにならなくなります。アズワン鈴鹿コミュニティでは、都市での暮らしながら、エコロジカルフットプリントで計算した資源利用量は、日本の平均をかなり下回る結果が出ています。

自殺や引きこもりの問題も、今の社会の様々な問題が絡み合った結果として生じていると思います。自殺する人や引きこもっている人だけの責任ではありません。そのような行動に至る心の状態が周囲の環境で形成されたり、その人を受け止めたり、真に理解する環境がないことも関連しているでしょう。
人間の考えで作り出したフィクション、つまり、こうすべき、当然、してはいけない・・・等の「ねばならない」とするキメつけから解放されることで、心通い合う話し合いができる人間関係ができてくると、個人レベルでも社会レベルでも様々の変化が生まれてきます。
その人そのものを理解しようとする、人を聴く人がいることで、個人で悩みを抱える人もどんどん減ってくるでしょう。
そういうことを本人や家族だけで考えなくていい、相談し合える親しい人達やコミュニティがあるのも心強いでしょう。
また、悩みや苦しみを生み出す様々な不合理な社会の仕組みも、できるところから、ゼロから見直していける道が見出されてくるでしょう。
例えば、高校受験に失敗して高校に入れず、それを苦にする子ども達も現状ではいると思います。そういう子を受け止める家族や周囲の人達、受験の結果や学歴に価値を置かない気風、そういう子が明るく元気でいられる社会環境(勉強したい子は勉強でき、興味のある社会活動に参加できたり、働きたい子は学歴に関係なく働くことができる会社がある等)が形成されていくでしょう。また、そういう人達のネットワークが拡がるに連れ、その可能性はどんどん広く、大きくなっていくでしょう。そういう人間関係、気風、社会環境ができるにつれ、自殺や引きこもりの人など生まれようのない社会が現れていくのだと思います。

心通い合う話し合いが機能し、社会運営で活用されていくとどんな社会になってくるのでしょう?
次章では、その一つのモデルとして、アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティの今の様子を紹介してみたいと思います。アズワン鈴鹿コミュニティでは、具体的にどのような社会が現れてきているのか、今の社会問題がどのように解決されていっているのかをほんの一部ですが書いてみたいと思います。
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次の社会創造】 連載第五回  争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

次の社会創造 連載第五回
【争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ】
サイエンズ研究所  小野雅司
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第1章 

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連載第五回
第二章
1. コミュニティづくりの核心は人間関係 ~何があっても崩れない豊かな人間関係に

持続可能な社会に向けて、エネルギーの自給、自然にそった農法、食事法、オルタナティブな経済を求めて地域通貨やベーシックインカム、自然素材を使った衣類や建築などの活動を通してコミュニティを創ろうとしている人達がたくさんいると思います。

どの活動も人間同士が協力して行う活動ですね。そのベースとなる人間関係が持続可能でなければ、どんなに素晴らしい技術や方法があっても生かされませんし、時には停滞・対立からコミュニティやグループや会社自体が立ち行かなくなるケースもあります。

エコビレッジの研究をしたある人によると、アメリカのケースで、立ち上げ3年以内に90%以上のエコビレッジが崩壊に至ってしまったそうです。その原因は人間関係の問題か経済的な理由(実は、これも人間関係なのですが)だそうです。

コミュニティやエコビレッジに希望を感じ、意欲的にやり始めても、人間関係がうまくいかないでコミュニティを持続できなくなってしまうのは実に惜しいことです。また、コミュニティ自体は継続していても、その中の人間関係がうまくいかず、我慢や遠慮や抑圧や妥協が生まれ、様々な問題を抱えているケースも多く耳にします。

これはコミュニティづくりにとどまらず、夫婦や家庭、地域や職場、様々な活動でも同様の問題が起こっていると思います。つまり、考えてみれば当然のことですが、人間の活動は、すべて人間関係がベースとなって営まれている訳です。

と言うことは、ベースとなる人間関係が良ければ、すべてのことがうまくいくとも言えるのです。コミュニティづくりの核心は、否、すべての活動の核心は、この人間関係にあると思うのです。

現代の社会問題も、実は、人間関係さえ良くなれば、知恵も技術もすべて生かされ、簡単に解決していくと思います。(第2章第4項、第三章各項参照)
前述したように、平和を求めて、意見が違う人と争いや対立が起きる・・・。考えてみると、とっても変なことなのですが、こういうことがしばしば起きています。人間関係は大事だとは思っているのかもしれませんが、その本当の大事さを知らないのだと思います。

コミュニティづくりを進める人達も、人間関係は大事だとは思っているのかもしれませんが、コミュニティづくりの核心はここにあるとまでは思っていないかもしれません。「何かを進めるためには、人間関係が大事だ」となっている場合もあるでしょう(つまり、人間関係は副次的なもの)。
人間関係よりも、事柄や経済を優先したり、自分の主張を大事にしたりする場合が多々あると思います。

また、人間関係が大事だと聞くと、良い人間関係をつくろうと努力したり、仲良くしようと意識したり、コミュニケーションスキルを取り入れたりと、「どうしたら人間関係が良くなるか?」と考えてしまう人も多いでしょう。それで表面的な関係は良くなるかもしれませんが、根本的に人間関係が良くなることはないと思います。

人間関係が崩れないようにという発想では、気を遣い合う関係にはなってしまいますね。恐れのある心の状態では、良い人間関係ができるはずがありません。
テクニックや方法論では解決できないのが人間関係だと思います。
ある程度の距離がある時は見えないことが、コミュニティや一緒に活動したり、夫婦になったり・・・という近い関係になることで、いろんな人間関係の問題として表面化してくるのだと思います。

何か事が起きた時に、怒りが爆発したり、人を責めたり、非難したり、人に対して優越感や劣等感を持ったり、疎外感が出たりすると、人間関係は崩れていくでしょう。

何か事が起きて、仲が悪くなるようでは、その人達は不安定な関係性にあると思います。
そこに焦点を当てないと、いつも不安定な状態だと思うのです。
そこをそのままにしていては、争いのない持続可能な人間関係できないと思います。

人は親しい間柄だと心地よく快適でしょう。仲が悪くなるのを好む人はいないでしょう。人と心が通わないと寂しくなったり、意見が対立すると不快でしょう。まして、怒りや争いになったら、当人も不快だし、周囲の人も嫌な気持になります。そんな人間関係は持続していきません。

心の底から安心できる親しい人間関係が最も大切だと思うのです。
しかし、そんな関係は「ムリ!」「できない」とあきらめている人が多いのかもしれません。または、そういう人間関係に至る道筋・方法が分からないのかもしれません。

そこをゼロから見直してみることが大事だと思います。無意識的に「人はそんなもの」という思い込みや、自分自身や身近な人に対して「怒りっぽい人だ」「いつも責める人だ」「人のせいにする人だ」と思い込んでしまって、あきらめてしまっているのだと思います。

そこを科学的に調べていくと、解消していく道があるのです。(先に紹介したサイエンズメソッドを使っていくのです!)。人間の考えで作り出したフィクション、つまりこうすべき、当然、してはいけない・・・等の「ねばならない」とするキメつけが見えてくると、それを取り除いていけるのです。
特別なことは要らないのです。ただ、「どうなっているのだろう?」と素直に見ていくと見えてくるのです。

そこが解消していくと何があっても崩れない人間関係が見えてきます。
事業がうまくいってもいかなくても、意見が違っても、困難な状況になっても、争いも対立もなく、一緒に進んでいける人間関係です。
ある人が何か間違いごとをしても、責めたり、非難するのではなく、その人に寄り添い、「なぜそういうことが起きたのか?」「どうしたらそういうことが起こらなくなるのか?」と一緒に考え、その状況の中で共に生きていく関係性です。

何があっても、変わらない親しい間柄です。
今の常識的な観方からすると、「そんな人間関係ができるの?」と思う人が多いかもしれませんね。しかし、できるのです。あるのです。そして、それが最も楽で楽しい関係性だと思うのです。

お互いの内面が「どうなっているか?」と探究し、崩れない親しい人間関係になるには、ちょっとしたスキルや方法ではなりません。それなりに時間もエネルギーも必要ですが、完璧ではなくても、そういう方向性で進んでいくと、親しい人間関係のベースができてきます。

すると、何でも快適に心が通い合って話し合えるようになり、事柄は実にスムーズに流れるよう進むようになってきます。仮に、事柄がうまくいかなくても、いつでも話し合いができるので、その場その場で最適な道を皆で見出していけるようになります。つまり、どんな状況にも左右されない人間関係の土台の上で様々な活動ができるようになるのです。

アズワン鈴鹿コミュニティは、ここに最も力を入れてきました。何人かの人は、このプロセスの中で離れていく人もいました。しかし、経済的に厳しくても、大きな失敗をしても、この課題に取り組むことで、何があっても崩れない親しい人間関係が20年かけて培われてきたのです。その人間関係のベースは豊かな土壌のようなものでしょうか。その上に、今や、一人ひとりがその人らしさを発揮し、様々な活動が花開き、持続可能な社会の姿がくっきりと見えてきているところです。


2. 話し合いがベース ~いつでも、なんでも話し合える関係性

前の項で、コミュニティづくりの、否、すべての活動の核心は人間関係にあると書きました。それはつまり「いつでも、なんでも話し合える関係性」ということだと思います。

複数の人で何かを進めるに当たっては、メンバー同士や、関係する人達とたえず話し合うことが必要になってきます。どのような話し合いができるかによって、そのグループやコミュニティの質が左右されるとも言えると思います。
話し合いができずに、意見の違いから不仲や争いや対立が起こったり、遠慮や気兼ねや妥協が起きたりすると、そのグループやコミュニティの停滞・崩壊につながってしまいます。

そもそも話し合いとはどういうことなのでしょう?そして何のためにするのでしょうか?
私達は、いろいろな場面で、いろいろな話し合いをしていると思いますが、そもそも「話し合いとはなにか?」を知らないで、話し合いをしているのかもしれません。

今の社会では、何かを決めるために話し合うということが多いようです。決めることがあるから話し合うという感じでしょうか。「忙しい中、集まって何も決まらなかったら、集まった意味がない」という声を聞いたりします。
アズワン鈴鹿コミュニティでの話し合いは、「理解し合うための話し合い」ということになると思います。従来の話し合いのイメージとはかなり異質のものかもしれません。
話し合うとは、自分の気持(意思・感情など)を伝え、相手の気持を受け取ろうとする営みです。この「話し合う」ことが、すべての人間関係のベースとなります。

このように書くと、「なんだ、そんな簡単なことか!」と思われる人も多いと思います。実際、とてもシンプルで簡単なことだと思います。
しかし、今の社会での話し合いのイメージや、自分の中にあるキメつけから、なかなかこのような話し合いが実現できないのが現状だと思います。
「事柄をどうするか」とか「良いか、悪いか」など、相手が発した言葉に反応したりしてしまうことが多いのではないのでしょうか?(そういうことを「話し合い」と思っているのかもしれません)

相手が自分の意見と違う意見や考えを述べると、否定・反対・対立する意見や考えと受け取って感情的になってしまうこともあるでしょう。それに対して、反発したり、否定されたと落ち込んだり、自分の方が正しいと主張したりと、話し合いとは違う方向にいってしまうこともあるでしょう。
道徳観・常識観・正義感・義務感・責任感や人に対する先入観など、自分の考えを固く持ったキメつけた状態では、悪感情や対立感情が生じ、話し合えない状態になってしまいます。

「自分の気持を素直に伝えよう」とならない状態。
「ありのままの相手の気持を受け取ろう」とならない状態。
これでは話し合いは実現しないですね。
 
意見や主張を通そうとするのではなく、気持を伝えようとする。
相手の言葉や話題に反応するよりも、気持を受け取ろうとする。
このような話し合える状態に、つまり、話し合える人(「やれる人」ですね!)に、お互いに成り合うことがとても大事だと思います。コミュニティづくりやすべての活動の核心は人間関係と言っているのも、ここのところなのです。

どんなに重大なことでも、断じて許せないと思うことでも、自分の意志や感情を一旦棚上げして、相手を理解しようとすることのできるお互いに成り合っていくのです。
そうすると、相手が異なる意見や考えを述べると、ますます興味や関心が湧き、聴きたくなります。
どんなことでも聴けるようになり、遠慮・気兼ねなく、どんなことでも言えるようになるのです。

現状の話し合いでは、「話し合ったのだからそれに沿って行動しないと、話し合った意味がない」などと、「話し合うこと」と「行動すること」の区別がはっきりしないで、混線していることが多いと思います。
 
話し合うことによって、行動の制限や強制が生まれるようでは、心の底から思うがままを話す気にならなくなりますね。「自分が言い出したのだから責任を持ってやらないといけない」「あんなに強く主張したんだから、意見をコロコロ変えるのは格好悪いな」「みんながやろうと言っているのだから、自分だけ違う意見は言いにくいな」などと、いろいろなキメつけから、素直に自分の思っていることを言えない状態が生まれてくるのも、「話し合うこと」と「行動すること」の区別がついていないからでしょう。

話し合いのときは、気楽に、気ままに、無責任に、何でも言える、何でも聴ける、束縛のない自由な話し合いをするのです。そしてどのように行動するかは、個人の自由意志によるものです。
アズワン鈴鹿コミュニティでの話し合いでは、「話し合って自由に行動する」のです。

このような話し合いによって、一致点を見出したり、計画を立てたり、事を決めたりしながら、それぞれ実行に移します。実行してみると、話し合いの至らない点や別の案件が出てきたりして、話し合う必要が生じてきます。話し合いたくなります。
話し合って実行し、実行して話し合う、この連続生活が人と人のつながりによる社会の営みでもあるのです。

やることを話し合う場と、あり方を話し合う場を分けるという発想もあるようですが、アズワンコミュニティでの話し合いは、理解し合うことをベースに自由に話し合っていると、自ずと具体的なことも生まれてくるという感じになるのです。

話し合えるように各自が成長する(話し合える人になる)につれて、話し合いが実現し、話し合いによって、コミュニティが営まれ、成長していきます。
話し合いの場は、お互いを大切にし、心理的圧迫や自分を守る必要のない、人と人が親しさでつながる見晴らしの良い自由な空間です。
つまり、話し合いの実現は、争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会の実現でもあるのです。
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【次の社会創造】 連載第四回  争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

次の社会創造 連載第4回
【争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ】
サイエンズ研究所  小野雅司
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第1章 

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連載第四回
7 .実現の方法~縛り合いのない、誰もが人間らしく生きられる方式

アズワン鈴鹿コミュニティを創るプロセスの中で、様々な人間問題が浮かび上がってきたことを先に書きました。思い込みやキメつけから話し合えなくなり、縛り合う現状に直面したのです。
 
いろいろな本でも、思い込みやキメつけが、怒りや悪感情や対立の原因だと書かれていると思います。それを聞くと「どうやったら無くせるだろう?」と考え、「思い込みやキメつけを持たないようにしよう!」と、そうならないように意識したり、努力したり、言い聞かせようとする人が多いと思います。
  
しかし、このような思考パターンでは、一時的効果はあるかもしれませんが、根本的にはなくならないと思います。そういう経験をしている人も多いのではないでしょうか。そして「怒りや悪感情はあるのは当たり前だ!」「思い込みやキメつけは誰でもあるものさ」とあきらめてしまうのかもしれません。
  
アインシュタインの言葉に「ある問題を惹き起こしたのと同じ マインドセットのままで、 その問題を解決することはできない」とあるそうですが、まさしくこの状態です。同じマインドセットのまま「どうしたら無くなるのだろう?」と考えている訳ですから。
  
僕達もそうでした。キメつけの弊害は、昔から知っているつもりでしたし、そうならないように努力を重ねてきました。しかし、それではなくならない。
  
2001年からアズワン鈴鹿コミュニティの試みをゼロから立ち上げようと思っていても、そこを超せていない現実に直面したのでした。ここで、今までにない新しい理想の社会を創るには、今までの理論や方法や方式では実現できないということに思い至ったのです。2004年、サイエンズ研究所を立ち上げ、全く新しい地平で、すべてをゼロから見直して探究する必要を感じ、本格的に研究活動に集中していくことになりました。
  
その中で、「どうしたら?」「こうしたら?」と思考するのではなく、「どうしてだろう?」そして「どうなっているのだろう?」と、科学的に探究する道が見出されてきました。その考え方をサイエンズ(ScienZ)と名付けました。Scientific Investigation of Essential Nature(本質の科学的探究)の頭文字 Scien と Zero(零・無・空…)の Z によるものです。

物や技術では、素晴らしい能力を発揮している人間ですが、人間や社会ではその能力を発揮できていない訳が見えてきます。物や自然界に対して、その理や法則性は、人間の考えで決められる訳はないですよね。物や自然界の実際を観察して、その奥にある理や法則性を見出していきます。
しかし、人間や社会については、「こういうものだ」「こうすべき」「それは良い、悪い」と人間の考えで判断している場合が実に多いのです。理や法則性を見出そうとせず、どうする、こうすると右往左往しているような状態なのだと思います。

具体的な場面でも、例えば、機械が壊れた場合だったら、「どうなっているだろう?」とよく観察してみると、不具合の原因が明らかになり、何に手を打つのか自ずと見えきますね。原因がわからないのに、「こうしたらいい」「こうすべきだ」とやっていては、ますます事態は複雑化していってしまいます。

「当然」とはどうなっているのだろう?「~すべき」とはどうなっているのだろう?と探っていくと、そのメカニズムが見えてくるのです。どうしてそのようなメカニズムが形成されてきたのか? どこに、自他を縛るキメつけ状態があるのか? それがどのように作用しているのか?等が、自ら把握できるようになるのです。「当然」としていたことが、実は根拠のない思い込み、キメつけだったことが、手に取るように見えてくるのです。「怒り」「悩み」「対立」なども、そのように探って、そのメカニズムが見えてくると、自然と解消の方向に進んでいけるのです。

つまり、対立感情や悪感情などがなぜ起きるのかを探究していくと、「強制 束縛などによる心理的圧迫」とそれに対する「自己防衛」から形成される「自分の考えへの執着」がその原因であることが見えてくるのです。「自分の考えへの執着」とは「~ねばならない」という「キメつけ」状態のことです。そして、それを解消していける方法を開発しました。
それをサイエンズメソッドと名付けました。

  
例えば、コミュニティで、「それは大変な問題だ!」と思うことが起きたとします。するとすぐに「なんとか解決しなければ」「どうすればいいのだろう?」と考え行動する場合が多いのではないでしょうか?しかし、この場合でも、「問題」としているのは、「何を問題としているのだろう?」「実際には何が起きているのだろう?」「そう捉えている自分の内面・感情はどうなっているのだろう?」「本当はどうしたいのだろう?」「どうありたいのだろう?」と観察・探究していくと、何がどうなっているのかが見えてきて、原因も明らかになり、心底の願いも見え、自ずと不調和が解消されていく道筋が見えてくるのです。
 
サイエンズという考え方を元に、「人間を知る」に始まり、人間らしく生きられる「社会実現」までの一貫した方式のことを"サイエンズメソッド"と呼んでいます。
「人間の考えであることの自覚」・・・「キメつけ」(~ねばならない)に気づく
「事実・実際はどうか」・・・・実際の世界に目を向ける
「本来・本質・本当はどうか」・・・自然界の理を知る。人間の心底の願いを知る。人間らしい姿を知る。
という過程を経て、
「理想を実現する」という方式です。・・・・自然界の理にかなった社会=争いのない、誰もが親しい、本心で生きる社会を実現する
  
このように書くと難しそうに感じるかもしれないですね。
でも、実は、人間らしく生きるのが一番楽で簡単だと思います。
人間を知っていくと、人間らしさを邪魔している要素が次々と見えてきます。それを取り除いていくと、人間らしい姿が自ずと見えてくると思います。
自然界の鳥や蝶や動物達は、そのものらしくなろうと努力しなくても、そのものらしく生きていますよね!人間は人間の考えで、「こうしなければいけない」「これをしてはいけない」と自分自身を縛り付けて、人間らしさを損なってしまっているようです。自分自身を縛りつけている「人間の考え=フィクション」を自覚して、取り除くことにより、人間も、元々ある人間らしい姿に立ち還れるのです。
  
このメソッドは、アズワン鈴鹿コミュニティだけではなく、誰でも、また、あらゆる所で適用できます。日本だけではなく、韓国・ブラジル・スイスなどでも、多くの人が学び、良好な人間関係、コミュニティづくりや会社運営、シェハウスの運営、子育てなどの場面でも活用しています。
  
このメソッドが使われている現場を一度見てほしいと思います。人がその人らしく生きている姿は、とても楽でシンプルで簡単で、気持のいいものです。
そして、このメッソドを活用したい人がいたら、ぜひ使ってほしいと願っています。
  
「どうする?」「こうする?」という、やること重視の思考パターンから、「どうなっているのだろう?」「本当はどうしたいのだろう?」と探究していく頭への切り替えを、「人知革命」と表現しています。
サイエンズメソッドについて詳しく知りたい人は、アズワンセミナーという機会がありますのでぜひ参加してみて下さい。また、サイエンズ研究所からサイエンズについて解説した本が出版されています。

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8.21世紀の禅!? ~サイエンズメソッドによるミーティングの醍醐味
サイエンズメソッドによるミーティングでは、何でも言える、何を言ってもいいし、言わなくてもいい、そういう安心の空気がとても大事にされています。
何かを言って、攻撃されたり、責められたりしては、本当に思ったことは言えなくなってしまいますね。
安心の空気の中で、ぶっちゃけの本音が軽く出し合われ、みんなの中で、各自が自分自身の内面を観察して、「自分の考えへの執着」、つまり「~ねばならない」という「キメつけ」状態に楽しく気づいていける方式です。
また、本音の奥にある本心、そして心底で願っていることが、人に聴いてもらったり、自分で自分に問いかける中で、ハッキリと見えてくるようになります。

対立も悪感情もない中での話し合いは、様々な角度・視点での検討・探究の場になっていきます。
和気あいあいとした雰囲気の中で、より親密になり、知恵もめぐり、あたかも、一つの心、一つの知恵で考え合うような場になっていきます。
そのような場になると、心も満たされ、参加者同士がより一層近しく親しくなり、思いもかけない素晴らしい発想が生まれてくるのです。
宇宙自然界の理にかなう知恵の使い方とでも言いましょうか、つまり、全てはつながり、単独で存在するものはなく、全ては常に変化しているという姿に近い知恵の使い方になっていくのです。

一人ひとりの努力ではなく、みんなの心と知恵が一つになって、みんなで悟っていく方式です。
また、特に秀でた能力の人でなくても、みんなと溶け合って探究することで、一人ではとても到達できないような世界を垣間見ることのできる方式でもあります。

サイエンズメソッドを体験した人(この本の後半の対談や論考で登場する三木卓さんです)が、「21世紀の禅だ」と表現したように、皆の中で各自が目覚める機会なのです。

三木さんの体験によるサイエンズメソッドの考察を紹介してみましょう。
「社会的フィクションによって自縄自縛になっているという自分の姿が見えた時、人は自由になっているのではないでしょうか。
自らの生まれてきたままの自然状態を再び発見しているのではないでしょうか。

サイエンズメソッドは、一連の問いかけを、グループで自由にオープンに探究していく中で、この自縄自縛になっている自分の姿に気づいていく探究プロセスです。

問答によって悟りに至る道を開発してきた禅にならって、ぼくがサイエンズメソッドを21世紀の禅と呼ぶ所以です。」
「サイエンズメソッドが21世紀の禅だと僕が言ってるのは、自分を制限しているのは思考が作り出している意識上の自分であり、それは実際の自分とは違うことを、自由な話し合いの中で自分で調べて自分で知ることができる方法だからだ。
知識として理解するのではなく自分で自分を理解する方法だからだ。」

今までの話し合いとは、まったく異なる愉しい話し合いの場です。
百聞は一見にしかず。ぜひ、ご自身で体験してみてほしいと思います。
定期的に「アズワン鈴鹿ツアー」を開催していますので、何でも心通い合う話し合いによって営まれている次の社会のモデルを見に来てくださいね。

アズワン鈴鹿ツアーについてはこちらから

(次回へ続く)
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【次の社会創造】 連載第三回  争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ

次の社会創造 連載第三回
【争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会へ】
サイエンズ研究所  小野雅司
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第1章 

連載第一回はこちらから

連載第二回はこちらから


5.やる気や意欲だけではできないんだ! ~「キメつけ」だらけの実態に気づいて

20年を経て、現在のアズワンネットワーク鈴鹿コミュニティは、規模はまだ小さいながらも、ずいぶん人も増え、いろいろな産業や種々の活動や建物も整い、内容もずいぶん充実してきているように見えます。しかし、もちろん、最初からすべてうまくいった訳ではありません。いろいろな問題や危機(笑)にも直面してきました。

2001年、理想も高く、やる気まんまんの人達でスタートしたこの試みですが、すぐにいろいろな問題に直面することになります。
新しいコミュニティを目指している自分達の中でも、人間関係のことや社会のことになると、「これはやらなければならない」「当然こうでしょ」としていることがたくさんあったのです。しかも、それに全然気がついていなかったのです。つまり、「思い込み」「キメつけ」や「あきらめ」が心の奥に横たわっていたのです。あまりに当たり前になり過ぎていて、また、周囲の人も同じように当たり前にしているので、誰も気がつかないのです。

もちろん、僕自身もそうだったし、今もそこをたえず問い直しながらの日々です。

僕は大学時代(もう40年前になります~)に人生や社会に疑問を持ち始め、学生運動や平和運動に関わる経験を経て、理想の社会づくりを志すようになり、大学卒業後、ヤマギシ会という共同体に身を投じ、16年ほど活動していました。

しかし、組織が大きくなり、様々な問題が生じ、理想とする世界とのギャップと行き詰まりを感じ、2000年の暮に会を脱退しました。そして、ヤマギシ会で出会った志を同じくする仲間たちと、もう一度ゼロから、理想とする社会を創ってみようと、鈴鹿に移住し、新たな活動を始めました。今は、アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティと呼んでいる試みの始まりです。

純粋な気持の仲間たちが集い、やる気も十分だし、今までのコミュニティづくりの失敗の経験も生かせるし、「今度こそはやれるぞ!」と思っていました。「上下のない何でも話し合いで運営される会社を創ろう」「お金の要らない経済を創造しよう」「本当に自由な暮らしを創造しよう」と理想に燃え、いろいろなことにチャレンジしていきました。

ところが、意見が違うと対立が起こったり、仕事ができる人や理路整然と話せる人の意見が強くなったりすることが出てきました。また、お金が足りなくなったりすることもしばしばで、そうすると、働いていない人にプレッシャーがかかったり、遠慮が出たり、お金を多く使う人を責めたり・・・。実に様々な人間問題が噴出してきたのでした。「争いのない、気持のままにやさしく生きられる社会」という理想とは程遠い現実に直面したわけです。

理想の社会を願っている人達が集まっているのに、なぜそうならないのか?「平和を願って戦争をする!?」、あの状態と同質の問題が再び現れてきてしまったのです!

そこでハタと気づいたのです。「皆で決めたことをやるのは当然」としている自分。「やると言ったんだからやらなければならない」「仕事ができるのが良い」「全体のこと考えて行動するべきだ」「困っている時は助け合うのがふつうだろう」などなど、キメつけだらけの自分に向き合わざるを得なくなりました。

また、「親しい」とはどういうことか?「幸せ」とはどういうことか?「自由」とはどういうことか?「そういう社会を目指している」と言いながら、実は「親しさ」「幸せ」「自由」などの意味を、本当には「知らない」ということに気が付かされたのでした。つまり、目的地をハッキリ知らないのに、だいたいこっちの方向だとやみくもに走り出しているような状態だったのです。
意欲や純粋な気持だけでは、理想のコミュニティはできないのだと思い知らされたのでした。

コミュニティづくりを「やれる人」という視点がなかったのです。
これは、これから、コミュニティを志す人にとっても、職場や家庭を良くしようとしている人にとっても、とても大事な視点だと思います。
「やれる人」なのかどうか?という視点。そういう人になろうとしているのかという視点です。

例えば、野球選手として活躍したいという純粋な願いややる気のある少年がいたとしても、願いややる気があれば活躍できるわけではありませんよね?基礎体力をつけたり、基礎的なトレーニングを積み、実践的な経験を重ねながら野球を知る、そうやって、野球を「やれる人」に成長していく道筋を通ってはじめて野球選手として活躍できるのだと思います。

しかし、人間関係を良くするとか、職場や地域を良くする、コミュニティを創るという活動では、やる気や意欲があると、できる気になりがちです。しかし、「やれる人」になっていなければ、やれないのは当然なのでした。

僕達にとって、これらの気付きが大きな転換点になりました。「親しさ」「幸せ」「自由」とはどういうことか?争いや対立の原因は何か?キメつけとは何か?それはどこからくるのか?「やれる人」とは?どうやったら「やれる人」に成長できるのか?などを本格的に研究しようということで、2004年「サイエンズ研究所」という研究機関を立ち上げました。

そして、ゼロから人間や社会のことを問い直し、研究と実践を積み重ねていくことになったのです。そして、「やれる人」になる要素を研究し、「やれる人」に成長するための人材育成機関として「サイエンズスクール」を設立(2006年)する方向に動き出しました。


6. フィクションの牢獄からの解放
~「当然だ」「~すべき」という縛り合いを超えて

先ほど、素晴らし想像力+創造力を持つ人間が、人間自身や社会に対して、その能力を発揮できていないのは、深い「思い込み」や「キメつけ」や「あきらめ」があるからではないか?という事を書きました。そこをもう少し考えてみたいと思います。

日本でも話題になった『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏(歴史家)は、「個体としては、とても弱い存在の人類が現在のように繁栄できたのは、フィクション(虚構)を使うことができたからだ」と述べ、それを「認知革命」と呼んでいます。つまり、フィクションを共有することで、大人数で協働することができるようになり、大きな力を持つことができるようになったのです。

チンパンジーやネアンデルタール人などは、150人程度の見知った仲間でしか協働できないのに対して、人類はフィクションを共有することで、大人数の見知らぬ者同士でも協働できるわけです。

フィクションとは、現実に存在しないものです。例えば、国、法律、人権、権利、義務、責任、制度、所有、貨幣、宗教・・・・。
もう少し身近な表現だと、お金、約束、予定、時間、やらなければいけない、してはいけない、すべき、当然、当たり前、普通、常識、こうなっている、人の上下・・・等々、これらは皆フィクションで、実際に存在するものではないですね。挙げればキリがありません。

フィクションを共有するとは具体的にはどういうことでしょうか?例えば、お金。ここに一万円札があるとします。チンパンジーに、「1万円札をあげるから、お前の持っているバナナと交換しよう」と交渉しても、何の関心も示さないでしょう。彼らにとってはただの紙切れに過ぎないものです。しかし、人間同士で、お金というフィクションを受入れたとたん、突然価値のあるものに見え、交換の材料として、使い始めることになります。

国があるというフィクションを共有することで、会ったことのない人同士で「頑張れー、ニッポン!」と肩を組んで日本代表チームを応援したり、1億3千万もの人が日本という国の元に協働できるようになったりするのです。
人類の繁栄をもたらしたフィクションなのですが、一方では、今の社会では、フィクションが絶対化・固定化されてしまい、人がフィクションに従う構造になり、人間を縛ったり、人と人を隔てたり、いろいろな人間問題を惹き起こし、争いの原因になっているようです。「お金に動かされる」「規則に縛られる」「時間に追われる」等は、その顕著な例でしょう。自分が作り出したフィクションに自分が縛られる、まさに自縄自縛の状態です。自分が作った牢獄から逃れられない状態とも言えましょうか。

フィクションが悪い、害だ、なくすべきだという話ではありません。フィクションを共有し協働できるのは人間の特徴ですし、素晴らしい能力ですから、それに縛られない新しい知能の使い方が必要なのだと思います(第1章第8項参照)。

コミュニティづくりを進めていく時や、何か事業や活動を本格的に進めようとする時に、人と人との関係性が近くなっていきます。すると、いろいろな縛り合いが始まり、様々な争いや対立に発展してしまうことがあります。また逆に遠慮や我慢などの隔てを生んでしまうこともあります。例えば、「あの人は自分からやると言ったのにやらない」「あの人は自分の当番なのにやらない」「あの人は自分が使った道具を片付けない」「あの人は皆で決めた事をやらないで自分勝手にやる」・・・etc.

こういうことで人を責める人が出たり、争いが起こることもあるでしょう。また、責められないように人の目を気にして一生懸命周囲に合わせるようにしている場合は、一見うまく運営されているように見えますが、快適な状態ではないでしょうし、そうやって頑張ってやっている人は、やらない人に対して悪感情を持ちやすいでしょう。

これは、「やると言ったら責任を持ってやるべきだ」とか、「当番だったらやるのは当然だ」「自分の使ったものは自分で片付けるべきだ」「皆で決めたことは守るべきだ」というような自他を縛るフィクションが「常識だ」「普通だ」というキメつけとして、各自の中に無意識的にできあがってしまっているからでしょう。それは、それをやらない、守らない人に対して悪感情や対立感情が湧いてくる、自分の考えへ執着した状態です。

自分だけがキメつけているのだったら、自分のキメつけかもしれないと気づきやすいですが、他の皆も同じようにキメつけていると、「そうするべき」ことがあたかも実在するかのような錯覚に陥ってしまいます。「当然そうだ」「人だったらそうするものだ」「誰だってそうする」・・・と。そうして、人を責めて、対立や争いの状態になってしまいます。「悪いのは当然のことをしないからだ」と。そうやってフィクションの牢獄ができあがってしまうのです。固定化したフィクションが、コミュニティの人間関係を壊していくことになっていってしまうのです。願っていることと、まるで正反対のことが起きてしまうのです。

人間が考え出したフィクションに人間自身が縛られている現状を観察していくと、「人間の考え」というものの扱いを知らない状態とも言えるかと思います。つまり、素晴らしい能力を使いこなせないで、その能力に却って自らが縛られている状態です。そういう視点から、「人間の考え」から作られる自他を縛るフィクションから解放され、その能力を存分に発揮できるためのメソッドが見出されたのです。それが次項で紹介するサイエンズメソッドです。

フィクションに縛られなくなったら、どうなるでしょう?
「こうすべき」、「これが当然だ」という世界から解放されると、自分にも相手にも、意思や願いや希望があることがハッキリと見えてきます。それを素直に伝え合い、また互いに相手の意思や願いを聴き合い、理解し合おうとすることで、心の通い合う話し合いの世界が実現していくのだと思います。「やってほしかったよ」とか「それ、やってほしいな」「使った後は、道具を片付けてほしいな」という、人を責めたり、やらせたり、やめさせたり等の縛りや圧力のない、軽くて明るい人と人との関係性が見えてきます。

コミュニティづくりのベースは話し合いだと思います。(第2章第2項参照)固定化したフィクションに縛られた中でのやりとりではない、自らの内にある本心のやり取りが、快適なスムーズな話し合いにつながってくると思います。


(次回へ続く)
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