“デジタル・デトックス”と称して、何もしない一週間を過ごした吉田直美さん。その時に振り返った人生の転機をここまで連載してきました。再びソロモン諸島の村人の縛られない暮らしについて《番外編》をどうぞ!
人生の転機①>>>
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人生の転機②>>>
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人生の転機《最終回》>>>
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◆「何もしない一週間に思うこと」<番外編>
写真と文:吉田直美
時間、年齢、お金に縛られていない
一週間,こういう時間を体験すると,いかに日々,「あれをしなければ,これをしなければ」と,「やるべきこと」に追われていたかということにも気がつかされる。
そういえば,あの島で暮らしていた2年間も,追われている感じがなく,生きていく不安もなく,のんびりと過ごしていたなぁと思い出す。やるべきことといえば,毎食のご飯づくり。それだって,別にお腹が空いていなければ,日に三度という縛りもなく,適当にしていたなぁ。
時間だってそう。そもそも村人は時計を持っていないし,持っていても飾り物だったりする。正確な時間を示しているわけではない。なので,村長から,「今晩,ミーティングがあるから」という連絡が来ても,いったい何時に始まるかは誰にもわからない。
年齢にも縛られていない。村人で,自分の年齢を迷いなくスラスラ言える人は,二人くらいしかいなかったと思う。日本と違って,自分が生まれた年,年齢を意識しなくても,生きていくことに不便はないのだ。そもそも戸籍とか,住民票のようなものはない。人によっては,教会が発行する生年月日を証明するものを持っているようだが,それを必要とする機会もほとんどない。
お金には少し縛りがある。学校は法的には義務教育制だが,学校の運営費を支払わなければ,子どもを学校にやることができない。結果,学校に行っていない子どもは多い。だからと言って,その後の生きることに何か困るわけではない。病院でも少しお金がかかる。診察は無料だが,薬をもらうときには少しお金がかかることがある。また,電気の代わりのランプには灯油を使う。体を洗うときには,できれば石鹸を使いたい。こういったお金のニーズはあるが,村人に,「今,家にお金ある?」と聞くと,たぶん,「100円くらいある」という答えが返ってくると思う。そこに,特段の悲壮感はない。
三食食べるとか,時間とか,お金とかは,そもそも人間が考え出した習慣とか,便利なツールといった類のものであると思う。新人類が誕生したといわれる約20万年前には,そういったものはおそらく存在していなかったと思う。しかし,それがいつの間にか人が生きていくのに絶対に必要なものとなり,場合によっては人間を縛りつけるものともなる。人間が創りだした「フィクション」に,いつの間にか人間がグルグル巻きになっているというのは,摩訶不思議な気もする。
◆【おまけ】
死への執着もない?
話しの筋がずれるかもしれないが,生死感もちょっと違っていた。村にいったばかりのころ,3歳くらいの村の子がマラリアで死んだ。村の教会で葬式が営まれるというので,自分も参列した。祭壇の上には,リンゴ箱の材料のような,粗末なつくりの小さな棺が祭られていた。それがなんとも,もの悲しさを誘う。クライムマックスは,埋葬の場面である。男たちによって掘られた小さな穴の中に棺が置かれると,隣にいた女性が大きな声で泣き出した。自分もつられて泣いた。
が,しかし,埋葬が終わると,さっきまで嗚咽していた隣の女性は,一変してニコニコと笑っているではないか。何かがおかしいと思って,あとで他の村人に聞いてみた。すると,なんと,その女性は,泣き役だったという。葬式の悲しみを演出するために,あらかじめ女性の中から泣き役が指名されているのだという。その村人に,子どもが死んで悲しくないのか? と聞くと,「そりゃ,家族は悲しいと思うけど,ここでは子どもが死ぬことは珍しくない。だからたくさん産むんだよ」との答え。
人は必ず死ぬ。その時期が早いか,遅いか,それだけ,という。生きているうちは,その生を存分に生きる。死んだら,死んだで,もうそれでしょうがない。死は遠くにあるものではなく,身近にあるもの。そういう環境だからこその死生観なのかなぁと思った。過去にも執着しないし,未来にも執着しない。彼らはそういう生き方をしているのかもしれない。
【 続 き を 閉 じ る 】