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恵共同体・アズワン物語〈9〉「フィクションの向こうにあるもの」


「フィクションの向こうにあるもの」


「フィクション」について触れたので、その観点でもう少し話してみたい。

坂井氏の「フィクションからの解放、次の社会へ」の話はかなりインパクトがあったようだ。3日間を通じて、彼らの中に深く入っていった。

フィクションが悪いわけではない。私達はフィクションを共有することで社会を営んでいる。ただ、自分たちが作り出したものに縛られてしまい、本来あるものに気づかなくなっていないかを問いたい。

坂井氏の次に話しをしたのが生活スタッフの中井佳子さんだった。ここでの暮らし方を案内した。佳子さんはみんなのお母さん役といったところ。
「今まで、ツアーに参加する人たちを“お客さん”として迎えてきたが、今回は、“お客さん”とスタッフという関係でなく、共に暮らしをつくっていけたら…」そんな主旨のことを伝えた。

「お客」と「スタッフ」という関係も一つのフィクションだろう。
そのフィクションの中で互いの関係を成り立たす。お客はサービスを受ける側で、店は提供する側になる。ここに「お金」というフィクションが絡んでくる。

例えば、「お金を払ったからしてもらえた」とか、「お金のために仕事をする」と言う時がある。その場合「お金」は意識に上るが、そこにいる相手の人が、どう見えているだろう? 「フィクション」が潜在的に刷り込まれているために実際の人の行為や相手の人に目が向いていかない。

お金や仕事とは関係なく、人と人の間には、してもらったり、して上げたりという行為はごく普通にある。その自然なやりとりの方が、本来は当たり前ではないかと思う。また、自分が人にして上げた行為よりも、人からしてもらっている行為の方がはるかに膨大であるのだが、そのことを知らない。

今の社会では、「お金」というフィクションが大きくなり、そこに支配されているという錯覚すらある。実際の人と人の関係や行為が見え難い状況だ。

フィクションがフィクションだと気づくことは、その実際に関心が向いていくことでもある。

佳子さんが言った「お客さんという関係ではなく…」という言葉の真意は何だったのか? フィクションではない、実際の人と人という間柄で、共に暮らしたい、そんな願いからだと思う。その元には、母親が子どもの世話をするような「無償の愛」があったのかもしれない。この元々あるもの。本来誰の中にもあるものが発露し発揮される社会、そんな社会が出来ないだろうか……フィクションから解放されることで発揮されるのでは……つづく(文・いわた)

(写真は、講義の後のヨガで一呼吸)
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