恵共同体・アズワン物語〈10〉「利己心」



「利己心」

スタッフの佳子さんの案内が終わり、「次は食事です」と伝えると、会場は大いに湧いた! ただでさえノリがいいのだが、この時の歓声はこの日マックス。素直というか、感情表現がストレートというか。しかし、もしも冗談でも、「今日は食事の用意がありません」なんてことを言ってたら、どうなっただろう? 大ブーイングが起きただろうか? (*^^*)

「冗談でも言っていい事と悪い事がある」なんてことも言うが、ちょっとした言葉遣いで傷ついたり心証を悪くすることがある。こんな場合は一体何に反応しているのだろう?

恵の人たちは、クリスチャンで自己の内面に向き合うことが日常化しているそうだ。そして、「力動」(りきどう)と言って、人と人との間に起こる「葛藤」をそう呼んで、この「力動」をどう解決するか、その方法にも強い関心を持っていた。

その夜のミーティングでこんな質問があった。

「私達には、利己心がある。他人のことよりも自分の利益を優先する気持ち。自分さえよければ良いという心。そういう心をどう克服していますか?」

という内容だった――。

彼らは、自分の利己心を訓練によって克服し、自分自身を成長させようとしていた。そこには、人は利己的で、そのまま育つと他人のことを考えられなくなってしまう。だから子どもの時から、人を思いやる心を訓練によって養っていかなければならない、そう考えているようだった。

内面に「葛藤」が生じる一つには、自己の「価値観」が影響していると思う。善悪の判断が自分の気持ちや行動を裁くように。人の言動に対してもその価値観を振るう時がある。

善悪、正義、公正さ…も人間が作り出したフィクションだろうが、振りかざせばナイフにもなり、自分も人へも向けられて、傷つける。銃は取り締まるが、こうした武器はほとんどの大人が持ち合わせているのでは? 果たして、本当に必要なものなのかどうか…。

自分の身を自分で守らなければならない関係――私は私、あなたはあなた、という個々別々の間柄、つながりを排除する世の中では、自分の利益を優先せざるを得ない。そんな環境で利他的になりなさいと言っても無理だろう。

ところがその一方で、人は環境の生き物だ。周囲社会と自分の間が安心出来る関係にあるとき、自分が自分を守ろうとしなくてもいい。いちいち「人を大切にしましょう!」と言う必要もない。自分だけよくなろう、という発想が出てこない。それは自己と他者の区別がない状態かもしれない。人のことが他人事に思えない時、たぶん、そんな行動をしているのではないか。(こういう方向で社会を創ろうという試みがアズワンの社会か?)

自分さえよければ良いとして行動した時、“後ろめたさ”や“心が痛む”ことがあるとすれば、それは善悪のナイフが向けられている状態なのか、それとも心の底にある願いとのギャップから来るものなのか・・?

私たちが今住むこの社会は、それがフィクションなのか、元々あるものなのか、それすらもマインドセットの中で見分けられないでいる。気持ちや感情は、フィクションであるドラマや映画にも大きく揺れ動くし、冒頭の発言一つでも一喜一憂するだろう。人は世界を感覚で受け取っている。その揺れ動く感覚を軸に世界を語っても・・・

と、こんな話しを、その夜は0時を回るまで語り合った。彼らと。つづく。(文・いわた)

(写真は、夜のミーティングを終えて、飲みながら語り合う)
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