「研修生コース」に参加して

「天動説から地動説へ」
この1週間を振り返ってみると、喩えて言うと、「地球が自転しながら、太陽の周りを周っている理屈は分かるけど、だって私には太陽が昇って、沈んで行くように見えるもん!」と言い張っている状態からのスタートだったように思う。
夜の検討会に実際にトマトを持ち込んで、「これを箱に並べて<秀、S>と書くと<秀のSのトマト>になる。」なんて説をデッチ上げてみたりもした。
頭では「自分の感覚」と思っていても、ものごとを捉える瞬間には、なかなか自覚できない。<実際のコト>のように受け取る。そこからくる、混線と混乱。「自分の感覚で捉えている」という実感が欠けた状態だった。

5日目に「すべてのことは、私の感覚で捉えている!どう言い張っても、どう見えても、全部ぜん~ぶ、自分の頭の中のコト!!」と、実感したことが私にとっては、大きい。
それまで検べて来て、一人一人に、その人の感覚があり、この世界を捉えていて、それはその人のオリジナルのものらしい、と思っていた。そして、私自身も、独自の感覚で捉えている、と考えていて、「私の独自のモノ!独特のモノなんだ!」と頭に衝撃が走った。
すべて、私の感覚で受け取っていて、解釈したり判断している。私、独特のモノの観方をしている!、と初めて自覚出来た。
自分の観方で、人の言動のほんの一部、行動の一瞬を捉え、自分流に解釈している。自分の感覚でしか、捉えていない!
一人一人に、その人の感覚があり、その人のオリジナルで捉えていて、私にはワカラナイ。相手の話をどんなに聞いても、自分の解釈なので、何を思っているか、どんな気持ちなのかワカラナイ。ワカラナイということすら分かっていなかった・・・。
平気で自分の考えを押し付けにかかろうとする。根拠のない、何となく「いい」と思っている価値感を押し付けたがる。ここのところをしっかり考えないと、人とは一緒に仕事は出来ないし、暮らせないように思う。
自分の感覚でしか、ものごとを捉えられない私が、人と共に生きる道をじっくり考え、探ることが真っ先ではないか、それをやりたいと今、思っている。
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研修生コース出発にあたり

 固定したものの見方は、当たり前すぎて意識すら出来ないと思っていた。「諦め的に、消極的に」物事を考えてゆく自分の回路はいったいどこからきているのだろう?実は、最初の最初、「そのものをみて」、「そのものをきいて」まずそこからのスタートであるということが、今回の研修生コースの中で、じわーっという実感を伴って、僕の中にしみていってきたような気がする。何よりも、自分の頭の世界に収まりきらない世界に、今生きているということが、ほんの少しながら、僕の心をやわらかくしていってくれているようだ。 
 
 「すべてが自分の感覚である。」ということが、実例を出しながら、検討してゆき、自分に向きあうことによって、ようやく、その地平に足をつける感じがした。
 自分の中に、ものを見たり、聞いた時にに確かに「受け取り」があり、その後で、自分固有の反応が起こっていると思うけれど、慣れ親しんだ、従来観念で、すばやく、外に出た反応に関心が飛んでいってしまう。その後で、いくらでてきた反応を触ってみても、つついてみても、何ら自分の世界に変わりのないということを感じたかなと思う。本心まで覆い隠すような、強力な固定観念、「僕の常識観念」実は、「自分の」という意識が全くといってよいぐらい、”あたりまえになりきった”そういう考え。今まで、それをもって暮らしてきたし、今の自分の暮らしも、ほとんどそれの延長上にあるのじゃないかとも思う。

 いくら本心をといっても、認識の仕方に過ちがあったなら、そこには行き着かないのだと思う。繰り返し、繰り返し、「私が見て」「私が聞いて」そこから立ち上がってくる、私の中の反応を、素直に観察し、機会あるごとに、検討の場にだしてゆく、自分を知ってゆくということが、自分を含めた全ての人の幸福に繋がってゆくということが、わずかながらも、今の自分に実感できたこと。みんなのなかにあって、初めてそう感じられたことだと思います。まだまだこれからだと思います。焦点を絞って、日常がスタディライフになるように、暮らしてゆきたい。
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日常化レッスン 検討会

エクササイズ。
2班に分かれて、それぞれ別の物を見て、それを相手の班の人に伝える。
物を見ているとき、相手に話しているとき、相手の言うのを聞いているとき、の自分を観察する。

やってみてとそれを出し合ってみて。
色、形、大きさ、材質、手触り、出来るだけ正確にとよく見る。記憶する。同じ班の他の人が言うのを、自分の記憶と照らし合わせながら聞いている。「うん、うん、そうそう。」「シルバーじゃなくて金色だったけど」など。確かに、頭の中の記憶と照らし合わせているんだが、その記憶と実際のその物とが分離されてないようだ。自分が話すときも同じ。記憶を頼りに話しているが、記憶の向こうにその物がある。
相手の班の人が言うのを聞いていて。どんな物か言葉を頼りに想像しようとするが、掴みどころがなくだんだんイライラしてくるのを感じる。そのうち「メジャーみたいなもの」という表現を聞き「メジャー」が浮かんできて落ち着く。それぞれの頭の中の「メジャー」なんだけど、あたかもその物がそこにあるかのようにして想像している。
話しているときも聞いているときも、その物はもう目の前にはない。記憶を頼りに話したり聞いたりしている。そこはそうなんだが、「実際を記憶している」と言うふうな感覚だ。くり返しここに戻る。「実際」と「記憶」。 2007.3.9
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日常化レッスンをやってみて。

仕事を終えて、いそいそとレッスンに通った。夜間高校生ではないが、おじさん、おばさんの日常化レッスン「定時制部」。仕事が経理から、トマトの収穫や選果、野菜の出荷に変わり、今までより仕事をする時間が長いし、体力も使う。腰や膝が痛かったり、夕食を食べると、そのまま眠ってしまうこともあった。申し込む時も参加しながらも、無理かな~?と頭で思う。
「頭の中で思うことは、実際とは異う」と書いて見ると、そんな当たり前のこと!と思うが、レッスンでは繰り返し、その事を実験したり、観察したり、実感したりしたように思う。
自覚なく「妄想、空想、過信、盲信」していることを、エクササイズで実験してみたり、どうなっているのかと自分の例や人の例で調べていく。毎回、『我が目を疑う!』ことばかり。そのことが興味深く面白く、愉快だった。
研修生コース、日常化レッスンと続けての参加だったためか、「仕事観」も以前とまったく違う。目的が「自分を観察すること」で、そのために仕事をしているというような感じで、今回は日常の何気ないことにも、目が行くようになった。
テーブルの上に使った食器があると、手を伸ばし流しに運び洗う。『?なんで、洗ってるの?』自分の思うことや行動に『なんで?』と興味が湧く。
もの心ついた頃から、動物や植物に興味があり、自然と目が行っていたように、そこに「自分の観察」が加わったようだ。『へえ~!こんなことなんでしているんだろう?』『なんでこう思うんだろう・・・?』『なぜ、こんなこと言うんだろう・・・?』自分自身のことなのに、不思議でならない。
昨日、<視覚からの情報は、スゴイ速さで処理され、反応が起こるので>と書いたが、どうも、自分が捉えていることを自覚出来ないと「スゴイ速さ」と感じるようだ。
自分の頭が「どのように捉えているか」が自覚できている時は、『こんな風に見たなァ~』『そのことで、今、こう思ったのか・・・。』と「スゴイ速さ」とは感じなくなっていた。今のところ、興味は尽きないようだ。
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人を知る

人生を知るためのコースに参加して

毎日、自分を含め近い人について、
その人についての、体験や経歴や感想などを書いてみた。
どこで育った、どういう学校へ行った、こういう仕事をしていた、
結婚している、こどもが○人いる、こういう性格、
鈴鹿にきてから、こんなことがあってこう思った、、などなど。

書いてみるとその人や周囲の人から、
見たり聞いたりして自分の頭の中にできた印象だった。
でもそうはとらえていなくて、
その人のことをそういう人ととらえていた。
自分の印象でその人を見ていた、
一番身近かな自分のこともそう見ていたと思う。

人とはどういうものか、
自分は、自分やその人のどこと、何と接しているのか、
長年のおつきあいの人とは、
その人の何とつきあっているのか、
調べていくうちに、
自分がいかにその人の表面を見ているかがみえてきたと思う。

こういう仕事をしている、結婚している、こどもがいる、
近くに住んでいる、こんなことがあった、
というのはその人の表面で、
そういうことを全部とりはらったあとに、
あるもの、その人の本質・実質・本体。
そこを見ようとしていなかったと思う。

人は人として生れる、
身体は異常があったら直そうという働きがあるように、
人には人として成長していこう、
人として稔ろうとする方向、エネルギーが、
だれの中にもある。

一時的、表面的にどのように現れていても、
生きている間は人として稔ろうとする作用・火種は、
いつでもどの人の中にもある。

育つ過程で、周囲環境から受けてきたもので、
知らず知らずのうちに、
表面的なことに重きを置く価値観を植え付けられたと思う。
眼が表面を見る眼になっていたように思う。

日常の中で表面でない本質を見ようという眼に、
どれだけそうなるか、
これからが本番。
本質に重きをおくお互いに成りあっていきたいと思う。

今回、ゆっくりとじっくりと時間をかけて、
人とは、、と調べるなかで、
こういうものかな、と自分から出てくるものが、
知識として頭にある表面的なことで、
それでは調べる、、とならない、
どこまでも表面的でない本質に迫ろうとする、
調べる、、という体験に触れた感じがした。

昨日、家に帰ってから何人かの人に接した。
近くに暮らしているAさんBさん、
宅急便の人、犬の散歩をしている人、
その人と接するときの自分、
自分のどこと、その人のどこと接しているのか、
どこを見ようとしているか、
観察していこうと思う。
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