アズワンマンション 4 ・ 5

アズワンIV
来月の完成に向けて、着々と工事が進められています。



アズワンV
8月20日 地鎮祭が行なわれ、着工しました。来年1月の完成予定です。

完成予想図
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ベース

仕事している時なんかでも
「やって欲しい」って気持ち出てくることある。
それ取って欲しい、とか、手伝って、とか
これも二通りある感じで、純粋に出て来るものと、やって当然とするところから出て来るもの。
何でやらないんだ、って非難する気持ちに変化していくのは「やって当然」という考え方があるのだろう。
(やらせようとするのもコレか!?)
考えてみれば何故「やって当然」っていえるのだろう。
どっちかといえば「やらなくて当然」のほうが実際に即したようにも思える。

やって当然、やらなくて当然
あって当然、なくて当然
自分のベースを眺めてみよう。
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研究所サロン

人の自由、社会の自由、自由っていい感じだけど、そうなりたいと思うだけではなりそうもない。
生まれてから今までに、人間社会にはこれが必要ということを一杯覚えてきて、自分を縛り、人を縛り社会を縛り、無自覚にやっていることにもっと光を当ててみて、自分を解放していくことで実質の自由に近づいていけるのかなと思った。
人から縛られる、社会から縛られる、自分を縛る、人を縛るという感覚はあったけれど、人が自分が社会を縛るというのは新鮮だった。社会の中の自分ということからすると切っても切れない関係がありそうだ。
人の何に関心があるのか、何を大事にしているかというようなことと、主体的自律的ということと、自由と、とても関連があるように思った。
もともと社会は何も無くて、今生きている人と人、今いる人達で出来ている。何の決まりも無くて、自由意志あるのみ。
今日の夕方、母と鈴鹿川の河川敷に行ってみた。太鼓をたたいている人、逆立ちしている人、バーベキュウーかないくつかのグループ、犬と歩いている人、私達は人達を見ながら歩いて、川の水際まで降りてみたり、山並みの風景をながめたりして楽しんだ。母が太鼓もこういうところでたたくと、迷惑にならないしいいねと言った。私はサロンに出ていた広場というのを思いながら歩いた。
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研究所サロンに参加して

「社会=万人に開かれた広場」というような表現があった
社会というものが、もしそういうものなら
もし本当に現に実在する万人に開かれたものなら
こうすべきだとかああすべきだとかいう考えや
こうあるべきだという考え(あり方)を持ち込む余地はないな

そんなことをしたら、それに合わない人がどんどん排除されてしまいそう
「万人に開かれた広場」とは、なんと壮大な描きだろう!
社会というと、すぐルールや制度(決まりや規則)を考えようとする
いかにも狭くて姑息な行き方だ

組織や会社の中で、「こうした方がいいああした方がいい(こうすべきだああすべきだ)、こうあったらいい」というような言葉を自分が口にする時、何か組織や会社のことを言っているつもりでいたけど、その実、自分の心のうちの不満(気に入らないこと)の表明であったかな

もしかしてルールやら規則やらあり方やら、そういうもの全部、人に対する不信・不満・悪感情からのものかもしれない
不信・不満・悪感情が自分を縛り、人を縛り、社会を縛る
ルールや規則というのは人をまとめて一網打尽に縛る方式だ
そんなんで人にとって住みよい感じのいい社会が生まれるはずはないな

まずは不信・不満・悪感情のもとに潜む自分の中の縛る観念を直視するところからの出直しかな
そうして初めて、自分の中から自発的自由意志が出てくるのだな
社会に依存しないで、ルールや規則に頼らないで、好き勝手に気ままに、自発的自由意志で動く人たちが構成する社会、何か想像を絶する!

研究所サロンに参加して何か残るものがあるなと思い、書き始めてみたら自分の中も思わぬ展開になってきたようだ。
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