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こうしてアズワンにたどり着いた

子供の頃から田舎暮らしが夢だった。

東京に生まれ育ち、祖父母も近所に住んでいた私には田舎というものがなかった。いつかは田舎に住みたい、と思い始め、畑を作ったり色んなものを手作りして、自然を壊さない生活をしたい。これからはきっと気の合う人たちが集まって、コミュニティを作り生活していくようになるだろうと思っていた。

そういった考えが、ワーキングホリデーでオーストラリアやニュージーランドに行っている間にどんどん進んでいき、数か所見に行った後千葉県のいすみ市に移住することにした。そこでNPOのお手伝いをしながら、使っていない保育園の有効利用、耕作放棄地をみんなで管理しようだとか話はふくらみ、楽しい日々を過ごしていた。

移住して一年ちょっと経った頃、東日本大震災が起きた。
いすみ市は太平洋に面していて、私が住んでいたのは海岸から4キロほどの所。揺れが収まるころから、海岸から離れるように促すアナウンスとともに、物々しいサイレンが鳴り響き続けた。
後から知ったことだが、この時高津波注意報が太平洋側一帯に出ていたらしい。電話も繋がらなくなっていて、妹や友人は相当心配したようだ。地元消防団の情報もさくそうしていたが、私は更に山の方へ10キロ入ったところでのんきにアルバイトをしていた。バイト先のコンビニは、特に揺れによって片付けが必要な状態などにはなっていなかったが、電話が繋がらないと公衆電話を探す方が度々訪れたり、乾電池や懐中電灯、水、パン、インスタントラーメンが売り場から消えていた。
余震でしばらく生きた心地がしなかったが、いすみ市は計画停電も免れ、ガソリンも知り合いのつてで入れられて、特に困った状況にはならなかった。



当初私は特に気にしていなかったが、東京で開業していた私の整体の師匠が放射能の危険性を深刻視していた。彼は息子さんもいるせいか神経質になり、ガイガーカウンターを持ち歩くようになった。
放射能の数値が公式に発表されているより高いなどと聞いて、私も不安になるようになった。花粉症のためにしていたマスクを時期が過ぎても外で外せなくなった。
千葉県でも色々な話が飛び交い、お母さん向けの子供を守る会などがマクロビなどの講習を行っていた。私も東京に出向いては、原発関係のドキュメンタリー映画を見るようになり、ますます心配は増していった。

そうこうしている内に、師匠が海外移住を考えていると言ってきた。彼らは水や食料もなるべく遠いところから取り寄せ、子供も学校に行かせるのをやめて、相当ストレスの溜まる生活を続けていた。
テレビで見た番組の中に「パラグアイ」という国が出てきて、そこには日本人じゃないのに日本語を話す子がいるらしいという。
色々調べて、そこは戦前戦後に移住した人たちが暮らす「日本人移住地」だということが分かった。現地の日本人会と連絡を取り、一度の下見を経て、私たちは揃って地球の反対側に移住した。新天地で一緒に頑張ろうと、お財布も一緒にして・・・。

最初の荒波を乗り越え、住むところが決まり落ち着いてきたところで、彼らも私もいつから、誰からともなくギクシャクした関係になった。私については、したいことなど自分の意見が言えなくなり、どうしていいのか分からなくなっていった。もちろんお互いの仕事のバランスやお金の問題もあった。
パラグアイに行って一年ほどで私は彼らから離れ、日系人の大家さんが持っている部屋に移り住み、移住地の日本語学校で働き始めた。そこで自由な子供たちと組織の間で板挟みになり、私がしたかったことはこんなことじゃない筈だ、と思い始めた。人に点数をつけたり、物事を押しつけられるのが嫌いだった私には、向いてない仕事なのは明白だった。でもスペイン語が話せない私には他に選択肢はなかった。現地の人の自分とは合わない習慣なども目について仕方なかった。



幸いネット環境はあったので、日本語で自分が気になることをどんどん検索していった。「エコビレッジ」「持続可能な社会」「自然栽培」、そうしたら聞いたことのない「トランジション」という言葉も出てきた。どういう意味だろう?

ここ数年で日本ではシェアハウスやゲストハウスが激増していた。それには今までの「家族」の形を続けることに限界が来ていて、新しい形を人々が模索する姿が浮かんできた。やっぱりこれからはコミュニティの時代だ!と地球の反対側でこぶしを握っていた。

でも私はコミュニティを作ろうと言って一緒に生活していた人たちと、気まずくなり離れた経験がある。仕事をしていて、人間関係に悩まされたこともある。そういう時は大抵自分が思っていることが言えなくなっている時であり、最後にはそれを言って、または言わずして離れていくことが多かった。これらすべてはコミュニケーションが上手くいかなかったせいだ。

いくら夢や希望を抱いて集まった同士でも、それぞれの習慣や考え方は違う。これを埋めるのは話し合いしかない。しかしその話し合いができない状態になる。

私が検索して得た情報の中には、海外のエコビレッジ、日本各地のシェアハウス、ゲストハウス、コミュニティなどたくさんあったが、目を引いたものの中にシェアハウスの「ウェル洋光台」やこんな想像をしている人がいるんだと思った物語「お金のいらない国」、そして「アズワンコミュニティ」があった。

日本には私が気になる活動している人がたくさんいる!と気がついた私は、日本語学校の先生を何とか年の終わりまでこなし、やっと利益優先まっただ中の南米を後に帰国した。

そして気になる場所を中心に日本を旅し始めた。実家のない私は、いい所があったらそこに住んでもいいなと思いつつの旅。行く先で「地域おこし協力隊」の話など情報をくれる方も多かったが、自分がしたいことは何なのか考えつつ、ようやく4月18日の「探訪デー」に訪れたのであった。
そこにはまさかの「お金のいらない国」の著者長島龍人さんとの出会いという、嬉しいびっくりも付いてきた。一粒で二度美味しい訪問になった。
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