<< 鈴鹿川流域の環境展へ出店 | main | 「お金がないと生きていけないか?」 >>

貨幣も要らない いのちの一体性に基づく共同社会

昨年9月の探訪DAYに来られた馬場真光さんが、
「いのちの森通信 Vol.29」(公益財団法人 いのちの森文化財団 2014/1/1発行)に論文を寄稿し、その中で、アズワンコミュニティ鈴鹿の試みが紹介されてます。

新しい社会のあり方の探究をしている馬場さんにとって、「やさしい社会」の試みは、未来社会を展望する一つの研究材料になったようです。


  (画像はクリックすると拡大します)

  (いのちの森通信 Vol.29)           (寄稿部分)

・・・
実際、私が以前訪れた「アズワンコミュニティ鈴鹿」(三重県鈴鹿市)という生活共同体では、過去、独自の地域通貨をつくって流通させていた時期がありましたが、世帯間の家族的意識が深まるにつれて、取引のつど金額を記録するのが「だんだん面倒になり」、今ではその通貨は廃止され、様々な農産物が自発的に提供され、持ち帰られる商店が登場しています。いのちの一体性が浸透した社会で貨幣が不要となる証左でしょう。・・・


  (アズワンコミュニティの紹介部分)      (馬場さんの紹介部分)
  (画像はクリックすると拡大します)

全文を読みたい方は、以下をご覧ください。
--------------------------------------------------------------
貨幣も要らない いのちの一体性に基づく共同社会
馬場真光 (ヴェリタス総合研究所)

「よそ者」が「身内」になると・・・

私達は日頃、自分以外の人間を「身内」と「よそ者」というふうに分けて認識しがちですが、それまで敵のように見えていた「よそ者」が何らかの事情で「身内」になると、その人に対する受け止め方が全く変わってしまうことがあります。私自身、小学校時代のクラス換えや勤め先の他社との合併の時など、組織の組み換えに際して度々このような現象に直面し、相手の中身に変わりがないのにその人に対する受け止め方が変わってしまうのは一体なぜだろう?といつも不思議に思ってきました。


意識の中の境界線

アメリカの現代思想家ケン・ウィルバーは、自著『無境界』において、世界には「境界」というものは本来存在しないにもかかわらず、人間は赤ん坊から大人になる過程で自己と他者の境界線を意識の中でつぎつぎと狭めていき、それによって他者との緊張関係を増やしていく、と主張しています。このような意識上の線引きは自我の確立プロセスとして重要なのですが、同時に人間を苦しめる源泉ともなり、人間は、自他の境界が幻想にすぎないことに気づくことによって、はじめて全体性を取り戻し平安を得ることができる、と彼は説きます。

本来境界は存在しない、ということは、あらゆるものが一体であるということです。「いのちは一つ、人類はみな家族」などとよくいいますが、次のような事実に照らせば、これが単なるキャッチフレーズでないことがわかります。

①ビッグバン理論によれば、宇宙は原初の大爆発によって生じ、そこからすべての物質や生物が分かれてできたとされます。これは、すべての生命は元をたどれば一つであることを示しています。
②生物学的にも、ミトコンドリアDNAの解析によって、約十二万年から二十万年前に存在したアフリカの一女性(ミトコンドリア・イブ)が人類全体の共通祖先であるということが判明しています。
③人間はふつう自分のことを皮膚に囲まれた身体に収まった人格だと思っていますが、皮膚と外界の間には「境界」そのものを構成する物質は存在せず、身体と空気を構成する原子が互いに接しあっている状況があるだけです。
①そもそも原子は私達がイメージするような粒ではなく、細かく分解していくと最終的には波動になるといわれています。この世界の真の姿が多くの波動が響きあっているものだとすれば、そこにいかなる境界を見つけることも不可能です。


脳科学の発見

こうした事実から、私達が通常信じている自他の境界というものはあくまで意識が作り出したものであることががわかります。この点に関し、最近脳科学の分野でも興味深い報告がなされています。サンドラ・ブレイクスリー他著『脳の中の身体地図』によれば、人間の脳には身体の各部位に反応する神経細胞がそれぞれかたまって存在しており、それをもとに脳の「ボディマップ」を描くことができるのですが、この「ボディマップ」には、自己の身体外にある様々な存在(た
とえばスポーツ選手にとってのラケットや競技場全体、コートを走るチームメートなど)までもが自在にマッピングされるというのです。つまり、脳には自己以外の存在をあたかも自己の一部であるかのように感じ取る能力が備わっているのです。また、自己という認識自体、脳に入力される様々な情報が適切に統合されてはじめて生じうるものであり、「自己」という存在は本来錯覚にすぎないといわれています。


社会問題の深層

「境界」とは錯覚であり、すベての存在は本来一つのいのちであるとの理解が一般に広がってくると、社会にどのようなことが起きるでしょうか。その場合、様々な経済問題に思いもよらない解決の道がみえてくる可能性があります。

例として、昨今懸念されている格差拡大の問題を取り上げてみましよう。世の中にはなぜ貧富の格差が存在し、さらには拡大していくのか? こうした問題はふつう本人の努力の問題だとか、制度に不備があるといった観点から議論されますが、深層にはやはり人間の境界意識が横たわっていると考えられます。すなわち、現代社会では、自分と他者を隔てる境界意識かあまりにも強固であるため、「自分の物」を他人に分け与えるということが自然には行われにくくなってしまっているのです。こうした状況は、常識的には当たり前のように思えるでしようが、その「常識」は、実は先に述べたような分離の錯覚によって支えられているのです。


生命的な物流原理とは

では、いのちの一体性が常識になり、物資が自然に流通する社会というものを考えることはできるでしょうか。
そのような「社会」のミニュチュア版は人体です。人体内の臓器はお互いに自我を主張し、栄養分を独占したりすることはありません。生命の法則にしたがい血液循環を通して必要な養分が必要なところに流れることで、人体はつつがなく活動することができています。

いのちの一体性が実現している社会のもう一つの例は家族です。家庭の中では概ね必要な物が自由にやり取りされます。特別な事情がある場合を除き、家庭内の日常の物のやり取りに代償が要求されるという話は聞きません。

それでは、社会経済全体がこうしたいのち一体の原理にしたがって運営されることはありえるでしょうか? それは社会のメンバーの意識次第です。無償で他人に物を分け与え続けては、自分の生存が危うくなるとの心配が生じるかもしれませんが、生命の原理に従えば、一時的に不足が生じても、別のところから必要なものが補われるのです。そのために必要な条件は、不足に関する情報が共有されること、そして物資を輸送する手段が存在することだけです。現在の宅配サービスの隆盛にみられるように、社会にそうした仕組みを作ることは技術的に難しいことではありません。

社会に経済的安定をもたらすには人道支援のような緊急措置とともに制度自体の改革が必要ですが、より根本的には、社会が一つのいのちであるとの認識にもとづく流動的な物資流通の原理(これを仮に「生命的な物流原理」と呼ぶことにします)か確立されることが最も重要だと思われます。


貨幣の要らない共同社会

興味深いことに、生命的な物流原埋が支配する共同社会では、貨幣というものさえ不要になる可能性が高いです。
 
貨幣のもつ機能には、①価値交換機能(物々交換では成立しにくい取引を貨幣が媒介となって実現させる)、②価値尺度機能(物の持つ価値を数量的に示して物と物との交換比率を決める)、③価値保存機能(物のままでは滅失してしまう価値を、将来の交換取引に使えるよう保存する)の三つがあるといわれています。

これらの三つの機能はいずれも(等価)交換という行為を前提としたものであるため、貨幣とは(等価)交換が取引の前提となっている社会において役立つ道具である、ということがわかります。

ところが、いのちの一体性が実感され、生命的な物流原理が浸透した社会では、等価交換そのものが行われません。そのため、貨幣の三つの機能がすべて無意味となります。実際、私が以前訪れた「アズワンコミュニティ鈴鹿」(三重県鈴鹿市)という生活共同体では、過去、独自の地域通貨をつくって流通させていた時期がありましたが、世帯間の家族的意識が深まるにつれて、取引のつど金額を記録するのが「だんだん面倒になり」、今ではその通貨は廃止され、様々な農産物が自発的に提供され、持ち帰られる商店が登場しています。いのちの一体性が浸透した社会で貨幣が不要となる証左でしょう。
 
貨幣の要らない共同社会とは、反文明的な社会でしょうか? 自然に近い場所で無農薬の野菜を育て、人と物を分け合いながら安心した共同生活を送る。そんな社会のイメージを原始生活への退歩であるとみる人もあるかもしれません。しかし、便利な技術をあえて排除する必要はなく、技術のもたらす影響を理解しつつ適切な選択を行っていけばよいのです。

「すべてのいのちは一つ」という新しい常識のもと、人々が技術の恩恵を受けつつお互いに貢献しあい、物資が自然に流通する社会。それを実現するための一番の鍵は、私たち人間が過去何万年もの間育んできた強固な「境界意識」を少しでも弱め、すべてのいのちが一つであることの実感を深めていくことにあると思われます。
- | -