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大きな家族のような暮らし

今回は、最近のコミュニティの出来事から、
ここの暮らしの一端を紹介したいと思います。



以下、宮地さんのブログ「かたつむり・つれづれ」より抜粋。
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江口さんが、肺がん手術で1ヶ月ほど入院していて、退院してきた矢先、
奥さんの公子さんが乗っていた自転車が転倒して、左大腿骨の関節を骨折した。
人工関節を入れることになり、今度は公子さんが入院。
江口さんが一人、家に残されることになった。
周囲の人たちもぼくも、退院してきたばかりの江口さんの暮らしのことを考えた。
公子さんの希望。
「父ちゃんは一人で暮らすのは、ご飯も作れるし心配していないんよ。
 ただ、人に接することがなくなり、
 家に籠もるような感じになるのが、ねえ…」



ご近所の奥さま方が何やら談合して、江口さんのところに出かけていって、
ご飯を作って食べる日や、何軒かのお宅にいって食べる日が、
いとも簡単に決まったらしい。

わが家は火曜日。
妻はあったりまえのように江口さんを受け入れていた。
「あんた、ご飯よ!」

妻の采配で、テーブルにつくという雰囲気。
江口さんも、寛いで食事をしていた。
「うまかった、もう行くわ」
江口宅とぼくらの家は歩いて3~4分。

ちょっと、描いてみたら、
江口さんにとっては「離れ」で食事してきたとも言えないかな。
あと何軒かの家もそんなふうじゃないかな。


妻は、最近何か変わってきている。
「江口夫妻と伊藤夫妻、夕食に呼んでもいい?」と妻。
「・・・・(エッ)、・・ああいいよ、小浪がそうしたいなら」とぼく。

今までの感じは・・・、
「この人、夕食に呼びたいんだけど」とぼくが言っていた。
すると妻は、「えっ、いつ?」と聞き、
その後、「うーん・・・」といろんな都合が出てきていた。
時には、「自分中心なんだから」みたいなこともつぶやいたり…

それが、小浪の中で何が起きているのだろう!?

水曜日は、若い人たちが食べにくる。
来る来ないは、一人ひとりだけど、来たときは”我が家”にいるような、そんなふうじゃないかな、というように、寛いでいる。

自分たちの気の置けない話題でおしゃべりしたりしている。
「小浪さん、これ美味しいっすよ!」
思いついたように言ったりする時もある。

ああ、いまマンションの玄関チャイムが鳴った。
出て行くと、2階の純奈ちゃん。
「車、借りたいんだけど・・・」
妻、車で何処かに出かけている。
「じゃあ、連絡してみるね」
ラインで小浪を呼び出すも、出ない。

使いたい時間までは1時間ほどある。
「もう少し連絡とってみるので、それまで待って」
繋がらなければ、いかなスマホも便利とはいえない。

「電話に出ないことが。たびたびあるんだよなあ。」
と、ぶつぶつ思っていたら帰ってきた。
スマホを車のなかにおいて、畑で作業していたという。

どれも、これも、人と人の間でいろいろな気持ちが起こり、
それぞれが何かをしている。

その時に、遠慮や気兼ねみたいな、こころの状態があると、
なんか窮屈だろうな。
なんでも言い合えるお互いだと、楽だろうな。

育って来た過程を振り返ると、そうじゃない方で固まって来ているのを感じる。

何があたりまえか、何度でも自分の心の健康正常について観察していきたい。


このブログ、かたつむりつれづれ。
「ぼちぼち」、「あちこち」、と言う感じもあるよね。

何日か前に子どもの詩を読んでた。
そこから、こんな日々のこと、だらだら書くことになった。

  あたりまえのことが          小五 女

  食べられること
  ねむれること
  学校へ行けること
  友達と遊べること
  家族と話せること
  大人が仕事すること
  健康で安心なこと・・・・
  それはあたりまえだった
  それが幸せに変わった

  平成七年一月十七日

  阪神大災害が私に残したこと

どんなことを当たり前と言うんだろう?
3・11以後、この辺、とくと、じっくりしらべたい。
そこが違ったら、まったく違うものになってしまう感じがして・・・

それが幸せに変わるんだったら、尚のこと・・・・
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