コミュニティ歳時記2月号 【私の中にその人が生きている】

頬を刺すような感触で目が覚めた。
元旦の朝のことである。
何事かと、布団の中から辺りを伺うと、隣の居間のサッシが全開になっている。
何やら音のしている方を見やると、兄が床を丹念に磨いていた。
「あっ、和貴くん、目覚めちまったか!どうもこの家はいつも住んでないからか、汚れていていけねえ・・・」
そう言いながら、兄の手は止まることなく、台所の方へと進んでいく。外気温は-10度。
昨日から、兄と僕は高齢の両親の様子を見がてら正月を過ごそうと、生まれ育った信州・松本に来ている。
僕の長男・正和と次女・和夏菜も来るというので、市内で両親がやっている会社兼自宅からは、車で10数分離れた山の麓にあるセカンドハウスに泊まることになったのだ。
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暫くして、両親もやって来た。ずっと家の中の掃除をしている兄を見て、母は、
「まったく正月の朝っぱらから掃除をしてるなんて笑われちまうぞ。どうもこの子は偏っていていけねえ。」
と呆れている。
昼には皆で御節を戴いたり、その後僕と子ども達は抜けるような青空のもと、北アルプスが望める展望台に行ったり、神社にお参りしたり、夕方には初風呂を美ヶ原温泉でと愉しんで、夜にまた鍋を囲んだのだが、どうも和夏菜の調子がおかしい。最初は、
「鼻が出てきて、折角のご馳走なのにちゃんと味がしない」
と笑ってボヤいていたが、咳も出てきて、医者をしている兄が触診すると、熱もあるし、コロナかインフルエンザに感染した可能性もあると。
「え~、おじいちゃんおばあちゃんがコロナに罹ったら大変だと思って、来る前日にPCR検査、当日に抗原検査もしてどちらも陰性だったのに~。」
と和夏菜。
兄の指示で、鼻腔用の検査キットを買いに正和と車を走らせる。日中は開いていたドラッグストアも、夜はどこも閉まっていて、街中探してようやく一軒見つけた。
「元旦の夜までやっていてくれたんですね。ホントに助かります。」
とつい口から言葉がこぼれる。

果たして、インフルエンザは陰性、コロナ陽性だった。
和夏菜は、すぐに部屋に隔離。あとは全員濃厚接触者に。
兄も僕も3日には帰る予定にしていたので、それぞれ対応が始まる。
特に兄は、すぐに勤務する病院の当直の先生に電話を入れ、4日以降の手術の延期などを手配していた。
1月3日、兄が全員の検査をして、みな陰性。
1月4日、この日陰性なら正和は電車で帰れるということだったが、検査の結果は陽性。
両親も陽性だった。僕と兄は陰性で、両親と子ども達、二箇所の隔離生活を看ることになった。かかりつけの病院に連れて行き、陽性証明をもらったり、保健所と連絡を取ったり、食事など生活面のサポートをしたり、やることは結構ある。
結局、僕と子ども達が帰れたのは、12日。
高齢で基礎疾患もある両親だったが、ワクチンのお陰もあってか重篤な状態にはならず乗り切ることが出来た。
兄は、これ以上患者さんの手術を延ばすわけにはいかないと先に帰った。


図らずも1週間兄と、2週間両親と過ごすことになった。おそらく、高校生以来のことだと思う。毎日、兄と食材を買いにスーパーに行った。
「この47円の水戸納豆にしよう、安くて美味しそうだから」
とか言いながら買い物をする。こんなのも小学生の遠足の前日に、おやつを二人で買いに行った時以来だろう。
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家には、僕らが子どもの頃に作った戦車や飛行機のプラモデルがガラスケースに陳列されてあった。どれがどちらの作ったものか一目で分かる。
兄のはどれも精密精緻、趣向を凝らした独自の塗装までしてあって、今にでも動き出しそうなリアル感を放っている。僕のはと言うと、あちこち取れていたり、壊れていたり、作り殴った感が否めない。
学校の自由研究でも、兄はマウスに食品添加物を与える実験をして解剖したり分析したりして県の科学賞を取ったのに対し、僕はその真似ごとをするのだが、まともな結果を出したことは一度もなくいつも中途半端。
高校まで同じ学校だったから、定期テストは兄のを引っ張り出して一夜漬けすると、似たような問題がよく出てきて、その時だけいい点は取るけど、実力は全然付かず。
1歳4カ月、2学年上の兄をいつも追いかけて、追いかけて、・・でも追い付けず。
毎日淡々とコツコツと感情の起伏無く・・・優秀な人というのは、こういう人なんだろうなと、自分には到底成れないけど、そんな兄が誇らしくて自慢ばかりしていた。
兄が医者になると知った時、こういう人にみんな診てもらいたいだろうなと思った。

兄が先に帰った後、アルバムなどの整理をしていたら、高校時代の兄の内申書が出てきた。
受験する大学に提出する筈のものが何故そこにあるのかは謎だが、殆どオール5の最後の所見のところに、
『温和で明るい性格・・・・・・(ずっと素行の良さなどが続いて)・・・・・。ただ几帳面なところ有り。』
と書かれてあって、思わず笑った。
何十冊ものアルバムの中には、兄と僕が一緒に写っているものもたくさんあった。
兄とは、16歳までずっと同じ部屋で暮らしていたから、両親よりも誰よりも密な時間を過ごしてきたんだなと改めて思う。
家の中、庭で、公園で、親戚の家で、旅行先で、いつも二人で並んで写っている。
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撮っていたのは、母か父が圧倒的に多いだろうが、どんな思いで僕らを見つめてカメラのシャッターを押していたんだろう?
僕はいつも兄のように上手に丁寧には出来なかったけれども、両親から兄のように成るようにと強いられたり責められたりした記憶が一切無い。
見事な兄のプラモデルと、壊れかけの僕のプラモデルを並べて愉しんで鑑賞するように、それぞれ異う兄と僕を、見続けている目。押されたシャッターの数はたかだか数百くらいかもしれないが、親の瞳のシャッターは無数に押されていたのだろう。
そしていつも隣に居た兄は、離れて暮らすようになった今も僕の中で生きている。

大人になって、兄に叱られたことが一度だけある。
4年前、和夏菜が大学のサークル活動でウガンダにボランティアに行った時のこと。
息も絶え絶えの電話が本人から入り、遠隔で兄に診断してもらったら、特定の抗生剤を投与しないと死に至るとのことだった。
その時和夏菜はウガンダの農村部にいたから医者も居ないし、病院もないし、僕はなんとかしなくては、ウガンダでその疾患に対応可能な病院を探さなくてはと、必死になっていた。分からないことも多く、兄に何度も連絡を取っている中で、病院の事務の方に兄の診察中にまで電話を繋げてもらおうとした。
「和貴くん、気持ちは分かるけど、患者は和夏菜一人じゃないんだぞ!」
と一喝され、暫く待っているように諭された。
結局兄がその抗生剤のデータを先方の病院に送ってくれ、現地のスタッフの人が何時間もかけて和夏菜を病院まで搬送してくれて事無きを得たのだが、僕にとっては、何十年も一つ一つの命と向き合ってきた兄の仕事に対する厳しさ・人に対する優しさを知る機会になった。子どもの時には見ることの無かった兄の姿だった。
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2週間ぶりに鈴鹿に帰って来ると、いろんな人から、おかえり! とか どうだった? と声を掛けられた。両親や子ども達のコロナ対応していることは何人かの人にしか連絡していなかったから、ちょっとビックリ!
月に一度か二度しか会わないような人からも、ご両親大丈夫なん? と訊かれたりするとなんか不可思議な気分。日頃殆ど話すことのないアカデミー生からも、松本どうだったの? の問いかけに“何でそこまで知ってるんだろう?”と頭の中に疑問符が並ぶ。
鈴鹿コミュニティでの情報伝達システムというのはどうなっているんだっけ?
以前、“ここでは噂話とか噂が広まるとかって全然ないよね、なんでだろう?”というようなことが話題になったことがあった。最近は“噂”というもの自体聞くこともなく、ほど遠く感じていた。
でも、それとは裏腹に“お互いの存在をどこかで感じ合っている”といったことがあるのだろうか? “あの人最近見ないけどどうしているんだろう?”みたいな。
お互いの中に、うっすらとでもその人が生きているような。
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偶々、鈴鹿ツアーに来た人たちの懇談会に出た時、参加者の一人から、
「それだけコミュニティが家族のような親しい関係になると、もともとの家族とはどうなっちゃうんですか?」
と尋ねられたので、2週間のコロナ対応生活のことやら話したのだが、もともとの家族もコミュニティの大きな家族も、どこからどこと切れるようなものは僕の中には何もない気がする。
ただ、わざわざ今鈴鹿で何をやろうとして活動しているのか、暮らしているのだろうかと、自分の方に問いかけの矢が向いてくるようにも思った。


お馴染みの木1ファミリーのミーティングの中で、敏美ちゃんがこんなことを言っていた。
「ミーティングをしてて、なぜだか分からないけど、何度となく自分の父と母の姿が浮かんでくる。
言葉で表すと、私や弟妹に自分のすべてを注ごうとしているような姿かな。
何々してくれたとか、そういうのじゃない、その元にあるものなのかな?
なぜだか浮かんでくる。
私も出産した時、生まれてきた子を抱きかかえながら“よく生まれてきてくれたね~”って、すべてを注ぎたい愛おしさが湧き出てきた。おっぱいが自然に出てくるように。
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いつの間にか私の中に親の姿が宿っているのかな?
2人とも随分前に亡くなっていて、もう私は両親が亡くなった時の年齢を越えてるんだけどね、私の中に親の姿があるみたい。
それが、本当の親の姿かどうかは分からないけど。
今、チェリッシュの子ども達に水泳を教えてるんだけど、その時自分の持っているものすべてを注ぎたい~って、それが湧き上がってきてしまう。
不思議だけど・・・」
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自分は生きているんだと
偉そうに思ったりするけど、
生きているのは、
生かされている。

私の中に、その人が生きている。
たくさんの人が生きている。

好きとか嫌いとか、
良いとか悪いとか関係なく
私の中に宿っている人、人、人・・・

私の中の、その人と生きている
私の中の、その人で生きている

人って面白い
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コミュニティ歳時記新年号 【委ねている】

冬の日、日曜日の朝になると身支度をして美鈴湖に向かう。
標高1000m程のところにある小さな湖で、遠き少年時代、そこは僕らの“冬の庭”だった。
12月に入ると地方新聞の片隅に、美鈴湖はじめ長野県中の湖の氷の厚さが表記され、○△×で滑走の可不可を伝えてくれる。うろ覚えだが、12㎝辺りがボーダーラインで、早くそこを突破してくれ~~と毎朝、新聞を捲っていたのを思い出す。
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大概、行きは松本市街からバスに乗っていく。
松本駅が標高600m弱なので、およそ400m登っていくのだが、途中浅間温泉からは急勾配が続く。七曲り、九十九(つづら)折りのカーブでは車が減速するので、眼下に広がる市街地がゆったりと望める。生まれて初めて雲海というものに出くわして子ども心を揺さぶられたのも、この山道だった。
終点が近づくと、もう既に氷上で滑り始めている子ども達や、ワカサギ釣りをしている大人達の姿が目に入ってきて、心は一足早く湖の上に降り立ってしまう・・・・・

かつてはそうやって毎冬30cm以上の氷が張り、冬季国体の会場にもなった美鈴湖も、近年殆ど氷は見られなくなり、もちろんスケート場も無くなり、そこに向かう子ども達の群れも途絶えてしまった。
その当時に比べれば、今はずっと暖冬なのかもしれないが、ここ鈴鹿コミュニティでも冬の暮らしが始まっている。
「おーい、灯油缶の数、幾つくらいになってる?」
毎週金曜日の午後1時くらいになると、決まって恩田さんがインフォメーションに顔を出し、尋ねてくる。
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「今のところは、20缶くらいかな、もう一度確認のメール、グループラインに流しておこうか。」
と奈々ちゃんが応え、追加注文が幾つか入って、午後3時に締め切り。
そこへ恩田さんがもう一度やってきて、みんなからの注文票を持っていく。
そして、翌土曜日の午前中に、各家の玄関に20ℓタンクいっぱいの灯油が届けられる。
灯油ストーブは電気やガスに比べて燃費はよいが、一人ひとりが灯油をガソリンスタンドまでいちいち汲みに行ってとなると、継続していくのは現実的でないだろう。
恩田さんのようにそこを担っている人が居ることで、何年も続いてきたし、成り立っているとも言える。
また、そこを専門でやることで、どこから購入したらよいか、どんな風に運び届けたらいいかなど、様々な工夫が生まれ、愉しみも湧いてくる。或いは、「誰々さん、灯油の注文来てないけど、忘れてないかな? 暖かく暮らせているかな?」と、灯油一本からお互いの暮らしを見合っていける。


「私、浴室を暖めるストーブがあったらと思うけど、どう思う?」
と雅子さんが尋ねてきた。
「鈴鹿市から贈られてきたギフト券があって、あそこの家電量販店なら使えるのよ~。それで買えたらいいなあと思って。」
雅子さんはコミュニティの中の木1ファミリーで一緒なのもあって、なにかあるとよく相談に来てくれる。先日も“寝ながら読める書籍スタンド”なるものを一緒に購入して、寝室に取り付けに行ってきた。何年か前に亡くなった伴侶・小倉さんの写真が枕元にあったので、思いがけず拝むことも出来た。
どういうのがいいかなと二人でネット検索して、感電の恐れとかない、このハロゲンヒーターがイイね!という話になり、じゃあ午後から行ってくるねと雅子さん。
数日後、どうしたかなと気になっていたら、木1ファミリーのミーティングで、
「・・・というのでヒーター買いに行こうと思ったんだけど、体調がイマイチだったから行くのやめたの。まだ、とっても寒いってわけじゃないから、いつまでストーブ無しでいけるか、やってみてもいいかなって。」と。
ファミリーメンバーからは、我慢しなくていいよね~とか、十分買う資格あるよ~とか、声もかかっていた。
その翌日、この冬最強の寒波が来ます! とかウェザーニュースで流れてきたのもあり、
“雅子さん、一人で買いに行くの億劫かな。やっぱり、一緒に電気屋まで行こう”
と思い立ち、連絡取り合って、車を走らせた。そういえば病気の治療に定期的に通うようになって薬の副作用があったり、免許も返納したりだったもんな、この間。
行ってみれば、もう買うモノを決めていたのもあって、ものの10分で終了。すぐに部屋まで運んで設置して使えるようになった。
二日後に出会った時、雅子さんから声がかかった。
「たった5分点けただけで、浴室暖まっちゃった。寒波来てても全然寒くなかったよ。」
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コミュニティで暮らす日本画家の岩田さん。
毎晩、斜め向かいの本山家にお風呂に入りに行っている。
キッカケは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の治療の一環で、寝る前に首や肩にシップを貼るのが、自分でやれなくなったこと。最初はシップだけ貼ってもらいに行っていたが、なにかその為だけに夜遅くに本山さんや照子さんの手を煩わすのもなあと躊躇する気持ちが岩田さんの中に出てきたみたいで、行ったり行かなかったり。その話をみんなの中に出した時、
「だったら、もうお風呂から入りに行って、最後にシップ貼ってもらったら?それで、洗濯ものも置いてきたら、照子さんも喜んで洗ってくれるよ。岩田さん、自分の家のお風呂、用意したり片づけなくてもよくなるし、洗濯もしてもらえるし~」
と小野さんが思い付いて、もうそこから半年、岩田さんの“本山家の暮らし”が続いている。

本山家の風呂に入りに行くと、
二人がこたつでテレビを見ていたりする。
僕が上がると湿布を貼ってもらい、
照子さんが肩を揉んでくれて、
一緒にテレビを見る。
とても気持ちのいい時間です
昨日はクラシックギター奏者の演奏に
聴き惚れた。
今日は、本山さんとユーミンデビュー50周年の
番組を見入った。
本山家でのちょっとした時間だけど、
そこで暮らしている感覚があって、
Diningの暮らし、Joyのある生活、
ミーティングのある暮らし、
みたいに、僕の中では、本山家の暮らしがある感じ
それで言うと、子どもたちとのお稽古の時間や
大人のお絵描きも、暮らしの中にある感じがする。
僕は何を暮らし、と表現しているのかな?
たぶん自分一人ではなく、そういう場や営みの中に
自分もいて、何かを一方的に受けている感じがする
満たされる場といえばそうだけど、
自分が、というだけではないものがある
そこに身を置いている
委ねているってかんじ?

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時々、この歳時記を読んでくれている人から、こんな問いを発せられることがある。
「歳時記を読むといつも温かい空気を感じるけど、コミュニティで一緒に暮らしていて、葛藤とか対立とか無いんですか?」
僕らは一人ひとり聖人君主でもないし、よくできた人でもないし、未熟で至らないことばかり。ミスやら失敗やら間違いも頻繁にあるし、そんな時、今までのクセや回路で相手を責めるような意識が頭を擡(もた)げることもある。
でも、そんな時、間違い無からんとして一緒に仕事に励んだり、暮らしているお互いなんだなあと見えてくると、“責める”ってことが明らかにその場にも自分の心持ちにも合わない、普通じゃない異常なこととして浮かび上がってくる。恥ずかしくなる。馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。
責めても頑なになったり隠したりしがちで問題の解決にはならないとか、やりたいのは責めることじゃなくて間違いの原因を究明することとか、理論的にもそうかも知れないけど、理論とか理屈よりも、“責める”ということが自分や社会にしっくり来なくなってきているなあ、というのがここで暮らしてきての僕の実感で、なんか自分の内や周辺から段々と消えていっているような・・・


美鈴湖から帰り道は、小学校の高学年になると、ほとんど歩きへと変わる。
誰かがそう決めたわけではないのだが、なぜかそうなってくる。
午後まで腰が立たないくらいに滑り倒して、そこからの下山。
仲間たちと子どもだけで、時には一人で。
これがまたチャレンジングで、曲がりくねった車道を戻る気は毛頭なく、獣道やら道なき道、崖なんかを滑り落ちながら下っていく。毎回新しいルートを開拓しながら。
家のある市街地まで15km程ある。今にして思うと結構な距離だが、やる前にあまり頭で考えず上級生の真似をして即やっているだけなので、大変だとか疲れるとかが出てくる余地がない。
時には怪我をしたり道に迷うこともあったが、山畑で農作業をしているおばさんと遭遇して、大根引き抜くのを手伝って、一本お土産にもらってきたり、浅間温泉の町中みんなが玄関先に繰り出して、野沢菜を漬けているお祭りのような日に偶々出くわして圧倒されたり、何かしら面白いことがあるので、また次も歩いて下山しようとなる。
夕方、家に着くと、そんな道中を知ってか知らずか、両親はいつでも涼しい顔で迎えてくれていた。
今のご時世なら、山道の安全面がどうだとか、子どもだけでは心配だとかなりそうだが、そういうことが容易(たやす)くやれる街の雰囲気というか社会土壌があったということだろうか。
その時その地で普通に暮らしてさえいたら、誰もがそうなっていける。
そこに親も子も、一切の疑念無く委ねられることの仕合せ。
“委ねている”とかいう意識すらない心の状態。


10日ほど前、
『只今、金4ファミリーでキムチ仕込み中~』
というメッセージと写真が直絵ちゃん純奈ちゃんから流れてきた。
今コミュニティには、韓国から来ているフンミとジンちゃんが居るから、彼女たちの監修のもと、金4ファミリー総出で本格的キムチ作りがスタート。
フンミの家の前でやる予定だったけど、あいにくの雨で台所やらリビングやらお風呂やらに広げての作業になったみたい。
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サラとウミとハルと一緒に、フンミの家に行くと、
玄関先にファームから沢山の野菜コンテナが届いていた。
ジンちゃんと居間のテーブルを運び出し、
広いスペースになった地べたにシートを広げて、まな板や包丁を用意した。
なんか韓国っぽい!、年末感がジワジワ~と。

円ちゃんと彩ちゃんがジンちゃん指導?の元、
大根、白菜、玉ねぎやらを運んで準備し始める。
拓也君もスライサー持参でやって来て、大根をガンガンすり始めた。
日頃お弁当やさんで仕込みをしているからお手の物かな。
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フンミとジンちゃんは時折ハングルで打合せしながら、
集まってくる金4ファミリーメンバーに色々と伝えていく。

9歳のサラはすぐに手伝いたいと、
フンミを横目で見ながら台所で一緒に下ごしらえ。
その姿は子どもの学び舎での感じ、そのまま。
よーくフンミを聞いてやってた。たぶんニンニクとかすってたかな。

ハルとウミはしばらく遊んでたけど、お手伝いしたいーとなって、
私とハルで小林家に子ども用の包丁を取りに。
それから円ちゃんが、ハルとウミが野菜を切れるように準備をしてた。
・・・
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フンミとジンちゃんの豪快な動きに惚れ惚れする感じ。
野菜にバンバン、キムチの種?タレ?を
混ぜ込んで、すり込んで、大袋に入れていく。
来る人、来る人に、「味見する?」
と口に放り込む空気感、なんだか懐かしい。
葉物野菜を洗おうかと、キッチンの台所だけじゃ所狭しなのか、
外で洗い出す二人の姿は圧巻。
・・・


やがてたっぷり漬けられたキムチは、専用冷蔵庫の中へ。
人から人へ、親から子へ、引き継がれるもの。
こんな光景もコミュニティの年末風物詩になっていくのかも知れない。
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どの時代も、どんな土地でも、子どもたちは、ただただ委ねて生きているだけ。
その社会に、そのコミュニティに、その親に、その人たちに。
だから子ども達は輝きを放つ、純粋無垢に生きられる。
そのまま生き通せたら、疑念やら警戒やら生じないのが当たり前なんだろうな。
そこに何かの影響で抵抗とかが出てくると、どんどん狭い狭いトンネルに入り込んでしまう。そういう複雑なものが人生かのように思い違いしながら。
しかし大人だって、実は委ねているんじゃないだろうか。
どんなに意識は抵抗していても、生きているってことは委ねていることの現われ、委ねているからこそ生きられる。
もっと暮らしの実際が、生きていることの実態が明らかになってきたら、ツマラナイ“抵抗する意識”も自ずと雲散霧消していくかな。委ねたくなっちゃうかな。サラッと。
生きとし生けるもの、みな委ねて、委ね合って、この世界を生き、よりよい明日を共に創り合っている。微生物も植物も昆虫も動物も、そして人間も、絶妙に関連し合いながら、それぞれのやり方で、それぞれのペースで。そんな無数の命の動的調和が脈々と流れ続けている。勝手な人間の考えを笑い飛ばすように。
そこに、そういうお互いに“責め”など有る筈がない。
無限の中の、一粒の私、一滴(ひとしずく)のコミュニティ。
だが全部繋がっている。

さあ、明日から新しい年。
どんな一歩を踏み出そう?
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コミュニティ歳時記12月号 【Prelúdio】

鳥籠の扉を開けると、2羽の文鳥が徐(おもむろ)に顔を出し、部屋の中に飛び立った。
ついさっきまで、食事をしながら言葉を交わす僕ら6人を、籠の中から時折、首を傾げながら観察して、微かな囀(さえず)りで呼応していた2羽が、今僕らの輪に加わった。
どういう訳か、Antjeがお気に入りのようで、ずっと彼女の手や肩や頭に飛び移っては、一緒にドイツ語でお喋りをしている。
「この子たち、2羽とも男の子だからね。」
と照子さん。
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Diegoは、声を掛けたり、手を伸ばしたりして、文鳥を自分の方に引き寄せようとするけど、彼らの関心は専らAntjeと隣のAlexのようで、Diegoの思うようにはならない。
「本山さん、あのクラシックギターどうした?」
不意にリビングの壁にかかっているギターを指差してDiegoが尋ねる。
「あゝ、拓也が使わないというのでもらってきた。Diego弾いてみる?」
そう言って、本山さんはギターをDiegoの手元へ。
「よし!弾こうか。ギターの音色にツラれて、彼らも僕の方に来るかもな!」

「エイトル・ヴィラ=ロボスのプレリュード1番弾けるかい?」
突然の本山さんからのリクエストに、調弦をしながらDiegoが軽く頷く。
演奏会が始まった。
不覚にもヴィラ=ロボスの名前は知らなかったが、Diegoの指先から繊細な音が爪弾かれると、確かにどこかで聴いたことがあるなあと脳が即座に反応した。
「僕が中学2年生の時に、大学生の従兄弟がこの曲を弾いてくれてね。僕はイチコロにやられちゃったんだよ。」
本山さんの瞳が輝く。ロボスはブラジル出身で、クラッシックの技法にブラジル独自の作風を取り入れた20世紀を代表する作曲家。
フレンチホルンの名手・Alexも、ヴァイオリンと共に育ってきたAntjeも、文鳥たちも暫し囀りをやめて、軽やかに踊るDiegoの指先を見ながら聴き入っている。
そして僕の脳裏には、Diegoの5年間が静かに流れてくる。
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今年の春、5年ぶりにブラジルの大地を踏んだDiegoのことを4月号の歳時記でも少し紹介したが、その後また日本に戻ってきて、ここでの研修や暮らしを続けていた。
9月にスイスから研修に来たAlexとAntjeの受け入れも僕と一緒に担当して、この3か月ずっと一緒に過ごしてきた。そして愈々、20代後半からの5年余りの学びと実践の日々に区切りをつけ、明後日・11月28日再び日本を発ち、これからはブラジルを拠点に生きていくことになる。Diegoにとっては、人生の次のステージへと踏み出す日。
“Diegoの5年間”、あんなことあったな、こんなことあったな、あの場面でのあの人からの一言、涙を堪え切れなかったあの時、こんな人たちに受け容れられ、こんな機会にも恵まれたな・・・浮かんでくることは数多(あまた)あるが、僕の頭の中にあるそれらをテーブルいっぱいに並べたところで、この5年間を表すことは到底出来ない気がする。
果たして、どれだけのものが、Diegoに注がれてきたんだろう?
周りの人から、モノから、社会から、自然から、見えるところで、見えないところで・・・
実のところ、何にも分かっちゃあいないなあとなってくる。
ただ、その5年間の総体が、Diegoの中に厳然とあるし、僕の中にもあるし、共に暮らす皆の中にもある。だからDiegoがブラジルに行くと言っても、離れていく気が全くしない。自分の一部が行くような、自分自身が一緒に連れられて行くような不思議な感覚がある。
どこにも“別れ”がない。
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韓国から3か月の研修に来ているグムちゃん。
パートナーのドンハと、2歳の息子ソンギョルと、もっと長期で鈴鹿コミュニティでの研修を続けたいと思っている。
ただビザの関係でいろんな制限もあり、どうしたものかと思案中。
その中で、ソンギョルを韓国で誰かに見てもらって、その間グムちゃんとドンハが日本に来たらどうかという案も出たらしい。でもグムちゃんは、
「韓国にはとっても親しい友人もいるからソンギョルを預けることも出来るけど・・・何故かは分からないけど、このまま鈴鹿コミュニティにソンギョルを預けて、私たちが韓国と日本を行き来した方が安心な感じがする。韓国の友人のように、この人とはとても親しいって人が日本には居るわけではないのに。なんでだろう?」
と言っていたらしい。
グムちゃんの内面がそんな風になってきているのは、ホントどういうことなんだろう?
そのことが、AlexとAntjeとのミーティングで話題になった時、Antjeはこんなことを言っていた。
「今でも、ソンギョルが親と離れて暮らしている場面あるけど、ここの人たちは誰も“お母さん、お父さん居なくて大丈夫?”とソンギョルに言ったり思ったりしないね。でも世間では違うね、お母さん居なくて大丈夫?可哀想だね!と周りの人は、そういう目で見て言ったりするね。」
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ガイアユースなどに参加していた早稲田大学の桃ちゃんが、自身の卒論の中で、”第4章「つながり」という豊かさを育むコミュニティの事例”というので、アズワンのことを採り上げ書こうとしている。
桃ちゃんに限らず、ここ数年、卒論で書いてみたいと相談に訪れる大学生(なぜか今のところ全員女性!)が後を絶たない。
桃ちゃんとのやり取りで、初めて聞いた言葉がある。それは、
“Social Capital”
桃ちゃんが担当の教授に、卒論でアズワンの事例をこんな感じで書いてみたいと言ったら、
「それはSocial Capitalの事例だね。“社会関係資本”という観点から書いてみると良い。」
と勧められたのだという。お金とかモノではなく、社会関係・人間関係を資本と捉える見方があるんだと新鮮だった。
12月15日が締め切りとかで、ここ数回にわたってやり取りを続けているけど、桃ちゃん自身、ここで体験したことを通して、その実態を表してみようと、筆を進めている。


『どんなに良い原石や材料が豊富に揃っても、設計や施工を間違えれば、見た目に立派な建物も風が無くとも倒れて醜い姿を晒(さら)すだろう』
そんな趣旨の一文を目にしたことがある。
これは何も建物のことだけではないだろう。
“ヒト”という豊富な良材を、設計・施工するのは、“社会気風・社会システム”だろうか。
いかに優れた人でも、自分自身を設計・施工することなど出来ないだろう。
たった今も80億人を超えたという豊富な人材が地球上に揃っている。
これからも次々と生まれてくる原石・良材。
社会の気風やシステムが追い付いていない分、あたらその良材も、生かし切れていないとしたら、なんとも口惜しい。
ここまで来た人間社会。
その気風・システムを完全ならしめるための一つの端緒として、“Diegoの5年間”も“鈴鹿コミュニティの22年間”も世界の頭脳から研究され、使われることを願う。
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Diegoのギターに聴き入っていた文鳥だが、相変わらずAntjeとAlexからは離れない。
さすがにDiegoも自分の方に文鳥を引き寄せるのを諦めたようで、Alex達との会話に気持ちが入りだした。そうすると逆に文鳥たちは時々Diegoを訪れるようになった。
もうすぐAlexとAntjeもスイスに出発する。
彼らもまた、もっと鈴鹿で学びを深めたい、理屈ではなく本当に誰とでも溶け合える人になるために長期間、ここで研修したいと企図している。そして、自分たちに続いてヨーロッパからやって来ようとしている青年たちの顔が幾つも浮かんでいるようだ。
Diegoには“5年前の自分”と彼らが重なって見える。
AlexとAntje は、今のDiegoの姿に“5年後の自分たち”を見ている。
僕の耳には、Diegoが弾いていたヴィラ=ロボスの音色とリズムが響き続けている。
preludioはプレリュード、前奏曲。前ぶれ、前兆。その第1番。
この場面でのこの曲の何気ないチョイス、本山さんお見事!と言う他ない。
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今日の昼頃、ブラジルへ向かったはずのDiegoから電話が入った。
「サカイさん、航空チケットの名前の表記がパスポートと違っていたね。名古屋セントレアから成田までの国内線は大丈夫だけど、成田からの国際線、航空会社が乗せてくれるか分からないと言ってるね。どうしようか?」
意気揚々と出かけて行ったのだが、ちょっとビビっているようでもあり・・・
「今からチケットの買い替えも容易じゃないし、とにかく成田行って頼みこもっか。」
「分かった。ダメだったら、一度鈴鹿に帰るか。」
スマートに旅立ちたいところだが、最後まで何があるか分からないのがDiego。
どうなるか分からないのは、彼だけじゃない僕もだし、誰もがそうか・・・
それでも数時間後、この界隈でDiegoは乗れたのか?帰って来るのか?と賑やかになっていた頃、メールが来た。
「チェックイン、バッチリです。See you!」
添えられてあった写真には、主翼と雲海の間に雪を冠した富士山が薄っすら浮かんでいた。
今度こそ、本当に飛び立ったかな、Diego。
さぁお互い、次のステージへ!
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コミュニティ歳時記11月号 【Brother~家族の風景から】

早朝、お弁当屋さんに向かって歩く。
毎週金曜日のこと。
行き始めた頃は、照りつける陽射しが眩しくて、サングラスなしには歩けなかった。

決まって、同じ辺りですれ違う初老のジョッガー。彼の出で立ちも、半袖ハーフパンツから長袖ロングパンツにいつの間にか変わり、今朝はその口元から白い息が漏れていた。
変わらないのは街の静けさ、まだ寝静まっている家も多く、鈴鹿サーキットに続くメイン道路もまるで開放区のようで、信号機を気にせずどこでも横断できる。
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10分ほどで、お弁当屋さんに着くと、厨房では調理のメンバーが所狭しと動いていて、既に盛り付け室のテーブルには、“今日のごちそう”がズラリと並んでいる。
「おはよう~、じゃあ最初にハンバーグにソースかけて準備して~」
とルシオから声がかかる。
三々五々、今日のメンバーが集まってくる。程なくして、
「さあ、そろそろ、お弁当の盛り付け始めましょうか~」
そんなルシオの声に促されて、盛り付けラインの前にみんなが勢揃いする。

かずきbrother 、
弁当屋シフトを 毎日 立てていますが、
盛り付け 週一回 かずさん どーでしょ。
時間は 6時半~9時、
入って欲しい

こんなメールがルシオから来たのは、9月が始まった頃のこと。
僕が、
「何曜日がいいとかある?」
と返すと、
「毎日来てくれてもいいよ、へへへ」
と戯(おど)けるルシオ。
結局やり取りして、金曜日に。それから毎週行っている。
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ルシオはミドルネーム、正式には箕輪ルシオ省吾、ブラジルで生まれ育った日系2世だ。
お父さんの保助さんは長野県佐久から、お母さんの美恵子さんは東京から1930年代にそれぞれブラジルに渡った移民で、サンパウロ州の日本人コミュニティで出逢った。
保助さんの美恵子さんを愛でる純粋さと一途さが実り、やがて結ばれたという。ルシオはその二人の五男坊。
僕はルシオと縁があって、30年以上の付き合いになるけど、会えるのはたまに彼がブラジルから来るときだけで、まあ仲の良い友人というような間柄だったと思う。
それが“brother”扱いに昇格?したのは、ここ1年のことが大きく関係している。

去年の秋口は、まだルシオも日本に滞在している感じで、コミュニティの中でも子ども達の送迎とかサポート的なことをしていた。僕の家替え、引っ越しなんかもずっと一緒にやってくれていた。
それが、暫く日本で、ここ鈴鹿コミュニティで腰を据えてやっていこうとなり、職場も弁当屋さんになった。毎日の段取りは勿論、アカデミー生や実習生たちのことも受け入れるようになって、どんなお弁当を作り届けていきたいのか、お弁当屋さんをどんな職場にしていきたいのか、そんなこともルシオの口から聞くことが多くなってきた。

職場以外でも、彼の持ち味を発揮する持ち場に就いたり、それに応じた各種のミーティング機会にも参加するようになった。
僕は、日本語がそれほど堪能ではないルシオの付き添いで、銀行や公的機関に行ったり、書類作りや各種手続きをやるようにもなった。

ちょうどルシオが弁当屋さんに行き始めたのと同じ頃、ルシオの奥さんの奈々ちゃんが、僕と同じHUB職場になり、毎日インフォメーションの業務を一緒にするようにもなった。
それに加えて、この歳時記でも何度か紹介しているコミュニティに5つある“ファミリー”のなかで、同じ“木1ファミリー”にもなったので、毎週ミーティングもするし、ダイニングの担当もするし、お互いのことを知る機会も増えてきた。
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奈々ちゃんが今年になって随分体調も回復して、久しぶりにサイエンズスクールの合宿コースに参加した時のことをファミリーミーティングで話してくれたのだが・・

数年前の或る出来事がキッカケで僕に対して、
「この人とだけは絶対に一緒に仕事をしたくない」と思ったそうで、それが何としたことか同じ職場になってしまったと。
「でも、実際その後は、毎日愛情注いでもらって、気心も知れてきて、今は“兄貴”みたいな存在になって来たんだけど、それは“兄貴”が前とは変わって来たのか、自分の気持ちが変化してきたのか・・・ただ、最初に大きく引っ掛かっていた時の自分の状態をホントに見ることが出来なかったら、ずっと同じこと繰り返す気がしたんだ。それでね・・・」

奈々ちゃんは、僕がどうこうではなく、その自分の実例で、自分の見方や捉え方を観察、探究してみて、気付いたり発見したことをファミリーメンバーに話したかったみたい。
僕は僕で、その時の出来事を振り返ると、ニッコリ負けられない、意識ばかり高い偉そうな心持ちだったから、もうお恥ずかしい限りで穴があったら入りたいくらい。
とは言え、今でも自覚なく時折そんな気配が頭をもたげることもあって、
でもそんな時、隣に居る奈々ちゃんが、
「“兄貴~”、偉そうに雲の上から人を見下してないで、早く地上に降りてこ~い。」
と即行、声を掛けてくれるのに救われている。

米寿を迎える母の祝いに出かける前の晩、25歳でお母さんを27歳でお父さんを亡くしている奈々ちゃんから。
「私の分まで親孝行して来てね」
という一言をもらったことで、両親と過ごす時間の趣が随分変わったりしたこともあった。

先週の日替わり弁当のメニューは、“若鶏のうま塩唐揚げ”。
いつものように、ルシオと宏冶君が、今日はこんな盛り付けにしたいと見本を念入りに作っていた。副菜の位置はここ、漬物の量はこれくらい、レタスはこの辺に置いて、その上に唐揚げを3つ“山”になるように綺麗に組み合わせるetc.
僕は、唐揚げの盛り付け担当。二人の描いてくれた線でやろうと手を動かしていく。
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全体で何百個か作るのだが、最初の数十個やってみたところで、副菜の位置を少し上にずらして、3つの唐揚げを“山というより川”のように並べた方が、羽根になった唐揚げの衣が活かせて美しいなと思って、ルシオに見てもらった。ルシオは、
「オレは、見本の方がいいと思う!」と。
僕は、そうか!と思って、また切り替えてやり始める。
でも、やっているうちに手は唐揚げをまた川のように並べ始めていて、もう一度ルシオに言ってみる。
「やっぱり、こっちでどうかな?」

そんなやり取りが二度、三度あったが、面白いのは、僕もルシオも特に主張しないというか、自分の意見を通そうという気などサラサラ無いこと。ただ思ったこと言って、聴き合っているだけ。そう云えば最終的に二人でこうしよう!とか決めたわけでもないなあ、僕が盛り付けた唐揚げをルシオが最後チェックしながらフタを閉めていっただけ。
ただ、僕の役を後から来たセリちゃんに引き継ぐ時、ルシオは、
「かずきさんのやっているように盛り付けて~。それが一番キレイだから・・・」
と伝えていて、へぇ~!と思ったり。兎に角、風通しがよくて、一緒に遊んでいるようだ。

夕食時、いつものように円卓を囲みながら
「あれ、おとうちゃん、また寝ちゃったかな~?」
と奈々ちゃんが壁時計を見上げる。朝の早いルシオは、この時間に一寝入りしていることが間々(まま)ある。
「オレ、電話してみようか?」
とDiegoが応える。
暫くして、照れ笑いしながら登場するルシオ。椅子に座るなり、夕食はそっちのけで、Diegoや博也君、拓也たちと弁当屋談義が始まる。ようやく食べ始めたと思ったら、今度はダイニングにやって来たアカデミー生たちが次々寄ってきて何やかやと言葉を交わす。そして食べ終わった後も、どっかりと皆が見渡せる円卓椅子に陣取って、スマホと睨めっこしながら翌日のお弁当屋さんのシフトを組んでいく。
「おとうちゃん、ダイニングに居てもお弁当屋さんのことばっかり・・・」
と嘆く奈々ちゃん、でもどこか嬉しそう。
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「はい、明日のシフト出来ました~」
と満足げにルシオが席を立つ頃には、あれだけ賑わっていたダイニングも人は疎(まば)ら。僕らもそれぞれ家路につく。

この歳時記を書き始めて、今回でちょうど1年になる。
その第一回が【家族の風景・・・そして家族以上の】というタイトルだった。
僕は、ルシオや奈々ちゃんのこと、brotherでありsisterであり、ホントの家族になってきているなと思う。助け合っているという意識はない、もうお互い他人ではない自分のことだから、ただ普通に一緒に生きて、暮らしている、そんな感じ。
そして、そうなってきた1年を振り返った時、自分たちだけの個人的な努力や思いでは、こんな風にはとても成れなかっただろうとも感じる。
鈴鹿コミュニティという小社会ではあるけど、経済面、生活面、人育ちの面、その他様々な機構やシステムに乗っかって揺られている内に、僕らは家族になってきた。

この社会に暮らしていなければ、奈々ちゃんは”絶対この人とは関わりたくない~”というまんまで、僕と”兄妹”に成ることも無かったかも知れない。ルシオと僕も親しい友達の域を越えられなかっただろう。
偶々、ルシオと奈々ちゃんとのことをピックアップしたが、それは特別なことではない。ここでは当たり前のこと。毎日至るところで家族の産声が上がり、家族の実質が育っていっている。
”誰もが本当の家族に成れる社会”なのかもしれない、ここは。
僕らはそんな社会に住んでいる。
良い家族ー良い会社ー良い社会
僕らを通して、それが実証されている今なのかなとも見えてくる。
明日への、次代への贈りもの。
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「かずきさん、時間です!」
とルシオに声を掛けられ、手を止める。
お弁当屋さんの勝手口を出ると、向かいのブラジル人学校から、子ども達の大きな声が響いてくる。思わず目を遣ると、その豊かなBody Languageについつい魅了されてしまう。
そして、よくルシオの口から語られる少年時代のこと、スケールが半端ないブラジルの大地のことが浮かんでくる。
左手のメイン道路は、勢いよく流れている車でいっぱいだ。
道に面したおふくろさん弁当の駐車場では、ずらっと並んだピンクの箱車に、今日のお弁当が積まれ始めた。
今から、一人ひとりの口元、心元に
僕らのお弁当が
届けられていく。
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コミュニティ歳時記10月号 【何をしても可愛い】

「サカイさ~ん、ただいま~」
韓国からアーちゃんが2年半ぶりにやって来た。

4歳になったヨミンが、会話している僕らの様子を見上げている。
「ヨミン、大きくなったね~」
と声を掛けると、アーちゃんの後ろにパッと隠れてしまった。
程なく、1歳のヨジョンが身体を左右に動かしながら、一歩一歩近寄ってきた。
「これが、ヨジョンです」
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とアーちゃん。ヨジョンはもちろん初来日。その顔には笑みが浮かんでいる。
パンデミック前、アーちゃんが韓国に帰る時の別れ際に、
「サカイさん、必ずまた来ますね」
と言って駆け寄り、ハグしてきたことがあった。
次の瞬間、その時2歳だったヨミンは見様見真似で、お母さんがしたのと全く同じように、僕に歩み寄りハグをした。
膝をついて、ヨミンの小さなカラダを受けとめながら、”可愛いなあ”と、その存在そのものへの愛しさが身体中に充ち、やがて零(こぼ)れ出るのを抑えることはできなかった。
そして今、お母さんの背後に隠れてしまうヨミンもまた可愛い。
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9月になり、コロナの水際対策が緩んできたこともあって、海外との行き来が活発になりつつある。
・9/7  韓国からキム・セリ、2か月の実習プログラムへ
・9/8 ブラジルより岩田さん帰国
・9/10 スイスよりアレックス、アンティエ、3か月の実習プログラムへ
・9/11 韓国よりドンハ、グムサン、ジョンアの3人、準アカデミー生として入学
 (ヨミン、ヨジョン、ソムギョル、3人の子ども達も一緒に)
・9/13 タイで開催のEcoversities Allianceギャザリングに片山弘子さん参加
・9/19 Leo、月岡夫妻ブラジルへ

コミュニティ“ファミリーダイニング ゼロ”での夕食時は、とっても賑やか。日本語、韓国語、英語、ドイツ語、ポルトガル語があちらこちらで行き交う。そんな光景がだんだん普通になってきた。
そして今、乳幼児からシニアまでが憩うファミリーダイニングの主役は、何と言っても収穫したての“新米”だ。
冬の間に準備した種籾は育苗ハウスに播かれ、育った稲の苗は4月終わりから5月初めに田圃に植えられる。初夏―梅雨―真夏と、苗は土に蓄えられた肥料へと根を伸ばし、しっかり根を張り、茎を太らせ伸ばし、やがて穂をつけ稔らせる。そして8月後半から9月にかけて収穫の秋(とき)を迎える。
その穫れたての新米がダイニングに初お目見えしたのは、9月3日のこと。
その日のメニューはとってもシンプルで、“新米のおにぎり”
どんどん次のおにぎりに手が伸びる、あちらでもこちらでも、“美味しいな~”と感嘆の声が上がる、そしていつの間にか、なんと普段の倍以上のお米をみんなで平らげてしまっていた。
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アカデミー生・環ちゃんの、
「時々、今日みたいにお米をたっぷり食べられるのもいいなあ~」
って呟きも、聞こえてきた。
日本に住む自分たちには、“やっぱりお米かな”、そんなことを思わせてくれる日だった。
遠い秋の日、母の田舎の田圃で、たくさんの従兄弟たちと稲掛けの周りで弾け戯れている幼い頃の姿が蘇ってくる。微笑み見守る親たち、吸い込まれそうな青い空、胸いっぱいに充満する芳しい穂の香、山間(やまあい)に木霊する鳥の鳴き声、稲株を踏む時の硬さと脆さの感触、頬張った柿の甘味と渋味、長閑(のどか)な、そして絶対安心の原風景。
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コミュニティで食べるお米も、そしておふくろさん弁当で使われるお米も、昨年初めて、<全量>自分たちの田圃で作ることが出来た。自家産お米自給率100%達成ということになる。
SUZUKAファーム株式会社が誕生したのが2010年、それ以前も稲垣さんが、コミュニティメンバーが安心してお米を食べられるようにと作り続けてきた何年間かがある。
当初は、高齢化した地元の農家から田圃を借りて作り始めたが、あまりの下手さに見るに見かねた、おじいちゃん・おばあちゃんが随分手助けしてくれたとか。時にはコンバインやら農業機器まで融通してもらったこともあったみたい。
“稲ちゃん農園”と呼ばれ、稲垣さん個人でやっている段階から、20代~30代の若者数人で会社を興し、意気揚々とやり始めたのが12年前。だが、たちまち行き詰ってしまった。経営的にも、お互いの間柄も。見切りをつけ離れてしまう若者もいた。
だが、そこからが本当の始まりで、そこに根を張ろうとする一人、二人から新生SUZUKAファームが動き出した。何のためにお米や野菜を作るのか、何のためにその事業をするのか、どんな会社や社会を創っていこうとしているのか・・・真の目的に立ち還り立ち還り、10年以上かけて、じっくりとじっくりと育て上げてきて、我が家・我がコミュニティの家業になってきた。
そしてお米も全量、自家産になった。
もちろん、まだ道すがらだが、その道中の陽気なこと!
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アレックスとアンティエはスイスから来て、もうすぐ3週間。
アレックスはスイス生まれだが、アンティエはもともと東ドイツに生まれて育ち、ドイツ統一後スイスで暮らしている。或るミーティングの中でこんなことを言っていた。
「スイスやドイツで、私たちが育ってきた社会の雰囲気、とっても厳しいと感じる時がある。親や先生や目上の人は、これが正しいとか、これはやらなくてはならないとか、注意したり指摘したり強制したりが当たり前。大人になっても、お互いにそういう関係が続いてしまうね。見張り合っているね。」
聞きながら、スイスやドイツのことだとは聞こえてこない、なんだか日本に居る自分も同じような道を通ってきたなと。躾とか、教育とか、人を正すとか・・・
大人になり、親になり、知らず知らず、その道を次の世代に押し付けてきたこともあった。
人を知らず、人生を知らず、そうする以外の道を知らず、知ろうともしない。スイスやドイツで厳めしく、人を正そうとする人達が自分と重なってくる、他人ごとに思えない。
なんで、そんなアホなこと真面目にやってきたんだろうと今では不思議にさえ思うが、良かれと無意識でやっている裡は自分の愚かさ、浅ましさになかなか気付けない。
アレックスとアンティエは、なにやら今の鈴鹿コミュニティに流れている穏やかな気風を感じているみたい。包まれているような、だから周囲の目を気にしなくていいような、自分の思っていることをオープンにしたくなるような・・・
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彼らと日々接しながら、改めて、そういう環境・土壌の中で、生きてきたんだなあと、自分の10数年の歳月を顧みたりしている。
この歳になって漸(ようや)く、ちょっと人らしい生き方に向かい始められたのも、このコミュニティの土壌のおかげだし、土壌と言っても、じっくり見守り続けてくれる親のような存在があるということかなと思ったりする。ただ温かい環境や雰囲気があるというだけでなく、いつも原点に立ち還れるように、その人らしく生きられるように、道標を立て機会を用意してくれている。そんな深い愛情からの外さない厳しさを体現している親の存在。
そして、そこを進んでいくのは、自分自身、一人ひとりの主体。

さてヨミン。
前回、日本で暮らしていた時、ちょうど同じ頃に生まれた“うみ” とずっと一緒だった。
全く会わずに2年経って、お互いのこと覚えているのかな?
再会したら、どんな感じになるのかな?
なんとなく、みんなそんなことを考えていた。
“その時”の様子、こんなだったみたい。
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うみ と ヨミン
チラチラとお互いを見ながら?
それぞれで離れて水遊びしていたけれど
いつの間にかその距離もだんだんと近くなっていく
うみの後ろをヨミンが同じ動きをしてついていく
またヨミンの後ろをうみが同じ動きをしながらついていく
を繰り返す
同じように動いていくうちに相手になって
言葉は交わさなくても
通じ合っていくように見えて面白いな

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毎年、同じパートナーとカップルになる南極の皇帝ペンギンは、1年ぶりに出逢った時、シンクロして同じ動きをしながら、お互いを確かめ合うそうな。うみ と ヨミンも一緒かな。
その日、ヨミンはお母さんのアーちゃんにも、
「今日、うみと遊んだ!」
と自分から言ってきたみたいで、アーちゃんも“うみ”って言葉が、ヨミンの中から出てきたよ~と驚いていた。
ヨミンだけでなく、ヨジョンも、ソムギョルも、コミュニティの子ども達と、もうすっかり馴染んでいる。あっという間に溶け合っちゃう。そんな様子を見ていると、いつまでも余所余所(よそよそ)しくしている大人の関係が不自然に見えてくる。
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稲の稔りが一朝一夕で出来ないように、今こうして韓国やスイスから、その子ども達も含めてやって来て、一緒に安心して“我が家” に居るかのように暮らせているのも、そうなるようにと何年も何年も、耳を傾け、足を運び、心を寄せ続けた親の存在が実在しているからだと思う。
「何をしても可愛い」
きっと誰もが自身の裡に、垣間見たことのある、その境地。
何をしても、何もできなくても、どうあっても、どうなっても、ただ可愛いだけ。
その吾が子の本当の幸せを願い、見守り、先を歩く親。
親心・親の愛が、幸せな人を育て、やさしい社会を招来する。
その中で暮らす子ども達。その一日一日が、一人ひとりの原風景、原点になる。
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コミュニティ歳時記9月号 【masterpiece】

毎朝、ブラジルから送られてくる絵を見ている。
ある日は人物画、またある日は風景画だったり、見たことも無い鳥や果物や樹々だったりと様々だが、色合いというか色調が、今までの彼の作品とは随分違う印象を受ける。
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以前、この歳時記でも紹介したコミュニティで日本画を描いている岩田さんは8月の半ばからブラジルに行っている。そして、毎日彼のブログにその日のスケッチを簡単なエピソード付きで載せてくれている。
南半球に位置するブラジルは、季節としては冬を迎えているが、岩田さんが滞在しているサンパウロ州では半袖姿の人も多く見受けられる。

6月の20日頃、どういう流れか失念してしまったが、一緒に何人かで食事をしている時に、
「岩田さん、ブラジル行って来たら?そこで見たものを、日本画で描いてみたらどうだろう?」
そんな話が持ち上がった。
鈴鹿コミュニティと少なからず縁のあるブラジルの大地や人を、今の岩田さんが描いたら何が生まれてくるだろう?
岩田さんによる“ブラジルを日本画で”をやってみようかと、あちらでもこちらでも話が進んで、コミュニティから送り出して行くことになった。
例年なら、秋の院展(日本美術院展覧会)への出展のために制作に没頭する期間だが、今年はブラジル行きに懸けてみようと岩田さんも思ったようだ。

“岩田さんと旅”というので、想い起されるのは何十年も前、東京でお互い知り合ったばかりの学生時代のこと。
彼はどこへ行くとも告げずに、僕等の前から忽然と姿を晦(くら)ましてしまったことがあった。
携帯やスマホなんて無い時代、あちこち心当たりは尋ねてみたが全くの行方知れず、当時は気を揉むことしか出来なかった。
2,3か月後、これまた突然帰ってきて、小さな居酒屋に皆んなで集まり話を聞いた。
関西の著名な画家に師事しようと直談判に行ったこと、その願い叶わず放浪していたことなど話してくれた。小学校の低学年からずっと白いキャンバスに向かい続け、芸大に進学し、これからどこに向かって行こうとするのか、その模索が始まった頃のことだと思う。
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ブラジルのアズワンコミュニティに到着した岩田さん

今回のブラジルへの旅も、健康面から心配する声もあった。
数年前ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病が進行中と診断された岩田さん、現在左手が思うようには動かせなくなり、絵筆を握る右手も動かせる時間や範囲が日に日に狭まってきている。首や肩の痛みも常態化してきた。治療のため、隔週で点滴を受けているが、渡航中は中断しなければならない。その岩田さんが、往路だけで24時間以上のフライトがある長旅に耐えられるだろうかと。
3年前、滋賀の大学病院に今後の治療や生活について、一緒に相談に行ったとき、
「とにかく、よく食べて、健康に暮らしましょう。今の段階で治療薬はありませんが、医学の進歩も凄まじいです。必ず薬は出来ますから、その時を待ちましょう。それまで少しでもALSの進行を遅らせるため、しっかり食べて前向きに生きましょう。」
と、専門の先生から力強く励まされた。
昨年来、各種メディアでボスチニブという白血病の治療薬がALSにも有効では?との報道がなされ、京都大学IPS細胞研究所で今年の4月からその第2治験が始まるとの情報を得て、直接連絡も取ったりしてみた。結果的に、治験の対象者には成れなかったが、専門の先生が語ってくれた“その時”が直ぐそこまで来ていることを実感させてくれた。

“その時”がいつになるのか、それは誰にも分からない。
でも、それまでの一日一日をどう過ごしていくのかがいつも問われているのだと思う。 
今の岩田さんが最も生かされていくには、どうあったらいいんだろう?
“岩田さんをブラジルへ”というみんなの願いや、“ブラジルを日本画で”という岩田さんの意欲も、そんな中から湧いてきたのではないだろうか。
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ブラジルの岩田さんから、SNSを通して毎日絵が届けられる。
まるで一緒に旅をしているかのよう


あなたにとっての一枚の絵、masterpiece・マスターピースは何ですか?
と問われた時、浮かんでくる絵は・・・
僕には、“これ”というのがある。
それは、ゴッホでもモネでもピカソでもなく、申し訳ないけど岩田さんの絵でもない。
その絵はたぶん、もうこの世には無いのだが。
子どもの頃、僕は松本城のお隣というくらい、とっても近くに暮らしていて、毎日天守閣を仰ぎ見ていた。ある日、家族で絵具と画用紙を持って、お城の写生に行ったことがある。
珍しく父も一緒に来て、僕や兄が描いているのをぼんやり眺めていた。
その終わりがけ、徐(おもむろ)に父が僕の絵筆を取って、真っ新な画用紙にササッと色を付け始めた。
下書きは一切なしで、迷いなくどんどん色が塗られていく、あっという間に“お城”がもう一つ出来てしまった。その見事さに僕は圧倒されて、見入ってしまっていた。
「さあ、もう帰るか~」
と涼しげな顔の父。自分の描き上げた絵をくしゃくしゃと丸めようとしている。
僕は慌てて、それを奪い取って、持ち帰った。
家に帰るなり、母に頼んだ。
「この絵を額縁に入れて、部屋に飾ってほしい」
と。
母は、
「あの人は親の跡を継いで、この店の商売をしているけど、そういうのが無かったら絵描きにでも成っていたかも知れないねえ。その方がずっと向いていると思う。」
と言いながら、絵を居間に掛けてくれた。
その日から、その“お城”が僕にとっての松本城になった。
それから、毎日その絵を見ては惚れ惚れしていた。
友達が遊びに来ると必ずその絵を見せて、父が描いたんだ、その時の父はこんな佇(たたず)まいだったんだと自慢していた。
大学に行って、実家を離れてから何年か経ったとき、その絵は片付けられ、なくなっていた。
おそらく父が生涯で、たった一つだけ描いた作品。
もう、僕の脳裏にしかない、その一枚の絵。
理由とかは自分でもさっぱり分からないが、
それが唯一無二のmasterpiece。
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絵とか、音楽とか、芸術と呼ばれるもの、なぜ人間は、昔からそういったものを創作し、鑑賞し、遺してきたのか、ちょっと大きなテーマで簡単にどうこうとは言えないが、絵や音楽だけが芸術というのも狭い感じがしてならない。人の暮らしから生まれてきているものは、家事や仕事であっても、実は凡て芸術なんじゃないか、そんな気もする。
静かに見渡してみると、社会のあちこちに、暮らしの隅々に、古今東西のあらゆる人が創作し、練り上げ、磨き上げた芸術作品が無数に横たわっている。その宝の山の上で、僕らは生きている。
岩田さんだけがコミュニティの芸術家ということでもないだろう。
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ブラジルの市場にて。岩田さんのスケッチ

お弁当屋さんの何某も、ファームで野菜作っている誰それも、子どもの成長見守っているメンバーも、毎日みんなのご飯用意してくれているお母さんたちも、草刈りしたり修繕したり住居環境を整えているシニア達も、繕い物や編み物してくれるおばあちゃんも、実はみんなコミュニティの芸術家なのかもしれない。
それぞれが、もっと弄(もてあそ)び的にその道を極めたらどうなっていくだろう?
その人だからこそ出せる味、その人にしか添えられない色に彩られて、凛と香るその人自身が、その暮らしそのものが芸術・masterpiece(傑作)になっていくかな。
たった今も、コミュニティという縁無(ふちなし)の壮大なキャンバスに日々刻々と未知なる絵が描かれている最中とも見えてくる。まぁ多少の描き損じや、色の塗り間違いはあっても、元々いつでもデリートして真っ新に出来る私であり・あなたであり・キャンバスだから、気楽なもの。
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スケッチに勤しむ岩田さん

そんな百花繚乱の芸術家たちの中で、岩田さんは絵を描くことを得意、専門とする一人の芸術家。
9月8日に帰国予定。
ブラジルで描き溜めたスケッチを、2か月かけて日本画にして、11月18日~27日に3年ぶりの個展を開催する。そこに何を表していけるか、何が現れてくるのか・・・乞うご期待。
Don’t miss it !
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ブラジルで岩田さんを受け入れてくれているミノワ夫妻と岩田さん
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コミュニティ歳時記 8月号 【夏日寸描】

目を覚ますと、近くから遠くから幾重にも折り重なるように、
「ジジジジジジ~ジジジジジジ~・・・・」
と聞こえてくる。真夏の到来を実感する。
カーテンを開けると、一匹の蝉が網戸に飛んできて啼き始めた。
部屋全体を振動させるほどの大音量が響く。

仕事場に向かう道すがら、東の空には湧き立つ雲。
右手の田圃の稲は、胸の高さほどに生育し、稲穂が膨らみを増している。
鈴鹿カルチャーステーションの南側、全面ガラス窓の外には、見事な緑のカーテンが出来て、程よく陽射しを遮る。ゴーヤの実もたくさん見られるようになった。
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鈴鹿カルチャーステーション夏の風物詩「ゴーヤのカーテン」

(寸描・その1)
今回の鈴鹿コミュニティのツアー(1泊2日でコミュニティを見学し、その暮らしや人に触れられる機会)に参加したのは、Valerie MadokaさんとKarlaさん。偶然だが、二人ともドイツから来た。そのツアーの中で、ここでの暮らしが6年目になる韓国のフンミと、今サイエンズアカデミーで学んでいるタッキーと触れ合った時の一コマから・・・
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ドイツから鈴鹿コミュニティを見学に来たKarlaさんとValerieさん

フンミ
最近暮らしていて思うことは・・・
子どもを産んで育ててみたいなという気持ちが湧いてきて、それに向けて病院に行き始めたんだけど~・・・そう思うようになった自分も不思議で、自分一人だったら出てこなかった発想かも知れないな。お母さんから、「あなたを産んで育ててみて本当に愉しかったから、あなたにも経験して欲しいな」と聞いたり、パートナーが、「家の中に子どもが居る暮らしを一緒にしてみたい」と言っていたり、他にも何人ものコミュニティの人たちから声をかけてもらう中で、そういう気持ちが湧いて来たんですね~。
病院で担当の先生と会うのもすごく楽しみになってきて、次の予約の日時を話しているときでも、いついつとただ決めるんじゃなくて、「今のフンミさんなら、もう少し早く診た方が良さそうだから、この日はどうですか?」と先生の方から考えて言ってくれる。それは○○先生も、××先生も。なんか、私の身体のことなのに、私のことじゃないみたい。とっても不思議。
実際に子どもが出来るかどうかは先のことで分からないけど、そういう人たちの中で、私の中からそんな気持ちがポッと湧いてきて、それをまた皆が自分のことのように考えたり動いてくれているのが愉しいですね~

タッキー
昨夜、1年間のアカデミー生活を終えて出発する人の送り出し会があって、そうか、もう7月なんだと自分のこの間のことも思い出されて・・・
ちょうど1年前、僕は或るアカデミー生と大ケンカ中というか、とてもギクシャクした関係になっていて、顔も合わせたくなくて自分の部屋に閉じ籠っていたんだよね。
でも部屋に居ても悶々とするだけで、やっぱりみんなにも聞いて欲しいなと思って、アカデミー生のグループラインにメッセージ流したら、リビングに全員集まってくれた。
そこで僕が、「どうしていつも人の文句をチクチク、チクチク言ったりするの」って自分の思いを出したら、その人が、「ワタシだって、そうしたくてしているわけじゃない」って言い始めて、その後みんなでやり取りする中で、自分の中の何かが動いて“そうせざるを得ないものがその人の中にあって、今はそんな風な出し方になっちゃうんだな”って、初めて相手の方に関心が向かっていった。それまでは、“嫌だなあ”っていう自分の気持ちしか見えなかったけど、その人にはその人なりの世界があって、そうしているんだなあって・・・

Valerie Madoka
二人の話を聞いて・・・
ドイツで私は、ある地域づくりのプロジェクトリーダーをしていますが、時々感じることがあります。人にではなく、石に話しかけているようだと・・・
そういうお互いからは何も生まれてきません。
私がやっていきたいのも、やっぱり“人と人”のやり取りなのだと・・・今、そう感じます。

Karla
私は、半年間の交換留学生として神戸大学で学んでいますが、ドイツではたくさんのエコビレッジがあって、いくつかの場所には訪れて体験もしてきました。
どこのエコビレッジもイベントやフェスティバルが盛んです。そこに周りから、いっぱい人も集まってきます。その時は楽しかったりしますが、皆だんだんと疲れ果てていくようです。
フンミさんやタッキーがフォーカスして愉しんでいるのは、イベントやフェスではなく、日々の暮らしなのですね。
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鈴鹿コミュニティで暮らす「タッキー」「フンミ」との交流の時間

(寸描・その2)
ダイニングで一緒に食事をしていた5歳のサクトが、二本がつながった子供用のお箸を使っていたので話しかけてみた時のこと。

サクト
ぼくはねえ、まだ大人のはつかえないよ。
でもねえ、サラはつかえるよ。
あと、ハルもつかえるよ。
アカリは、まだつかえないよ。
・・・
一緒に育っているコミュニティの子どもたちのことを一人ひとり、喋っているサクト。
彼らは、どんなお互いなんだろう?
あの子は使えるけどボクは使えなくてダメだとか、そういうのは一切無いみたい、面白いなあ、でもそれがホントは普通なのかな。
啼き続ける蝉も、湧き立つ雲も、稔る稲穂も、もし隣りの蝉や雲や稲穂と比べて、いろいろ思っているとしたら、おかしくて笑っちゃうよな。

近くの公園でサクトが遊んでいた時のこと、プレハブの倉庫を工事のおじさんが造っていた。しばらく横に居て、見ていたサクト。
途中から、ビスをおじさんに一つずつ渡し始めた。
一本打ち終わって、さあ次という絶妙のタイミングで、サクトが、
「ハイ!」
とおじさんに手渡していく。
工事のおじさんもそれに応えて、
「ハイ!」
と受け取って、一本また一本とビスを打っていく。
結局、最後倉庫が完成するところまで、その二人のやり取りは続いた。
初対面のサクトと工事のおじさん。
その二人に通い合っていたものは何だろう?
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コミュニティで育つ「サクト」。お父さん達の真似?ミニ田んぼを作って稲作

(寸描・その3)
またまた別の場面。週に一回のファミリーでのミーティングで。

純奈
(開口一番)ああ、やっと皆揃ったから話せる~もう、みんなに話したいことがあって、さっきからずっとウズウズして待ってた~
奈々子
(中盤で)ああ、どうしよう。まだ話したいことあったぁ。続けて私ばかり話してもいいかな?昨日の夜からミーティングが待ち遠しくて・・・

40歳になっても、50歳になってもファミリーメンバーに話したいなあ、聴いてほしいなあって、そんな気持ちはどこから湧いてくるんだろう?
“ねえ、お母さんきいてきいて”
って、みんなそうやって育ってきたんだから、当たり前のことかな・・・

(寸描・その4)
Valerie Madokaは、建築家であり、映像作家。日本人の父とドイツ人の母の間に生まれた。ずっとドイツで育ったので、日本語は殆ど話せない。ドイツではお父さんも全然、日本語は話さず、教えてくれたこともなかったらしい。
今、鈴鹿コミュニティを題材に短編の芸術的な作品を創ろうとしている。
一緒に食事している時に、
「お箸の使い方、上手だね」
と言うと、
「お父さん、日本語は教えてくれなかったけど、お箸の使い方は教えてくれました」
と笑う。
「そうだ、納豆食べる?」
と訊いてみた。
「お父さんが食べていたことがあって、ワタシも試したことあったけど無理でした」
とのこと。
そう云えば、以前テレビの番組で、ありとあらゆる世界中の珍味を食べ尽してきたという外国人の猛者(もさ)が、納豆に挑戦するという企画をやっていた。自信満々で臨んだ彼だったが、匂いを嗅いだだけで速攻ギブアップした。
美味しいと言いながら納豆を食べている僕を、不思議そうに眺めるMadoka.・・・
まったく“好き嫌い”なんていうのも、いい加減なものだと思う。
ただただ、環境によって作られ、また環境によって如何様にでも変り得る。
どこまでいっても相対的なものなのに、自分の中での絶対的な価値観のようにしてしまったり、なんともアホなことをしている。
“良い悪い”も、“優越感劣等感”も、同じようなものか。全部自分の頭の中のこと。
“そのもの、その人”とは何の関係もない。
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建築家であり、映像作家のValerieさん。「コミュニティを映像で伝えたい」

Madoka・奈々子・直絵
3人が初めて会って、ダイニングで食事をした時のこと。
独語・仏語・英語はオッケーだけど日本語の殆ど分からないMadoka, 2年間のオーストラリアステイでも英語が全く操れないという直絵、20年以上ブラジルに居て日本語もポルトガル語も英語も全部中途半端と自認する奈々子、話が通じるのかなあと会う前はそれぞれに心配していたけど、夕食食べ終わる頃にはスッカリ馴染んじゃって、その後同年代の3人でまるで旧知の友人のように、はたまた姉妹のようにガールズトークに花が咲く。この中では一番、英語が通じると思っていた僕は、その展開の速さに付いて行けずに置いてきぼり~
この3人、つい1時間前までは、会ったことも話したこともないお互いだったのに。
このチャンスが無ければ、一生知り合うことも無かったかも知れないお互いなのに。
“人と人”って不思議すぎる~、何なんだろう?

地球の一隅・鈴鹿コミュニティでの夏日寸描(かじつすんびょう)。
どの寸描も、こうやって眺めてみたら、世界中のどこにでも転がっていそうな、ありふれた光景かも知れない。
ただ、それぞれ場面や人は違うけど、別々という感じがしないのは何故だろう?
目に見える現れは、どれもこれも違うけど、それが湧き立ってくる元はどこか繋がっているのだろうか。
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鈴鹿白子港から望む夏空

日日、姿を変えて湧き立つ夏の雲。
どこから、どんな風に湧き立ってくるのだろうか?
日日、表情を変える私たち“人”そして“人と人”
湧き立ってくる元にあるものは何だろう?
そして、
ポッと浮かび上がってくる
どんな姿も
どんな表情も
愛おしい・・・
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鈴鹿コミュニティで学ぶ、アカデミー生 【みんなで空を見る日常】
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コミュニティ歳時記7月号「大きな少年たち」

なだらかな階段を上り、堤防の上に立つ。
眼前に広がる大海原。
"Ach, es ist das Meer~"
感嘆の声をあげる3人の大男たちを、潮風がやさしく包む。
"Oh, es ist eine weiße Welle"
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※写真左からパトリック・アレックス・アンドレ(スイスから来訪)

あちらでもこちらでも打ち寄せる白い波に、“生きている海”を実感する。
まるで引き寄せられるかのように、Patricがテトラポットを伝(つた)って、砂浜に降りていく。ほどなくAndre、Alex、僕も後に続いた。
先に砂浜に着いたパトリックは、早々に靴と靴下を脱ぎ、スラックスを膝上までたくし上げ、やる気満々の風(ふう)。そこから、大男3人は瞬時に“少年”となって海と戯れ始めた。
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波打ち際に行って飛び跳ねたり、貝を拾ったり、釣りをしている子ども達に話しかけたり、1時間近く裸足で砂浜を歩いたろうか・・・
山に囲まれ海に面していないスイスの3人にとって、そこは格別の味わい愉しみがあるようだった。それが、単に見慣れぬ海のせいだけではなかったと気付いたのは、暫く経ってからのことだが・・・

パトリックとは青年期に、かつてない新しい社会を模索する道中で出会った。もう30年来の友人で、お互いの子ども達が同級生だったこともあって親交を重ねてきたが、こんなに弾けた姿を見たのは初めてのことだった。
放っておいたら、そのまま名古屋の港まで辿り着きそうな勢いだったので、
「さあ、大きな少年たち。そろそろ、帰ろうか~」
と声をかけた。

その前日まで、アンドレとアレックスは、鈴鹿で開かれた6月度アズワンセミナーに参加していた。観光やビジネスが目的ではなく、セミナーの1週間を体験するためだけに、遥々スイスから海を渡ってやって来たのだ。パトリックはその通訳として入っていた。
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※スイスの3人が参加した【6月アズワンセミナー】

アンドレは、スイスの地で、30年以上も戦争や諍いのない平和な社会を創ろうと活動し続けてきた人。そんな彼にとってもセミナーでの体験は衝撃的だったようで、
「今まで、頭ではそういうことだと分かっていたつもりのことが、初めてズシンと心に入ってきた。今までのことは今までのこととして、ここからは本当にゼロからやっていきたいんだ」
と“やさしい赤鬼”のような面持ちで心の裡を曝(さら)け出した。
37歳のアレックスは、同年代の人たちも学んでいるサイエンズアカデミーに惹かれるものがあったようで、
「スイスの仲間やパートナーに送り出してもらって、鈴鹿にまた帰って来たい。今の僕にとってはアカデミーで学ぶことが、本当の自分を取り戻していく最短の道なんだと思う。」と。そんな風に語る二人の瞳は、海と戯れている時以上に、少年の輝きを放っていた。
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※滞在中はアズワン鈴鹿コミュニティメンバーと会食をともにした

パンデミックもひと段落した気配の中、こうして国内のみならず海外からも、鈴鹿コミュニティに訪れる人が増えてきつつある。
SUZUKAファームの野菜仕上げ場でも、新たに入学したアカデミー生や体験・実習プログラムの参加者などで、大賑わい。

そんな中、或る“事件”が勃発!
10年以上前のファーム創設時からのメンバー・俊幸君が、その賑わう仕上げ場にひょっこり顔を出した時のこと。いきなり或る青年女子から、
「あの~初めて体験で来られた方ですか?」
と声をかけられたのだ。
「いや~、実は10年くらい、ここでやらせてもらってるんですけど~」
これには、一堂大爆笑。
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※SUZUKAファームの谷藤俊幸君と娘の「はなちゃん」

俊幸君は、主に 田んぼや畑の作付け・管理・収穫などを専門にやっていて、外回りをしていることが多く、仕上げ場にいつも居るわけではない。まあ、どこの職場や集まりでも新入社員とかが多いとき の“あるある”なんだろうが、とは言え笑える。
「ファームでこんな顔の黒い、日焼けした新人おらんやろ~」
とは、俊幸君の弁。
ちなみに、ファームで賑わっているのは人だけではない。トマト、キュウリ、ナス、ジャガイモなどの夏野菜が本格的に採れ出している。真っ赤な完熟トマトを皮切りに地元の愛用者たちからは、朝採り野菜が喜んで迎えられている。

コミュニティを最近何度も訪れている一人が日野進一郎さんだ。(通称・日進さん)
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※アズワンネットワーク岡山の「日野進一郎さん」もペンキ塗りに参加

先月歳時記で紹介した屋根のペンキ塗りでもコミュニティメンバーに混じって大活躍。
というか、誰よりもペンキ塗りを自分事として愉しんでいて、
「僕はこのペンキ塗り、やり終わるまでは帰りませ~ん」
と結局滞在を延ばして、最後まで見届けた。とても70歳を越えているとは思えない身軽さだ。
『日野環境デザイン研究所』の一級建築士でもある日進さんは、その前後も二度、三度と手弁当で岡山から駆けつけてくれて、コミュニティの建物・施設の設計を担当している。
「日野さん、やっぱりここのところ、もっとこんな風に出来ないかなあ?」
耕一君、龍君を始めとしたコミュニティ若手メンバーからの度重なる無理難題と思える注文にも、
「ああそれね、確かに面白そうですね~」
とか言いながら応えている。そんな受け応えを通して、日野さんの中から眠っていた何かが引き出されてきているのを感じる。
「もう、図面の書き直し、これで9回目ですね~・・・こんなこと今までなかったなあ~」
と嬉しそうに語るその姿も、まるで少年のよう。
熟練の技が、その少年の心と相俟って、どんな建物が建てられていくだろうか。
そして一昨日、
「こちらでは本山さんがダイニングの増設工事を始めますよ~!」
とメールしたら、
「そうですね。本山さんの姿を思い出したら、ウズウズしてきたので、こっちの雑用を済ませたら行きます!」
と返信が来た。日進さんの勢いも、留まるところを知らず。
まさに、『日進月歩』~

動物は“本能のままに”生きて、当たり前。
人間は“本心のままに”生きて、当たり前。
じゃあ、“本心”ってなんだろう? 
心からの欲求、意志、気持ちって、どんなものかな?

よく反発とか抵抗とか反骨とか嫌悪とか言ったり、聞いたりするけど、
“心から反発、抵抗、反骨、嫌悪してる”人って、自分を含めて見たこと無い。そんなこと出来る人、一人も居ないんじゃないかな。
何かに反発したり、抵抗することはあったとしても、“心の底から”って程のことじゃなさそう。実は、とっても表面的だったりして。
私が“心から”したいことって?
あなたが“心から”したいことって?
“少年のような心の人”は、本心と開通・直結している人の姿かな。
シンプルに、心からの欲求、意志、気持ちだけで、お互いに生きていける環境だったら、どんな一日を送るんだろう、そしてどんな人生になっていくんだろう。
それさえあれば、誰もが“本心のまま”に・・・
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海を見に行った翌朝、パトリックは始発の電車に乗りたいというので、5時頃駅まで送っていった。東京で一仕事して、夜のフライトで羽田からチューリッヒに飛ぶと言う。車中、この5月にアカデミーに入学したパトリックの愛娘Juliaの話などしながら。
「ゴツン!」
いつも、申し訳なく思うのだが、190㎝を優に超えるパトリックには、日本車は小さ過ぎて、降車の時にどうしても頭をぶつけてしまう。
改札の前で、
「パトリック、いよいよ7月にはスイスでのセミナーだね。」
と声をかける
「はい、そうですね~」
と飄々とパトリック。
「どうなるかなあ、楽しみだ~」
と手を振ると、
「そうね、なんとかなるでしょう~。またね!」
と悪戯(いたずら)っぽく笑って、踵(きびす)を返した。
7月17日から、ヨーロッパでは初めてとなるアズワンセミナー。
日本とスイスを行き来し何年にも亘る準備を経て、パトリックが開催する。
アンドレやアレックスのサポートのもとに。
このセミナーを端緒に、ヨーロッパの片隅から広がっていくであろう新たな地平。
その胸の内には、もう既に描かれているものがハッキリある、そんな足取りでパトリックは駅のホームに消えて行った。
「いずれアカデミーを出発したら、お父さんと一緒にヨーロッパでセミナーをやっていける人になりたいんだ。」
そんなJuliaの言葉が、大きな少年Patricの背中を押しているようにも思えた。
”Wir sehen uns wieder, Brüder”


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※スイスの風景 7月にはスイスでアズワンセミナー初開催の予定です。
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コミュニティ歳時記6月号 【日日是(にちにちこれ)…】

東京から、伸(のぶ)ちゃんが訪ねてきた。つい一昨日のこと。
京都旅行の帰り道に立ち寄ったので、コミュニティのカフェスペースで2時間程話しただけだったが。

エントランスに掛けられている岩田さんの日本画も鑑賞したかったようで、
「ねぇ隆、この線はどうやって描いたの?」
だの、次々と質問を岩田さんに浴びせかけては、
「あ~、作者に直接尋ねられるのってすっごいシアワセ!」
と悦に入っていた。
自らも絵を描くことをライフワークにしている伸ちゃんが、
「今、隆は毎日、毎日、絵を描いてるんでしょ?どんなモチベーションでやってるの?」
と尋ねる。
「以前は、こんな絵を描いてやろうとか、賞を取ってやろうとかあったけど、それって非日常的な動機だったよね。今は、絵を描くことが“日常”になってる。“日常”を描いているのかなあ~」
「へぇ~、そんなんだったら、どんな絵が描かれていくんだろう?」
二人の絵談義は終わることがない。その様子を僕は、ほくそ笑みながら見ている。
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コミュニティで絵を描き暮らす、画家の「岩田隆さん」

伸ちゃん、岩田さん、僕は学生時代に、“東京若人会”なんて云う、今から思えば、何ともダサいネーミングのサークルで活動をしていた仲間で、来る日も来る日もコロコロと兄弟姉妹のように戯れていた。話し出したら、直ぐさま、その頃の自分たちにワープする。
わずか2年にも満たない期間だったが、一生続く関係性が出来てしまうような日々だった。

「僕と岩田さんは今、コミュニティの中で一緒のファミリーなんだよ。」
と此処のことを殆ど知らない伸ちゃんに説明し始める。鈴鹿コミュニティは大きな家族のような暮らしをしているけど、その中に5つほどの“ファミリー”と呼ばれる集まりがあって、そのファミリーごとに、ミーティングしたり、食事したり、お互いのことを見合ったり、知り合ったりしている。僕らのファミリーでは岩田さんの絵の個展を開催したりもしたよ、この秋もやろうと思っている等々・・・
そして、話しながら、僕らはどんな“日常”を送っているんだろうと、改めて振り返って見ている自分がいる。

皐月の“さ”は、田圃の神様に捧げる稲とか、5月に植える早苗を意味するらしいが、この時期、田んぼは動き出す。
田植えはもちろんだが、それと共に蛙の大合唱が始まる。
コミュニティダイニングの窓から、道を挟んで2反ほどの小さな田んぼが見える。
夕食時、鈴鹿一帯の蛙がその田んぼに大集結しているんじゃないかと思われるほどの、オーケストラサウンドが響きわたる。
毎週木曜日の夕食は、僕らファミリーの出番で、ダイニングにやって来るコミュニティメンバーがゆったりと寛げ味わえるよう、その場を創っていく。老若男女が寄ってくる、最近入学したアカデミー生や、各地から体験や実習に来ている人たちの顔も見える、それだけでそこに行きたくなる。当番や担当感覚じゃなく、家族団欒カンカク~。
満足したみんなを送り出し、片付けが終わった後の、ファミリーメンバーでのお茶タイムも、また格別。他愛もないこと言い合って、聞き合って、時を忘れる。
「蛙って、田植えする前はどこにいたんだろう?」
「そりゃあ田んぼの中で、冬眠してたんじゃない?」
「でも、そうしたら、田植え前の耕運機のロータリーで死んじゃうよ~」
「ホントだ。じゃあ、どこかから田植えしたの見ていてやって来たのかな?」
「でも、田んぼにやって来る蛙の行列なんて見たことないぞ!」
取りあえず、ググってみる。
「え~、草むらとか山や森に居るって書いてある。」
「ここは、住宅街に“ポツンと田んぼ”だから、山や森なんて近くに無いし、草むらだって見当たらないじゃん」
話している内容は、どうでもいいようなことだけど、奈々ちゃんも、ルシオも、玲子ちゃんも、敏美ちゃんも不思議と子どもの頃のような好奇心が湧き出してくる。

後日、その田んぼの横を通った時のこと。斜め向かいの橘公園で三歳のあかりちゃんが、ちょうど遊んでいるのを見かけたので声をかけると、
「ほら、この木のこぶのなかに、カエルさんいるよ~」
と指さし教えてくれた。
「ここの草のなかには、もっとたくさんカエルさん、いるよ~」
「ええ~~~、どこどこ?」
こんな街なかでも、カエルさんの居場所はいくらでもあるんだとそりゃあ驚いて、次の木曜日、ファミリーメンバーに伝えるのが待ち遠しかった。
「どうやったら、あの蛙の大合唱が止まるか、僕は発見した」と岩田さんは語り出したり、我がファミリーでのカエル研究はまだまだ続く。

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耕一君から送られてきたLINEのメッセージに応えて、次々と足場屋さんが組んでくれた階段を上っていく、アカデミー生も、子どもたちも。錆び落としから、錆び止め、そして終盤は各ファミリーで屋根に上り、一家総出でペンキに塗(まみ)れた。
ゴールデンウィークの1週間、晴天にも恵まれて、畳にしたら500畳以上の広さの屋根をシルバーのペンキ一色に塗り替えた。まさにシルバーウィーク?!
よく八木さんが言うけど、
「僕らはとっても大きな家に住んでいる。部屋はあちこちにあって、なが~いドライブウェイを歩いて、みんなのダイニングやリビングのあるSCS(鈴鹿カルチャーステーション)にやって来る。大邸宅なんやで~。」
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“自分たちの家の大きな屋根を、自分たちで葺きなおす”。
“自分たちで葺きなおすから、もっと自分の家になる”
合掌造りで有名な白川郷での、茅葺屋根の葺き替え。『組』とか『結』とか呼ばれる集まりがあって、村中みんなで、一軒の葺き替えを一日でやってしまうとか。
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そう云えば、母の生家は山間の村にあって、茅葺屋根だった。
祖父に、「おじいちゃん、雨や雪は沁みて家の中に入ってこないの?」と訊くと、「ほら、ここで囲炉裏の火を焚いているだろ。この煙が、屋根に上っていって、茅を乾かしたり、燻(いぶ)してくれる。そうすることで、丈夫な茅葺屋根になるんだ。だから、人だけじゃなく、牛や蚕さんのお家にもなる、心配しなくていい。」と言っていた。
そんな家の中で、安心して一緒に暮らすから、近くなる、親しくなる。

家族って面白いと思う。子どもからしたら、親や祖父母や兄弟姉妹を選んだりは出来ない。
たまたま、そこに生まれて、そこの家の子になり、一緒に暮らす。
近しいから、親しいから一緒に暮らすというのでもない、始まりは。
特別な日を送っているわけでもない、一日一日何の変哲もない日常を過ごす。
でも暮らしているうちに、家族になる。いつの間にか親しく近しくなって、一生揺るがない絆が出来る。
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今の“ファミリー”も、どこか似ている。
それぞれがそのファミリーを選んだわけでもなく、たまたまファミリーになっている。

そして一緒に暮らす、特別でない当たり前の一日一日を。

もともと、近しかったり、親しいのもあるけど、一緒に暮らすから、もっともっと近くなる、溶け合っていく。
そうしたら、もっともっと一緒に暮らしたくなる。揺るぎようのない“一つ”になる。
そのファミリーだけに留まらす、コミュニティ全体にそんな気風が充満していく。
そして、コミュニティだけに留まらず・・・
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僕は、“東京若人会”の活動後、両親が願っていたのとは全く違う進路を選択した。
大反対して、悲しんだり、泣いたりした母が暫くして送ってきた手紙が、今でも机の中にある。
「お前がその道と決めたのなら、最後までやり遂げたらいい」
親の凄さを知った。文末に書かれてあった、その一言は、ずっと自分の原動力の一つになっている。
どうなっても、何をしても、家族はいつまでも家族。母や父は絶対変わらずに、自分を見てくれる、愛情を注いでくれる、そうに決まっている、嫌われたり、見放されたりする筈がない、何をやらかしても大丈夫、意識とは違う心の底辺に漂う空気みたいなものが、いつも自分をふわっと動かす追い風になってくれた。

家族として、父や母、兄や祖父母と毎日一緒に暮らす中で、形成されてきた崩れようのない透き通った気流。
そこにポワ~ンと乗っかって人を見て、人と接し、人と暮らしてきた。
たくさんの友人・仲間ができ、兄弟姉妹・家族へと間柄が深まっていった。
親になり、自分の内からも溢れ、子ども達に注ぎ続ける、汲めども尽きぬ源泉があることを知った。それが“自分の子ども限定”ではないことも程なく分かってくる。

そして、今のコミュニティでの日常。
岩田さんの絵に描かれる日常、一人ひとりの持ち場に現れる日常、暮らしの中に浮かび上がってくる日常・・・
人知れずその一隅で、それぞれの舞台(ステージ)で、工夫を凝らし愛情を込めて舞い踊る“戯れの日常”から、滲み出てくるもの・・・
この一日、一日の暮らしは、どこに繋がっていくだろう。
溢れ出てくるものを、どこに向けて行こうか。
たとえ、どんなことがあろうとも、何かやらかしても、僕の“家族”は放っておかない、誰も放っておかれない。
一蓮托生、蓮(ハス)じゃないな大船か、日々是・・・

昨夜遅くに、“ファミリー”のグループLINEに稲ちゃんが写真を送ってきた。
「うちの田んぼの上、蛍がとんでる」
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光る蛍に、目を輝かせる、あかり、こころ、はな、なつき、うみ、たつみ、さくと・・・コミュニティの子ども達の顔が次から次へと浮かんでくる。
そろそろ、田んぼは初夏の賑わいだ。
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コミュニティ歳時記 5月号 【積み木遊び】

【積み木遊び】

小学校3年生の夏のことだったと思う。
当時所属していた少年合唱団の合宿があった。
毎年夏休みに、北アルプス燕岳の玄関口・中房温泉で開かれていた小学生50人くらいの恒例行事。ガードレールもない狭い砂利道を、何十分もバスに揺られて登っていく。
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そこは標高1,462メートルの高地。雄壮な渓流の脇にある山小屋風の大きな建物で寝泊まりし、さらにそこから長い階段を昇っていくと、立派な屋内温泉プールがあった。
様々な思い出が蘇ってくるが、肝心の合唱練習をした記憶が全く出てこないのに、笑ってしまう。

その夏、合宿最終日の前夜、山の天気は荒れに荒れた。
翌朝、外に出てみると、あれほど澄んでいた渓流が茶色の濁流と化し水飛沫(みずしぶき)に覆われ、大きな岩がゴロゴロ音を立てて流されていた。
僕らは、その凄まじさに歓声を上げた。
程なく、合唱団の先生たちから、伝えられた。
「山道で数か所、崖崩れがあった。今日は山を下りられない。」
僕らは、またまた歓声を上げた。
「もっと、ここにみんなと居られる。」
「やったー、何して遊ぼう。」
「先生、もう合唱練習しないよね!」
「・・・・・」
崖崩れが嬉しかった。
もう、そこからは愉しいばかり、パラダイス。
濁流見学に駆け回ったり、トランプや卓球をしたり、茶色で底が見えない温泉プールに潜って忍者ごっこしたり、テレビで高校野球を観戦したり、遊びたい放題。
何日居たのかは分からないが、途中食糧が底を突き、リュックを背負って山道を登ってきてくれた救助隊から、お握りをもらって頬張り、また歓声を上げた。

今の御時世なら、
『崖崩れで、中房温泉に取り残された児童たち、孤立無援状態に』
と全国ニュースになっていたような事態だったのかもしれない。
きっと、大人たちも大らかだったのだろうし、僕たち子どもは、ただただ喜んで遊び呆けていた。不安とか心配とか、皆無だった気がする。
何かあったみたいだけど、まあそれも大人たちが何とかしてくれるんだろう~、そんな意識があったかどうかは分からないが、丸ごと委ねて安心の胎水(うみ)にぷかぷか浮かんでた。
おそらく、誰もがそれと似たような経験をしてきているんじゃないだろうか。

「よく、こんな状況で、子どもたちは笑ったり遊んだりしていられるなぁ。」
そんな光景を目にすることがある。最近はとみに。その姿に驚いたり、と同時にどこかホッと安堵したりもするけど、僕たち人間の元々の本性って、その辺にあるのかなとも思う。
電車やバスに乗って、すぐ居眠りしてしまうのも、
水でも食べ物でも、すぐに口に入れてしまうのも、
どこで誰と居ても、そこの空気を吸って吐いて平気でいられるのも、
そんな本性の成せる業。
一日のほとんどは、そうやって油断して過ごしている。
自然や、社会や、ヒトのこといちいち疑っていない。
誰が運転しているかとか、誰がこれを作ったのかとか、
いちいち確かめたりしないで、力抜いて無防備に生きている。

“脱力” といえば
鈴鹿カルチャーステーションの真向かいに、子どもたちの体操教室がある。
大きなガラス窓があって、連日外から子どもの勇姿を見ようと親たちの人だかりができる。
ちょうど、正面が鉄棒で、気持ちよさそうに大車輪をしている男の子の姿が道を挟んで、目に飛び込んできた。
逆上がりするのだって、とっても力使うのに、なんと悠々と回っていることかと不思議な感じがした。
ずっと、“脱力”しているように見えて、観察してみる。
身体が鞭のように柔軟にしなっている。手もギュッと鉄棒を握り締めずに、何本かの指は浮いている。きっと体幹とか必要なところだけは効率的に働いていて、余分なところに力が入っていないのだろう。
我が身を振り返って、いちいち周りを警戒して防御して、全筋肉・心までカッチコチにしていたら、人生の大車輪は出来ないだろうなと思う。気持ちよく回り続けるのには、そしていつまでも遊び呆けるには、余計な力抜いて、油断して、本性のままにかな。
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さて、コミュニティのセンター的な位置にある鈴鹿カルチャーステーションでは“恒例”の改装工事が始まっている。2010年の開館以来、何度となく行われている改装工事。
何度か来訪される人たちからは、「また、どこそこ変わりました?」とよく訊かれることがあるが、その通りなのだ。
傍から見れば、なんと無計画な、なんと非効率な、と映るかもしれない。
確かに、もっと先が描けていたらこうしていたのにと反省することも多々あるので、それはこれからの課題にするとして、今回はこの春アカデミーに入学した韓国の5人や、それに続く青年たちの動きに向けての拡張工事が進められている。
手掛けているのは、コミュニティの大工、本山さん。
ここだけでなく、コミュニティの会社や施設、それぞれが暮らす家など、何かあったら、
「本山さ~ん」
と声がかかる。
「トイレが詰まっちゃった~」
「壁紙が剥がれてきた」
「エアコン取り替えてほしい」
「床にワックスかけたい」
「屋根の錆び落とししたい」
「・・・」
いつでも何度でもどんなことでも、そうやって声をかけられる、その安心感というか親しさと云ったら表現のしようがない。もう空気を吸うように当たり前になってしまっているけど、コミュニティの一人ひとりの心の中に、それは染み渡っている。
そして、そこに応えてくれる本山さんが居る。
これも当たり前だけど、「なんで、そんなことしたの」って咎められたことないなあ。
「どんな風にしたい?」
こうしようか、ああしようかと、打ち合わせしているだけでも心地よくて、愉しくなってくる。途中のいろんな変更にも、「はいよ~」と対応してくれるから全然難しくない。だから、気兼ねなく何度でも言えるし、訊ける。そして、最終的に直してもらったり、作ってもらったりして、満々満足~。
僕にとっては、頼りになる兄貴が、よしっ任せとけって、いつも大工道具担いで大家族の中に控えて居てくれている感じ。全面的にお任せ、お任せ~
HUB職場で一緒に仕事をしている八木さんは、
「いっぱい直してもらったけど、本山さんにお礼の一つも言ったことないわ~」
と笑っていた。そういう関係、そういうお互い。
こういう一人の人の存在って、ホントに大きいと思う。
iOS の画像 (1).jpg
(コミュニティの大工、本山さん。1番左)
今の改装も、大の大人が寄って集って『積み木遊び』をしているようなもの。
「ダイニング広げたいから、隣の食品保管庫を空にしたい。」
「じゃあ、こっちの面談室を保管庫にして・・・」
「衣類置き場を移動して、あそこを面談室にリニュアルしよう。」
「衣類置き場の開き戸は、そのまま保管庫に取り付けられるなあ。」
「もっと広げたいから、廊下もダイニングにできないかな?」
「それなら、廊下にあった一時荷物置き場を、ここの倉庫の部屋ぶち抜いて移そう。」
「・・・・・・・・」
出るわ出るわ、名案、凡案、珍案、そして徐々に皆の中で浮かび上がってくるブレークスルーなアイディア。
5月の終わり頃、ひとまず完成予定だけど、どうなっているだろう。
その頃、訪れる人の眼にはどう映るかな。
積んでは崩し、また積んで・・・
積み木組むのも愉し、積み木崩しもまた愉し。

ちょっと機密情報になるけど、八木さんの【好きな動物は?】の答えは、【ヒト】。
積み木遊びも、ヒトとやるから面白い。
ヒトが寄るから、どんどん面白い積み木が出来ていく。
(周りに人が居るから緊張するとか、誰それの言動に不安になるとか)、
いつの間にか身に付いちゃった“有りもしない迷路”に嵌まるクセはあったとしても、
そこからスルリと抜け出てみれば、目の前に居るのは所詮ヒト、そのヒトが見えてくる。
あなたもヒト、わたしもヒト、ヒトとヒトが出会って、さあ何して遊ぼうか・・・
ヒトの中に居て、安心だから、積み木に遊び呆けていられる。
いつも周りにヒトが居るから、積み木が崩れることへの恐れがない、崩れても心配がない。
ヒトと一緒に流されて行くなら、清流でも濁流でもその愉しさに変わりはない。

僕の【好きな動物?】も、やっぱり【ヒト】です。
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