コミュニティ歳時記2月号 【私の中にその人が生きている】
頬を刺すような感触で目が覚めた。
元旦の朝のことである。
何事かと、布団の中から辺りを伺うと、隣の居間のサッシが全開になっている。
何やら音のしている方を見やると、兄が床を丹念に磨いていた。
「あっ、和貴くん、目覚めちまったか!どうもこの家はいつも住んでないからか、汚れていていけねえ・・・」
そう言いながら、兄の手は止まることなく、台所の方へと進んでいく。外気温は-10度。
昨日から、兄と僕は高齢の両親の様子を見がてら正月を過ごそうと、生まれ育った信州・松本に来ている。
僕の長男・正和と次女・和夏菜も来るというので、市内で両親がやっている会社兼自宅からは、車で10数分離れた山の麓にあるセカンドハウスに泊まることになったのだ。
暫くして、両親もやって来た。ずっと家の中の掃除をしている兄を見て、母は、
「まったく正月の朝っぱらから掃除をしてるなんて笑われちまうぞ。どうもこの子は偏っていていけねえ。」
と呆れている。
昼には皆で御節を戴いたり、その後僕と子ども達は抜けるような青空のもと、北アルプスが望める展望台に行ったり、神社にお参りしたり、夕方には初風呂を美ヶ原温泉でと愉しんで、夜にまた鍋を囲んだのだが、どうも和夏菜の調子がおかしい。最初は、
「鼻が出てきて、折角のご馳走なのにちゃんと味がしない」
と笑ってボヤいていたが、咳も出てきて、医者をしている兄が触診すると、熱もあるし、コロナかインフルエンザに感染した可能性もあると。
「え~、おじいちゃんおばあちゃんがコロナに罹ったら大変だと思って、来る前日にPCR検査、当日に抗原検査もしてどちらも陰性だったのに~。」
と和夏菜。
兄の指示で、鼻腔用の検査キットを買いに正和と車を走らせる。日中は開いていたドラッグストアも、夜はどこも閉まっていて、街中探してようやく一軒見つけた。
「元旦の夜までやっていてくれたんですね。ホントに助かります。」
とつい口から言葉がこぼれる。
果たして、インフルエンザは陰性、コロナ陽性だった。
和夏菜は、すぐに部屋に隔離。あとは全員濃厚接触者に。
兄も僕も3日には帰る予定にしていたので、それぞれ対応が始まる。
特に兄は、すぐに勤務する病院の当直の先生に電話を入れ、4日以降の手術の延期などを手配していた。
1月3日、兄が全員の検査をして、みな陰性。
1月4日、この日陰性なら正和は電車で帰れるということだったが、検査の結果は陽性。
両親も陽性だった。僕と兄は陰性で、両親と子ども達、二箇所の隔離生活を看ることになった。かかりつけの病院に連れて行き、陽性証明をもらったり、保健所と連絡を取ったり、食事など生活面のサポートをしたり、やることは結構ある。
結局、僕と子ども達が帰れたのは、12日。
高齢で基礎疾患もある両親だったが、ワクチンのお陰もあってか重篤な状態にはならず乗り切ることが出来た。
兄は、これ以上患者さんの手術を延ばすわけにはいかないと先に帰った。
図らずも1週間兄と、2週間両親と過ごすことになった。おそらく、高校生以来のことだと思う。毎日、兄と食材を買いにスーパーに行った。
「この47円の水戸納豆にしよう、安くて美味しそうだから」
とか言いながら買い物をする。こんなのも小学生の遠足の前日に、おやつを二人で買いに行った時以来だろう。
家には、僕らが子どもの頃に作った戦車や飛行機のプラモデルがガラスケースに陳列されてあった。どれがどちらの作ったものか一目で分かる。
兄のはどれも精密精緻、趣向を凝らした独自の塗装までしてあって、今にでも動き出しそうなリアル感を放っている。僕のはと言うと、あちこち取れていたり、壊れていたり、作り殴った感が否めない。
学校の自由研究でも、兄はマウスに食品添加物を与える実験をして解剖したり分析したりして県の科学賞を取ったのに対し、僕はその真似ごとをするのだが、まともな結果を出したことは一度もなくいつも中途半端。
高校まで同じ学校だったから、定期テストは兄のを引っ張り出して一夜漬けすると、似たような問題がよく出てきて、その時だけいい点は取るけど、実力は全然付かず。
1歳4カ月、2学年上の兄をいつも追いかけて、追いかけて、・・でも追い付けず。
毎日淡々とコツコツと感情の起伏無く・・・優秀な人というのは、こういう人なんだろうなと、自分には到底成れないけど、そんな兄が誇らしくて自慢ばかりしていた。
兄が医者になると知った時、こういう人にみんな診てもらいたいだろうなと思った。
兄が先に帰った後、アルバムなどの整理をしていたら、高校時代の兄の内申書が出てきた。
受験する大学に提出する筈のものが何故そこにあるのかは謎だが、殆どオール5の最後の所見のところに、
『温和で明るい性格・・・・・・(ずっと素行の良さなどが続いて)・・・・・。ただ几帳面なところ有り。』
と書かれてあって、思わず笑った。
何十冊ものアルバムの中には、兄と僕が一緒に写っているものもたくさんあった。
兄とは、16歳までずっと同じ部屋で暮らしていたから、両親よりも誰よりも密な時間を過ごしてきたんだなと改めて思う。
家の中、庭で、公園で、親戚の家で、旅行先で、いつも二人で並んで写っている。
撮っていたのは、母か父が圧倒的に多いだろうが、どんな思いで僕らを見つめてカメラのシャッターを押していたんだろう?
僕はいつも兄のように上手に丁寧には出来なかったけれども、両親から兄のように成るようにと強いられたり責められたりした記憶が一切無い。
見事な兄のプラモデルと、壊れかけの僕のプラモデルを並べて愉しんで鑑賞するように、それぞれ異う兄と僕を、見続けている目。押されたシャッターの数はたかだか数百くらいかもしれないが、親の瞳のシャッターは無数に押されていたのだろう。
そしていつも隣に居た兄は、離れて暮らすようになった今も僕の中で生きている。
大人になって、兄に叱られたことが一度だけある。
4年前、和夏菜が大学のサークル活動でウガンダにボランティアに行った時のこと。
息も絶え絶えの電話が本人から入り、遠隔で兄に診断してもらったら、特定の抗生剤を投与しないと死に至るとのことだった。
その時和夏菜はウガンダの農村部にいたから医者も居ないし、病院もないし、僕はなんとかしなくては、ウガンダでその疾患に対応可能な病院を探さなくてはと、必死になっていた。分からないことも多く、兄に何度も連絡を取っている中で、病院の事務の方に兄の診察中にまで電話を繋げてもらおうとした。
「和貴くん、気持ちは分かるけど、患者は和夏菜一人じゃないんだぞ!」
と一喝され、暫く待っているように諭された。
結局兄がその抗生剤のデータを先方の病院に送ってくれ、現地のスタッフの人が何時間もかけて和夏菜を病院まで搬送してくれて事無きを得たのだが、僕にとっては、何十年も一つ一つの命と向き合ってきた兄の仕事に対する厳しさ・人に対する優しさを知る機会になった。子どもの時には見ることの無かった兄の姿だった。
2週間ぶりに鈴鹿に帰って来ると、いろんな人から、おかえり! とか どうだった? と声を掛けられた。両親や子ども達のコロナ対応していることは何人かの人にしか連絡していなかったから、ちょっとビックリ!
月に一度か二度しか会わないような人からも、ご両親大丈夫なん? と訊かれたりするとなんか不可思議な気分。日頃殆ど話すことのないアカデミー生からも、松本どうだったの? の問いかけに“何でそこまで知ってるんだろう?”と頭の中に疑問符が並ぶ。
鈴鹿コミュニティでの情報伝達システムというのはどうなっているんだっけ?
以前、“ここでは噂話とか噂が広まるとかって全然ないよね、なんでだろう?”というようなことが話題になったことがあった。最近は“噂”というもの自体聞くこともなく、ほど遠く感じていた。
でも、それとは裏腹に“お互いの存在をどこかで感じ合っている”といったことがあるのだろうか? “あの人最近見ないけどどうしているんだろう?”みたいな。
お互いの中に、うっすらとでもその人が生きているような。
偶々、鈴鹿ツアーに来た人たちの懇談会に出た時、参加者の一人から、
「それだけコミュニティが家族のような親しい関係になると、もともとの家族とはどうなっちゃうんですか?」
と尋ねられたので、2週間のコロナ対応生活のことやら話したのだが、もともとの家族もコミュニティの大きな家族も、どこからどこと切れるようなものは僕の中には何もない気がする。
ただ、わざわざ今鈴鹿で何をやろうとして活動しているのか、暮らしているのだろうかと、自分の方に問いかけの矢が向いてくるようにも思った。
お馴染みの木1ファミリーのミーティングの中で、敏美ちゃんがこんなことを言っていた。
「ミーティングをしてて、なぜだか分からないけど、何度となく自分の父と母の姿が浮かんでくる。
言葉で表すと、私や弟妹に自分のすべてを注ごうとしているような姿かな。
何々してくれたとか、そういうのじゃない、その元にあるものなのかな?
なぜだか浮かんでくる。
私も出産した時、生まれてきた子を抱きかかえながら“よく生まれてきてくれたね~”って、すべてを注ぎたい愛おしさが湧き出てきた。おっぱいが自然に出てくるように。
いつの間にか私の中に親の姿が宿っているのかな?
2人とも随分前に亡くなっていて、もう私は両親が亡くなった時の年齢を越えてるんだけどね、私の中に親の姿があるみたい。
それが、本当の親の姿かどうかは分からないけど。
今、チェリッシュの子ども達に水泳を教えてるんだけど、その時自分の持っているものすべてを注ぎたい~って、それが湧き上がってきてしまう。
不思議だけど・・・」
自分は生きているんだと
偉そうに思ったりするけど、
生きているのは、
生かされている。
私の中に、その人が生きている。
たくさんの人が生きている。
好きとか嫌いとか、
良いとか悪いとか関係なく
私の中に宿っている人、人、人・・・
私の中の、その人と生きている
私の中の、その人で生きている
人って面白い
元旦の朝のことである。
何事かと、布団の中から辺りを伺うと、隣の居間のサッシが全開になっている。
何やら音のしている方を見やると、兄が床を丹念に磨いていた。
「あっ、和貴くん、目覚めちまったか!どうもこの家はいつも住んでないからか、汚れていていけねえ・・・」
そう言いながら、兄の手は止まることなく、台所の方へと進んでいく。外気温は-10度。
昨日から、兄と僕は高齢の両親の様子を見がてら正月を過ごそうと、生まれ育った信州・松本に来ている。
僕の長男・正和と次女・和夏菜も来るというので、市内で両親がやっている会社兼自宅からは、車で10数分離れた山の麓にあるセカンドハウスに泊まることになったのだ。
暫くして、両親もやって来た。ずっと家の中の掃除をしている兄を見て、母は、
「まったく正月の朝っぱらから掃除をしてるなんて笑われちまうぞ。どうもこの子は偏っていていけねえ。」
と呆れている。
昼には皆で御節を戴いたり、その後僕と子ども達は抜けるような青空のもと、北アルプスが望める展望台に行ったり、神社にお参りしたり、夕方には初風呂を美ヶ原温泉でと愉しんで、夜にまた鍋を囲んだのだが、どうも和夏菜の調子がおかしい。最初は、
「鼻が出てきて、折角のご馳走なのにちゃんと味がしない」
と笑ってボヤいていたが、咳も出てきて、医者をしている兄が触診すると、熱もあるし、コロナかインフルエンザに感染した可能性もあると。
「え~、おじいちゃんおばあちゃんがコロナに罹ったら大変だと思って、来る前日にPCR検査、当日に抗原検査もしてどちらも陰性だったのに~。」
と和夏菜。
兄の指示で、鼻腔用の検査キットを買いに正和と車を走らせる。日中は開いていたドラッグストアも、夜はどこも閉まっていて、街中探してようやく一軒見つけた。
「元旦の夜までやっていてくれたんですね。ホントに助かります。」
とつい口から言葉がこぼれる。
果たして、インフルエンザは陰性、コロナ陽性だった。
和夏菜は、すぐに部屋に隔離。あとは全員濃厚接触者に。
兄も僕も3日には帰る予定にしていたので、それぞれ対応が始まる。
特に兄は、すぐに勤務する病院の当直の先生に電話を入れ、4日以降の手術の延期などを手配していた。
1月3日、兄が全員の検査をして、みな陰性。
1月4日、この日陰性なら正和は電車で帰れるということだったが、検査の結果は陽性。
両親も陽性だった。僕と兄は陰性で、両親と子ども達、二箇所の隔離生活を看ることになった。かかりつけの病院に連れて行き、陽性証明をもらったり、保健所と連絡を取ったり、食事など生活面のサポートをしたり、やることは結構ある。
結局、僕と子ども達が帰れたのは、12日。
高齢で基礎疾患もある両親だったが、ワクチンのお陰もあってか重篤な状態にはならず乗り切ることが出来た。
兄は、これ以上患者さんの手術を延ばすわけにはいかないと先に帰った。
図らずも1週間兄と、2週間両親と過ごすことになった。おそらく、高校生以来のことだと思う。毎日、兄と食材を買いにスーパーに行った。
「この47円の水戸納豆にしよう、安くて美味しそうだから」
とか言いながら買い物をする。こんなのも小学生の遠足の前日に、おやつを二人で買いに行った時以来だろう。
家には、僕らが子どもの頃に作った戦車や飛行機のプラモデルがガラスケースに陳列されてあった。どれがどちらの作ったものか一目で分かる。
兄のはどれも精密精緻、趣向を凝らした独自の塗装までしてあって、今にでも動き出しそうなリアル感を放っている。僕のはと言うと、あちこち取れていたり、壊れていたり、作り殴った感が否めない。
学校の自由研究でも、兄はマウスに食品添加物を与える実験をして解剖したり分析したりして県の科学賞を取ったのに対し、僕はその真似ごとをするのだが、まともな結果を出したことは一度もなくいつも中途半端。
高校まで同じ学校だったから、定期テストは兄のを引っ張り出して一夜漬けすると、似たような問題がよく出てきて、その時だけいい点は取るけど、実力は全然付かず。
1歳4カ月、2学年上の兄をいつも追いかけて、追いかけて、・・でも追い付けず。
毎日淡々とコツコツと感情の起伏無く・・・優秀な人というのは、こういう人なんだろうなと、自分には到底成れないけど、そんな兄が誇らしくて自慢ばかりしていた。
兄が医者になると知った時、こういう人にみんな診てもらいたいだろうなと思った。
兄が先に帰った後、アルバムなどの整理をしていたら、高校時代の兄の内申書が出てきた。
受験する大学に提出する筈のものが何故そこにあるのかは謎だが、殆どオール5の最後の所見のところに、
『温和で明るい性格・・・・・・(ずっと素行の良さなどが続いて)・・・・・。ただ几帳面なところ有り。』
と書かれてあって、思わず笑った。
何十冊ものアルバムの中には、兄と僕が一緒に写っているものもたくさんあった。
兄とは、16歳までずっと同じ部屋で暮らしていたから、両親よりも誰よりも密な時間を過ごしてきたんだなと改めて思う。
家の中、庭で、公園で、親戚の家で、旅行先で、いつも二人で並んで写っている。
撮っていたのは、母か父が圧倒的に多いだろうが、どんな思いで僕らを見つめてカメラのシャッターを押していたんだろう?
僕はいつも兄のように上手に丁寧には出来なかったけれども、両親から兄のように成るようにと強いられたり責められたりした記憶が一切無い。
見事な兄のプラモデルと、壊れかけの僕のプラモデルを並べて愉しんで鑑賞するように、それぞれ異う兄と僕を、見続けている目。押されたシャッターの数はたかだか数百くらいかもしれないが、親の瞳のシャッターは無数に押されていたのだろう。
そしていつも隣に居た兄は、離れて暮らすようになった今も僕の中で生きている。
大人になって、兄に叱られたことが一度だけある。
4年前、和夏菜が大学のサークル活動でウガンダにボランティアに行った時のこと。
息も絶え絶えの電話が本人から入り、遠隔で兄に診断してもらったら、特定の抗生剤を投与しないと死に至るとのことだった。
その時和夏菜はウガンダの農村部にいたから医者も居ないし、病院もないし、僕はなんとかしなくては、ウガンダでその疾患に対応可能な病院を探さなくてはと、必死になっていた。分からないことも多く、兄に何度も連絡を取っている中で、病院の事務の方に兄の診察中にまで電話を繋げてもらおうとした。
「和貴くん、気持ちは分かるけど、患者は和夏菜一人じゃないんだぞ!」
と一喝され、暫く待っているように諭された。
結局兄がその抗生剤のデータを先方の病院に送ってくれ、現地のスタッフの人が何時間もかけて和夏菜を病院まで搬送してくれて事無きを得たのだが、僕にとっては、何十年も一つ一つの命と向き合ってきた兄の仕事に対する厳しさ・人に対する優しさを知る機会になった。子どもの時には見ることの無かった兄の姿だった。
2週間ぶりに鈴鹿に帰って来ると、いろんな人から、おかえり! とか どうだった? と声を掛けられた。両親や子ども達のコロナ対応していることは何人かの人にしか連絡していなかったから、ちょっとビックリ!
月に一度か二度しか会わないような人からも、ご両親大丈夫なん? と訊かれたりするとなんか不可思議な気分。日頃殆ど話すことのないアカデミー生からも、松本どうだったの? の問いかけに“何でそこまで知ってるんだろう?”と頭の中に疑問符が並ぶ。
鈴鹿コミュニティでの情報伝達システムというのはどうなっているんだっけ?
以前、“ここでは噂話とか噂が広まるとかって全然ないよね、なんでだろう?”というようなことが話題になったことがあった。最近は“噂”というもの自体聞くこともなく、ほど遠く感じていた。
でも、それとは裏腹に“お互いの存在をどこかで感じ合っている”といったことがあるのだろうか? “あの人最近見ないけどどうしているんだろう?”みたいな。
お互いの中に、うっすらとでもその人が生きているような。
偶々、鈴鹿ツアーに来た人たちの懇談会に出た時、参加者の一人から、
「それだけコミュニティが家族のような親しい関係になると、もともとの家族とはどうなっちゃうんですか?」
と尋ねられたので、2週間のコロナ対応生活のことやら話したのだが、もともとの家族もコミュニティの大きな家族も、どこからどこと切れるようなものは僕の中には何もない気がする。
ただ、わざわざ今鈴鹿で何をやろうとして活動しているのか、暮らしているのだろうかと、自分の方に問いかけの矢が向いてくるようにも思った。
お馴染みの木1ファミリーのミーティングの中で、敏美ちゃんがこんなことを言っていた。
「ミーティングをしてて、なぜだか分からないけど、何度となく自分の父と母の姿が浮かんでくる。
言葉で表すと、私や弟妹に自分のすべてを注ごうとしているような姿かな。
何々してくれたとか、そういうのじゃない、その元にあるものなのかな?
なぜだか浮かんでくる。
私も出産した時、生まれてきた子を抱きかかえながら“よく生まれてきてくれたね~”って、すべてを注ぎたい愛おしさが湧き出てきた。おっぱいが自然に出てくるように。
いつの間にか私の中に親の姿が宿っているのかな?
2人とも随分前に亡くなっていて、もう私は両親が亡くなった時の年齢を越えてるんだけどね、私の中に親の姿があるみたい。
それが、本当の親の姿かどうかは分からないけど。
今、チェリッシュの子ども達に水泳を教えてるんだけど、その時自分の持っているものすべてを注ぎたい~って、それが湧き上がってきてしまう。
不思議だけど・・・」
自分は生きているんだと
偉そうに思ったりするけど、
生きているのは、
生かされている。
私の中に、その人が生きている。
たくさんの人が生きている。
好きとか嫌いとか、
良いとか悪いとか関係なく
私の中に宿っている人、人、人・・・
私の中の、その人と生きている
私の中の、その人で生きている
人って面白い
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