「幸福」について
アズワンコミュニティは、
「人が生きている・・・とは、どういうことなんだろう?!」
という問いから始まったコミュニティなのかもしれません。
先日、サイエンズスクールの「人生を知るためのコース」に参加した宮地さんの感想を紹介したいと思います。
以下、感想です。
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<感想、つれづれ>
「人が生きている・・・とは、どういうことなんだろう?!」
という問いから始まったコミュニティなのかもしれません。
先日、サイエンズスクールの「人生を知るためのコース」に参加した宮地さんの感想を紹介したいと思います。
「人生を知るためのコース」という合宿のセミナーに参加してきた。
66歳になって、こんなこと考えるのは手遅れという気持ちもないわけ
ではないが、いのちある限り、こういうことについて、自分の中も含めて、
しらべらるのは幸せとも感じる。
今回で「人生を知った」わけではない。
「人生を知るためのポイント」、どこに焦点をあてるか、そこをじっくり検べた。
今から、始まると感じている。
以下、感想です。
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<感想、つれづれ>
咳が出る。カラダがだるい。目蓋のあたりがドヨンとしている。
お医者さんからは「風邪です。そのうちよくなります」と聞いていた。
コースの間、検討会と食事とお風呂、ときどきの散歩以外、
ほとんど目をつぶり、横になっていた。
夜も意識がさめるときはあるけど、ずっと目を閉じていて、
いつのまにかまどろんでいる。
まどろんでいるのが不快でない。
目を開けるのが大儀で、閉じていると楽。
5日目ぐらいから、目を開いていて違和感がなくなった。
検討会は、結構起きておれた。
昨年暮れの心臓がとまったときのこと、何回も思い出した。
あのときは、息をすることさえ、他の人や機器の手助けで、やっと生きていた。
すべて周囲の人にやってもらって、自分のやることといったら、
”生きている”ことだけだった。
生きている!そのことだけでよろこびがあった。
あれから5カ月。
どこかに「なるべく人にたよらないで生きていこう」
という思いで暮らしているのを感じる。
妻が内観で1週間不在のとき。
始め、その思いで始めたが、
そのうち「早く帰ってきてほしい」となってきた。
「人にたよらないで」という思いって、なにか無理がないか?
自分とは、どういうものか?
人とはどういうものか?
自分一人では生きてはいけない・・・、
とかわかったようなこといってはおりますが、
「そう、思っている」だけではありませんか?
実際を”知って”の上のことでしょうか?
「料理を自分で作って食べた」、といっても、
ただそれだけのことで、
「たよらずに暮らせたなんて・・・」
「受けて喜ぶ」
このことが、自分の心に入ってきたときがあった。
「自分」「自分」って、いってるけど、
自分というのは、受けて、受けて、受けて、そうしてやっと生きられている。
そのことを、そのまま受け取ることができたら、
喜びが自ずから湧いてくるのではないか?
何を自分としているか?
「自分の人生を語る」、を発表した。
後で検討してみると、自分が思ってしたこと、やって思ったこと、
をいろいろ思い出しながら表現している。
思ったこと、やったことが、人生なのか?
自分は、人は、確かに何かをしたり、いろいろあらわしたりしている。
それはそれとして、そうあらわれてくるもとの、心の中で、
どんなことが起きているのか、
こころの実際はどうなっているのか、
そこには焦点をあてていないことに気づいた。
そこを随分じっくり観ることができた感じがある。
人には心があって、そこで起きたことがあらわれてくるのだろうが、
思ったことの、そのもっと底にあるものを、観ようとした。
底が観ようとしても、観えない。観えなくても、観ようとした。
劣等感について、はじめて、自分と向き合った感じがした。
子どもの頃、我が家がガラクタが積んである家、両親が時代に乗り遅れた変人、それが恥ずかしかった。
そういう思い方というのは、暗い、いやな感じ。
そういう気持ちを直接、父や母にあらわしたら、
向けられた父や母に嫌な思いをさせたのはもちろん、
自分も、あとでとりわけ自己嫌悪に落ち込んだ。
そういう劣等感から生じる嫌な感じを、
人生を深く感じる糧ぐらいに思いこもうとして、
取り繕ってきたんじゃないか、と見えてきた。
自分の心の底にあって、周囲環境、かかわった人、状況はちがっても、
絶えず自分であろうとするもの、自分がこの世に生をうけて、
一貫してなにかになろうとしている、
そういうものが実在しているのかもしれない。
それを表現したら、健康正常になろうとするはたらき。
嫌な感じというのは、このはたらきがあるから、
自分の心の中に起きてくるのではないか?
カラダの変調には、気付きやすい。
心の変調には、関心がいきにくい。
こういうもんだ、として、心になにが起きているのかさえ見ないことも多い。
見ても、そこから逃れる、対処を考えてきた。
それが、あたりまえだった。
自分というとき、人というとき、カラダの健康はもちろん大事だが、
心に健康正常になろうとするものが、実在しているとしたら、
それが妨げられているとしたら、
それこそまっさきに、取り除くということになるだろう。
安心。
カラダも66年の間に、現れているものは、いろいろ変わってきている。
カラダに機器を埋め込んだ。
それでも、なにかになろうとしているものがあり、それになっている。
劣等感で自他を苦しめ、迷惑もかけてきたが、幸福のなんたるかを知った今、
そこが自分の中にも、社会のなかにも、無いのが当たり前。
「知る」、というのは観るというところから始まり、
知性のはたらき。
「私の人生はなにをしようとしている人生か?」
知性を使って、どこまでも幸福を実現していこうとすること。
当たり前の姿を昼の世界にはっきりさせて、やれるところから、幸福になるように、
そうなるようにやればいい。
自分の中に、もやもや、嫌な感じがでてきたら、
「当たり前の姿になること、どっかで邪魔してないかい?」と
自分の中や、周囲環境の中に、そうなっていかない原因はないかとしらべ、
知的に検討して取り除いていく。
不幸な人が一人でもいたら、自分の健康正常はないように思う。
「なんとかならないか」というものが、湧いてくる。
社会の当たり前の姿も、知的に調べていきたい。
当たり前の姿になるのが、楽で安心だと思う。
そうならない原因を見つけ出し、取り除いていきたい。
ずっと、自分の中を、人というものを、調べてきて、
今思うこと。
「思う」が、「そうだ」になりやすい。
・・・それでも人と共に、なけなしのもをはたいても幸福を実現していきたい。
今から、始まるか・・・
【 続 き を 閉 じ る 】
お医者さんからは「風邪です。そのうちよくなります」と聞いていた。
コースの間、検討会と食事とお風呂、ときどきの散歩以外、
ほとんど目をつぶり、横になっていた。
夜も意識がさめるときはあるけど、ずっと目を閉じていて、
いつのまにかまどろんでいる。
まどろんでいるのが不快でない。
目を開けるのが大儀で、閉じていると楽。
5日目ぐらいから、目を開いていて違和感がなくなった。
検討会は、結構起きておれた。
昨年暮れの心臓がとまったときのこと、何回も思い出した。
あのときは、息をすることさえ、他の人や機器の手助けで、やっと生きていた。
すべて周囲の人にやってもらって、自分のやることといったら、
”生きている”ことだけだった。
生きている!そのことだけでよろこびがあった。
あれから5カ月。
どこかに「なるべく人にたよらないで生きていこう」
という思いで暮らしているのを感じる。
妻が内観で1週間不在のとき。
始め、その思いで始めたが、
そのうち「早く帰ってきてほしい」となってきた。
「人にたよらないで」という思いって、なにか無理がないか?
自分とは、どういうものか?
人とはどういうものか?
自分一人では生きてはいけない・・・、
とかわかったようなこといってはおりますが、
「そう、思っている」だけではありませんか?
実際を”知って”の上のことでしょうか?
「料理を自分で作って食べた」、といっても、
ただそれだけのことで、
「たよらずに暮らせたなんて・・・」
「受けて喜ぶ」
このことが、自分の心に入ってきたときがあった。
「自分」「自分」って、いってるけど、
自分というのは、受けて、受けて、受けて、そうしてやっと生きられている。
そのことを、そのまま受け取ることができたら、
喜びが自ずから湧いてくるのではないか?
何を自分としているか?
「自分の人生を語る」、を発表した。
後で検討してみると、自分が思ってしたこと、やって思ったこと、
をいろいろ思い出しながら表現している。
思ったこと、やったことが、人生なのか?
自分は、人は、確かに何かをしたり、いろいろあらわしたりしている。
それはそれとして、そうあらわれてくるもとの、心の中で、
どんなことが起きているのか、
こころの実際はどうなっているのか、
そこには焦点をあてていないことに気づいた。
そこを随分じっくり観ることができた感じがある。
人には心があって、そこで起きたことがあらわれてくるのだろうが、
思ったことの、そのもっと底にあるものを、観ようとした。
底が観ようとしても、観えない。観えなくても、観ようとした。
劣等感について、はじめて、自分と向き合った感じがした。
子どもの頃、我が家がガラクタが積んである家、両親が時代に乗り遅れた変人、それが恥ずかしかった。
そういう思い方というのは、暗い、いやな感じ。
そういう気持ちを直接、父や母にあらわしたら、
向けられた父や母に嫌な思いをさせたのはもちろん、
自分も、あとでとりわけ自己嫌悪に落ち込んだ。
そういう劣等感から生じる嫌な感じを、
人生を深く感じる糧ぐらいに思いこもうとして、
取り繕ってきたんじゃないか、と見えてきた。
自分の心の底にあって、周囲環境、かかわった人、状況はちがっても、
絶えず自分であろうとするもの、自分がこの世に生をうけて、
一貫してなにかになろうとしている、
そういうものが実在しているのかもしれない。
それを表現したら、健康正常になろうとするはたらき。
嫌な感じというのは、このはたらきがあるから、
自分の心の中に起きてくるのではないか?
カラダの変調には、気付きやすい。
心の変調には、関心がいきにくい。
こういうもんだ、として、心になにが起きているのかさえ見ないことも多い。
見ても、そこから逃れる、対処を考えてきた。
それが、あたりまえだった。
自分というとき、人というとき、カラダの健康はもちろん大事だが、
心に健康正常になろうとするものが、実在しているとしたら、
それが妨げられているとしたら、
それこそまっさきに、取り除くということになるだろう。
安心。
受けている実際を知ったら、喜びが湧いてくるだろう。
心が豊かになったら、
心に満ちてくるものがあるだろう。
人の成長とは、
心が豊かになっていくことではないか。
自分の中にあって、
なっていこうとしているものを知ること。
幸福は、他から何かをもってくるとか、
心の中の足りないところを、
何かで満たそうとするとかではないらしい。
自分の中にある、人の誰の中にもある、
健康正常になろうという働き、
これが当たり前の姿として、はっきり知ること。
幸福とは、人生の健康正常な姿、それで当たり前のこと。
カラダも66年の間に、現れているものは、いろいろ変わってきている。
カラダに機器を埋め込んだ。
それでも、なにかになろうとしているものがあり、それになっている。
劣等感で自他を苦しめ、迷惑もかけてきたが、幸福のなんたるかを知った今、
そこが自分の中にも、社会のなかにも、無いのが当たり前。
「知る」、というのは観るというところから始まり、
知性のはたらき。
「私の人生はなにをしようとしている人生か?」
知性を使って、どこまでも幸福を実現していこうとすること。
当たり前の姿を昼の世界にはっきりさせて、やれるところから、幸福になるように、
そうなるようにやればいい。
自分の中に、もやもや、嫌な感じがでてきたら、
「当たり前の姿になること、どっかで邪魔してないかい?」と
自分の中や、周囲環境の中に、そうなっていかない原因はないかとしらべ、
知的に検討して取り除いていく。
不幸な人が一人でもいたら、自分の健康正常はないように思う。
「なんとかならないか」というものが、湧いてくる。
社会の当たり前の姿も、知的に調べていきたい。
当たり前の姿になるのが、楽で安心だと思う。
そうならない原因を見つけ出し、取り除いていきたい。
ずっと、自分の中を、人というものを、調べてきて、
今思うこと。
「思う」が、「そうだ」になりやすい。
・・・それでも人と共に、なけなしのもをはたいても幸福を実現していきたい。
今から、始まるか・・・
【 続 き を 閉 じ る 】
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