自分を知るための日常化レッスン

行為と頭の中のことをそれぞれ出し合った。他の人のも自分のも陥りやすいところが明らかになっていくようで、おもしろかった。私は出かけるときかぎがないことに気づいてさがす場面をやってみたが、行為の中に手足を動かしたことは意識にのぼったが、見ていたことがぬけていた。見ると聞くはいろんな場面で大半をしめているなということもいろんな例できづかされる。
最近の場面で「だってそう言ってたもん」と思うことが妙にひっかかっていたが、それでかと思った。
書いてあったことを見た。言ったことを聞いた。やってるのを見た。となっていて、その見え方を自分の感覚と意識していたのかな。と思った。何か映像が入ってきて自分の頭の中でこれこれを見たとなるのかな。音が入ってきて自分の頭でこう聞こえたとなるようだ。
自分の感覚だという自覚があるだろうか。意識してやってみよう。
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研修生コースやってみて

今回は、「行為」と「頭の中」を分けて見てみる。ということをずっとやったように思う。
このことで、今まで行為としていたことがみごとに頭の中で自分がそう思っていることというふうにクローズアップされてきた。
「自分がそう見ている」
「自分がそう聞いている」
「自分の関心のあるものに限られている」

このことが実感として捉えられるようになったと思う。
見ることも聞くことも、自分がそうしようとしてやっていることで、勝手に何かが入ってきているわけではない。
このあたりを、理論的に解釈するのではなく、自分の実態を知るというふうになったかなと思う。

靴下から足が見えてるのを、「靴下の穴を見つけた」となっている。
自分が見て「穴と思う」、「恥ずかしいな・・・」というふうに発展していく。
壁にかけてあるカレンダーを「あ、曲がっている」と見る。
そのものがそうという捉えかた、事実になっているというより前に
自分が見ているというところに帰ってきた感じだ。

穴とか曲がっているとなる前には、自分の「見る」がある。
必ずといっていいほど、「見る」という行為があってからそこから始まっている。
自分がやっている行為は、見るとか動かすとか聞くとかいうだけで、あとはほとんど頭の中のことだなと、分類しやすくなった。

自分を観察するというのを、自分から抜け出して外のカメラで見ているような感覚で捉えていたけれど、自分がそうしているという自分の中にいながら、観察できるようになった気がする。

観察の振り出しに戻ったようだ。
ここから始まるなという気がした。
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