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責めの無い社会気風

先日、韓国からやって来た青年二人の探訪DAYに同行した宮地さんによるコミュニティ雑感を紹介します。(ブログ「かたつむり・つれづれ」より抜粋)
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懇談会で、ドタキャンしても責めが無かったという話を聞いて、
再就職したばかりだが、正直、会社を辞めたいと思っている青年が、
「人生や社会で、自分がやりたいというだけでやっていってもいいんだろうか!?」と感想を言っていた。(詳しくは、下記の全文を参照)
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韓国青年の純粋な、
そして真剣な真情に触れながら、
いつの間にか、自分の世界が変わっているのかな…
それは自分で変わったというより、
そういう空気、気風のなかで、
そんなになってきた、とも言えるのか。
社会を変えるというは、
どうも「一人ひとりを大事にする」
という考えだけではなく、気がついた人たちの暮らしの中で、そういう気風をつくっていくことではないだろうか。
これは、現状そのままで、どこの場でもできることではないだろうか。

今、韓国から若者たちが、サイエンズスクールのコースに参加する目的で、
アズワンコミュニテイに滞在している。
それぞれ、自分の内面を観察しながら、「自分の中の社会」、「社会の中の自分」、その実際を見極めようとしている。
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韓国の一隅に、いつの間にか誰もが安心して暮らせる、家族のような間柄の人と人によるコミュニテイが現れてくる。
夢物語ではないだろう。


全文は、以下をご覧ください。
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いつの間にか

アズワンコミュニテイに触れてみたいという目的で来鈴。
4泊5日はまたたく間に過ぎ、二人の青年は風に乗って、朝鮮半島に帰っていった。
いくつかのエピソードがちょっと新鮮な感慨として残っている。



二人のうち、小柄なアヌップさんは、今まで所属していた団体を離れ、人生や社会の在り様を模索しながら、世界各地の貧困を解決していく活動を目指している。
もう一人、ノッポのジュニョくんはウドンサという青年共同体で暮らしながら会社勤めをしている。会社勤めが苦しい。いくつも会社を変わり、もう一度採用された会社でやり始めて3ヶ月、やっぱり苦しくて辞めたくなる。
「でも、再就職のとき、3年はやると約束しちゃったからなぁ…」
ジュニョくんは、正直そのままやるかどうか、やれるかどうか迷っている。
その気持ち恂々(じゅんじゅん)と語ってくれた。
鈴鹿に落ち着いた初日の夜だった。聞いているのはぼくだけではなかったが、ジュニョさんの心の奥の方からコトバになってくる、そこに耳を傾けた。



翌日、コミュニテイを終日見学して、その夜の懇談会にて。
ジュニョさんが、最後のほうで、誰にたいしてということでもなく、
「人生や社会で自分がやりたいというだけで、やっていってもいいんだろうか!?」
と述懐した。

「そうだよな」と思う。
「ついこの間まで、この内なる問いかけが解けないでいたんだ」
今、自分が焦点にしていることが出てくる。

「自分の、今の気持ちはどんな?」
先ず、これを見ていく、知っていく。

やるとか、やらないとか、それとは一応切り離して。
いろいろな考えとか、観念がいっぱい出てくるけど、先ずそこから。
その上で、というか、そういうなかで、一人では生きていけないし、相手の人、周囲社会の成り立ちもあるのだから、その内面にも思いを馳せて・・・
どうするかは、その後でも遅くない。

「会社を辞めるなんてを言ったら、そんなこと認めてくれないし、許してもらえないし、話合いにもならないと思うと、重くなる」とジュニョさん。



同席していた敏美さんが、学習塾の講師をやらないかと声をかけられて、「ドタキャン」したという、つい今日の出来事を話してくれた。
子どもがもう来るという間際に、「やっぱ、やめようと思う」と塾に伝えた。
それで、何も起きなかった、というのである。

そういう気風がなければ、一人だけではどうにもならないよね。
ジュニョさんも、じっと聞いていて、うなずくような表情をした。

それを聞いて、「ああ、ほんとにそうなんだよな。自分一人で得心していたって、周囲がそれを受け入れてくれなかったら、それがつぎの展開に広がっていかないよね」と、そんな気風がどうもここの人と人の間には、いつの間にか、醸成されているのではなかろうか、とあらためてそういうものが出来つつあることの大きさを知った。

何年か前のこと、思い出す。
来訪の人を迎えにいく朝、
雪が降っていた。
運転をする予定の人から電話があって、
「雪だから、今日は運転しないよ」と。

「ええ、運転しないって、じゃあどうするのか?」
様子を見に、外に出てみた。ぼくからしたら、全然問題ない雪の状況と見えた。
もう一度、「行けないか」と聞いたが、「やっぱりやらない」という返事。
その後、そのことを誰かに言いたくなって、抑えられない。
その人を責めると言う感じにならないように、そのときの状況を話すが、「ああ、そうだろうね」ぐらいの反応で問題にならない、そんな空気だった。
なんか「責める」みたいなことには、あんまり関心がないみたい。

自分の中の”責める”とか”問題視”するとかの感情が無くなったのかどうかは分からないが、いつの間にか、そういうものに関心がない、反応が鈍くなっているのを感じる。責めるより、「その人はその時どんな気持ちだったんだろうか?」、とすぐそうなるか、あとで振り返るのか、時間的な前後はあっても、そっちに関心が移っているように感じる。具体的な検討は、その後からでも出来る。
というより、その理解があるから、検討が出来る。

韓国青年の純粋な、そして真剣な真情に触れながら、いつの間にか、自分の世界が変わっているのかなと、それは自分で変わったというより、そういう空気、気風のなかで、そんなになってきた、ともいえるのか。

社会を変えるというは、どうも一人ひとりを大事にする考えだけではなく、気がついた人たちの暮らしの中で、そういう気風をつくっていくことではないだろうか。
これは、現状そのままで、どこの場でも、できることではないだろうか。

今、韓国から若者たちが、サイエンズスクールのコースに参加する目的で、コミュニテイに滞在している。
それぞれ、自分の内面を観察しながら、「自分の中の社会」、「社会の中の自分」、その実際を見極めようとしている。

どんより雲は垂れ込めている。
韓国のジンさんは、ついこの間の土曜まで「内観コース」に参加していた。今は、韓国のセリさんが「人を聴くためのコース」に参加している。
韓国の一隅に、いつの間にか誰もが安心して暮らせる、家族のような間柄の人と人によるコミュニテイが現れてくる。
夢物語ではないだろう。
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