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アズワン週末青年

今年初め、サイエンズスクールの「自分を知るためのコース」に参加したT青年。
その後、週末をアズワンコミュニティで過ごすようになってきました。
普段は名古屋で仕事をし、週末は何するわけではないですが、ここで暮らす。
なぜ、ここへ来たくなるのかな~!?ここがどんなふうに見えるのかな~!?
以下、彼のブログより抜粋し紹介します。
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愛情が(2015.04.12 )
マイライフミーティングから帰ってきて、
ふと、なぜアズワンを選んだんだろうと思った。
持続可能性を求めてエコビレッジとか何箇所か行った中から選んだ理由は?

たぶん、単純に愛情を感じたからかなぁ。

自分が何かをするでもなく、ありのままを受け入れようとしてくれる。
持続可能とか難しい考えでなく、本能的な欲求で良いなぁと思ったから。

今日も帰るときに、また来てねと満面の笑みで言ってくれて、
あぁまた来ていいんだと思うと、単純に単純に嬉しかった。

これはマザーテレサの言う無償の愛というものか?
でもアズワンの人は「そんな大そうなものかなぁ、あはははは」と言いそうだ。笑


自然農とアズワン(2015.05.11)
自然農とアズワンの共通点が多い。
というか発想としては同じだと思う。

自然農の特徴
・畑を耕さない
・草、虫と敵対しない
・無農薬、無肥料
・なるべく手を加えずそのまま

このような特徴があるが、これらを徹底するのではない。
よく観察して何が良いかを試しながらやっていく。
家の場合だと草に負けそうになったら刈るし、虫がついたらとることもある。
肥料も必要に応じて多少やる。耕したり農薬はやらない。
基本的には野菜本来の生きる力を発揮させるように、手を加える事はあるが最小限にする。最小限にするためにはどのような方法が良いかを考えることに力を入れる。
基本的には畑を良い状態にすることが一番大事で、それができればだいたい野菜は自然に育つ。
ということを自然農を趣味で30年も試行錯誤してきた父に教えてもらった。
僕は去年ちょっとやってみただけ。観察しろっていわれたけど、何を見ればよいのかわからず、すぐさぼってしまった。



アズワンも同じだと思った。
人間を観察して本来性を発揮させる。スクール等ではあれこれ教えるのではなく、少し促すだけ。基本的に各個人の力で気づいていく。
おそらくより良い方法がないかと研究所では考えているだろう。
社会という畑が育てば、自然と人間は元気に育っていく。
もちろん社会ができたら放っておくのではなく、常によく観察して何か問題があれば対処を考える。
考えた末に放っておくこともあるし、手を加えることもある。手を加える場合は最小限にし、自然の形をなるべく壊さないようにする。


今の社会や多くの宗教は慣行農法で、アズワンは自然農法だ。
こう考えるとアズワンを捉えやすい気がする。
自然農愛好家の人達に、自然農のように人間や社会を育てて暮らしている所があるんですよ、と言ったらどう思うだろうか
自分の中のぐちゃぐちゃ(2015.04.22)
アースデーに行って来ました。アズワンのスタッフ的な立場で。
まだ数えるほどしか行ったことない僕が説明なんかしてていいのか。
まぁいいか。


アースデーの2泊3日の旅の中で自分の中で大きな変化がありました。
初日に訪れたTT浜松でのこと。
小野さんがジュンさん、力也君と内面の話をしているのを聞いていて、
どんな言葉だったか忘れてしまったけど、
「もともとその人にあるもの」とか「元に戻す」とか「動物的、本能的」等の話を聞いてあることを思い出した。



小学生のある時点から僕はこう思った。
親や世間が良しとしていることをしていても、何も希望がない。
未来がない。がんばる意味がない。破滅するだけだ。
大人になったらどこか違う所に行こう。どこか良いと思える所があるだろう。
それまでは適当に従っていよう。

思い返すと、小中高の頃からいつも心のどこかで落胆していた。
今の社会が進む先の希望のなさ。
ただ競争の勝ち負けのためだけの勉強。
よくわからない理由で怒られる部活。
楽しく過ごさなくてはならない友達との遊び。
ものがあふれて騒がしいだけの街並み。

もちろん楽しいこともあったけど、いつもどこかで否定していた。
なんのためにこんな事をしているのか。わからない。
でもなんかしなくちゃと焦っていた。否定しながらも、周りが求める姿になりたいと頑張ってもいた。頑張って得たものを捨ててやろうという思いもあった。こんなものは意味がないと言いたかった。

もう疲れた。

と思ったのが大学に入ってから。
そこから10年程は鬱と孤独の生活。本当につらかった。
いい思い出なんてなーーんもない。

初日のTT浜松の話の後から、そんなような記憶の断片を時折思い出していた。

アースデー1日目を過ごしていると、ふと、アズワンに関わっていれば大丈夫なのでは、と思った。もう全面的に信頼しちゃっても良いのでは。犬がおなかをみせて寝転ぶあの憐れな姿をさらしても良いのではと思った。そう思うと安心が出てきた。

アースデー2日目の朝、始まるまでに時間があるというので、一人で明治神宮をふらふらと歩いていた。
泣いた。歩きながら泣いていた。
もう否定しなくても良いのかなぁ。疑いなく信頼しても良いのかなぁ。
希望を持っても良いのかな。意味がないと思うことをやらなくても良いのか。
素直に自分の気持ちを出しても良いのか。
ちゃんと偽りなく心を解放できるのか。

自分の中のなにかが緩んだ。
張り詰めていたものを解いたら涙があふれてきた。


アズワンのブースに戻って、目が赤くて気づかれたらどうしようかなぁと思ったけど、特になにも言われなかったので、何事もなく2日目を終えました。
帰りの車の中で小野さんにこの事を話しました。その時も泣きました。
泣いてばっか。


  (ゴールデンウィーク「マイライフセミナー」より)

でも信頼しようとしても、まだまだ心は不安定。
そりゃ十数年周りを否定し、自分を否定し、孤独になってわけわからない引きこもり生活をしていたからすぐにはできないだろうな。
心や脳がうまく機能していない。
人と話をしても、いまいち親しくなれる感じがしない。
人との距離感をつかむ機能が麻痺してる感じ。だからアズワンの言う親しさでつながるというのは現状では難しいだろうなぁ。
でも昔はその感覚はあった。むしろ敏感だったように思う。
敏感すぎて嫌になって捨てた。そんな感じがする。
でももともと持っていたものだから、その内思いだせる気がする。
そうしたらもっと楽に暮らせるだろうな。
友達や恋人もできるだろうか。
できるといいなぁ。

というか、よく今まで生きてこれたなぁ。
なんだかんだ両親や周りの人の支えがあったからだろうな。


気楽に・・・(2015.05.07)
わくわくする気持ちを今は思い出している。
これだというものが見つかって、それに進んでいける感覚。
積極的に笑おうとする気持ち。
やりたくてやる。
やりたいからやる。

頭で考えれば不安要素はつきないけど、
それを片隅に置いといて、
まぁ駄目だったらしょうがないかという感じで。

気楽に。

ここに書いたことも、すぐに過去のもの。
でも今感じていることは確かだから嘘ではない。
明日になったら落ち込んでいても、それはそのままで。

何をやるかというより、まずやるかやらないか。

さぁこれから何をやろう。
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