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「人の変化について」 アズワン・コミュニティに行ってきた

「瞑想とギフトエコノミー」の著者、熊倉敬聡氏の紹介により、今年2月にコミュニティ探訪にやってきた京都在住のYonedaさんのブログを紹介したいと思います。彼は、その後、今年3月「マイライフセミナー」、7月「自分を知るためのコース」に参加しました。


最初のころは、肯定的な変化を「成長」と考えてきたが、今はその言葉は使わない。このブログの最初のエントリーも『「成長」しない』だった。

できなかったことができるようになったり、うまくいかなかったことがうまくいくようになることはあるだろう。そういう時、一般に成長という言葉がよく使われている。

そのようにみえる現象があり、それがある種の変化をさしていることは同意する。

しかし、それは実際に「私」が 「成長」しているのだろうか。本当にそういうことはあるだろうか。自分なりに確かめてきた結果、「人格」というものも実際にはない。それゆえ成長する主体がないのだから「成長」もない。

「私」が「成長」する。この言葉を鵜呑みにしたときのギリギリとした緊張感が、実際には変化や移行を阻む。「成長」を仮定した瞬間、「成長していない私」がいる。「成長」しないといけない。ここに否定がある。この否定がもたらす緊張。あってはならないことへのおそれ。この緊張状態が今の状態へのとどまりを強化する。

「私は成長した」と高らかに宣言することは、近い将来の停滞を宣言しているのと同じだ。「成長しないかもしれない私」という恐怖を抱え、すでに緊張しているからだ。そして往々にしてその緊張があることにも気づいていない。その緊張はいらない。ないほうがうまくいく。それは実際には詰まり以外のなにものでもない。

・・・・・(中略)



6泊7日では、普通の正社員はほとんど休みとれないかもしれない。しかし、人に変化がおきるにはそれぐらいの期間は妥当だと経験的にも思う。日本社会が正社員に休みを与えないのは、人のモードを変えずそのままに固定させる作用があるだろう。

日常を離れるというのは、日常を奪うことでもあるけれど、いつもさらされている規範から少し離れたときに、揺らぎが生まれ、内在化された規範を破綻させる生体の働きが働いてくる。

徐々にではあっても、本当にこのやり方で変化を起こしていけるのなら、革命的といえるのではないだろうかと思う。瞑想も観察によって変化をもたらす方法なのだけれど、瞑想は個人にとどまりがちだと思う。ところが、コミュニティの一人一人が実生活でおこる問題を通して自分のあり方を観察するということをやっているから、グループ・ダイナミクスも働く。そのときだけのセミナーではなく、日々の生活そのものが観察や気づきの機会となる。

僕の実感でも、確かに6泊7日のコースも意味があるだろうけれども、アズワンにいったときに自分に残るのは、実際に自然体な人たちのあり方にふれることのほうが大きいように思う。まだ数回しか行ってないけれど。

アズワンのホームページのコースの説明に「成長」とか、「本質」とか書かれているけれど、実際のコース中には本当にそういうものがあるのか、実際のことは知ることができず、感覚を通して捉えたことはどこまでいっても自分の頭のなかでとらえたことでしかないのでは、という徹底した吟味が続けられる。

こういう言葉を僕は使わないけれど、わかりやすく書くために便宜的には仕方がないのか。個人的にはそこはちょっともったいないなというか、残念な感じがする。人によってはど真ん中のNGワードだろう。実際はそこからイメージされるものと違うのになあと。

全文はこちら→「人の変化について アズワン・コミュニティに行ってきた2」

参考:3月「マイライフセミナー」に参加してみて
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