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「お金」というレッテルが、モノの価値を見えなくさせている

7月5日(土)、「ACS(アズワンコミュニティステーション)のある暮らしをやってみて」というテーマで寄り合う機会がありました。ACSというのは、「インフォメーション」、スペース「JOY」、「オフィス」などの機能が集まるコミュニティのステーションです。それに参加してみての声を紹介したいと思います。
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僕は、「お金」というレッテルが、モノの価値を見えなくさせている、ということを改めて「JOY」を使って気づき始めている。

いつの頃か、「お客様は神様です」という言葉の通りに、顧客獲得のために、客の方がモノやサービスを提供する側より偉くなってしまった。
モノやサービスがあふれて買い手市場になったからだろうか!?
売り手も買い手も、「お金」という「魔物」に取り付かれている。モノのない時代は、もう少し、モノのありがたさや、してくれる事の有り難さを感じていたと思う。



仕事も「お金」抜きには考えられなくなっている。
やはり生活するためには、「お金」は必要で、その「お金」を稼ぐために、嫌な事でもやりたくなるもので、我慢や義務も厭わずに、身を粉にしたりして、そうやってやった「仕事」は、神聖なものだったりするし、感謝もしてもらいたいものになる。
それほど、現代人の日常は「お金」の「魔物」に支配されている。

誰が何と言おうと、そういう「魔物」の支配からは、そう簡単には抜け出せないものだ、と、僕も思っていた。この「JOY」の話を聴くまでは……。



「日用品、野菜、お弁当、お惣菜、どれも自由に使っていいよ」と言ってもらった時から、自分が、これまでどういうふうに見ていたか、そういう事が明白になってきた。

「お金」を通して見ている間は、そのものの価値やそこに人がどう存在するか、というその真価にも目がいかないもので、自分の都合だけでしか見えないものだ。
「お金」の価格でモノの価値を判断するしかない。



でも、よくよく見つめてみると、「お金」というようりも、自分がここに存在出来るのも、この身体が維持出来ているのも、その一つが食べ物を食べているから、というのがある。
その食べ物は、自然界の贈り物でもあるし、その生産に関わり、提供し、調理し、そういう人の手が加わって、それを自分が食べて、この体が維持されているという事実がある。その実際の成り立ちに自然と目が向いていくのだ。

「お金」をとっぱらったら、何が見えてくるか、そこで見えてくる世界は…
その世界の入口が「JOY」でもあるんだな、と僕は思った。



だんだん、この「JOY」を使う中で、いろんなとらわれから解き放たれて、素直に物事が見えるようになっていくような予感もする。「お金」という観念から解放されていくことで、それまで、「お金」のため、と思って頑張れていたことがだんだんとチカラが抜けていくように…。
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