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韓のくにからやってきた

韓国から女子大生(201101) 003_s.jpg      
1月18日、韓国からやってくる若い娘4人を津の港に迎えに行った。フェリーの出口で待つ。顔は、知らない。背の高い、色白の娘が降りて、ぼくの側らに立った。「日本人ですか」と日本語で聞く。娘は、ちょっと顔をゆがめたように見えた。そこへ、何人かの娘が寄ってきた。どうも、迎えに来た人たちに出会えたようだ。
 車中で自己紹介するなりゆきになった。運転しているので、耳で聞きとる感じになる。
ぼくの隣の席にいる娘が「エッツちゃん」と聞こえる。その後ろの娘が「ウンちゃん」、真中は「ジュンちゃん」、その隣が「イノッコさん」と聞こえた。
 車窓から町並みをみているようだった。「ミニストップは、日本にもあるのですか?」と聞かれた。とっさに「日本からはじまったものだ」とぼくは反応している。これって、なんだろう。「わあ、マクドナルドもある、ほら、おじさんの人形も・・」、「ドンキホーテ!ここにもあるわあ。ドンキホーテ、知っていますか?」これは、運転しているぼくに聞いてきた。「いやあ、知らないなあ」ほんとに、なにも知らない。「ドンキホーテに行きたあい」
 彼女らは、ゲストハウスを住まいとして、2週間アズワンコミュニテイーの人たちや暮らしに触れていくことになる。
 夕方、ゲストハウスに到着。伊与田夫妻が迎えてくれた。小野みゆきさんも加わって、はじめての顔合わせ。伊与田さんは、事前に知らされていた娘たち一人ひとりのプロフィールのメモを作っていた。彼女らが自己紹介する間、それと彼女らを見比べているように見えた。なにか、こころを感じた。
 今回、アズワンコミニュテイーに来訪した人のプロフィール。
 ○キム・ジュンウン(21歳) 淑明女子大学校経営学科 京幾道安養市在住
 ○チェ・ウンソ (21歳)  亜洲大学英文科     水原(スオン)市在住
 ○ファンクボ・イエピン(21歳) 梨花女子大数学科  ソウル市在住
 ○ノ・インオク(21歳)   慶煕大学食品栄養学科  水原市在住

 2週間の暮らしの基本は、おふくろさん弁当・ミッキミート・ファームの職場で働き、日曜日に観光というスケジュール。それを彼女らと確かめ合った。そのほか、夜には家庭訪問とか若者との出会いの場もいくつか用意してあった。
 ゲストハウスと職場の往復は自転車でと考えていた。伊与田さんが4台、用意した。
その話をすると、ウンソさんが「わたしは、乗れない」と言った。「だったら、彼女は歩いていくことになるなあ」と思った。その夜、家にもどってみて、もしかしたらバスがあるかもしれないと思った。「コミニテイーバス」というものがあった。黄色い、小さめの車体を思い浮かべる。路線図があったので見ると、鈴鹿ハイツ西19番から、阿古曾町セイムズ22番まで、ちょうどあった。歩くという選択肢の他に、これもあったらいいと思った。
 この時期、研修生コースに参加していた。夜は、船田夫妻、吉田順ちゃん、栗屋さん、高崎さん、河村さん、郡山洋子さん、八木さんと、日々の場面でじぶんのなかで起きたことを検討していた。
 日々の場面というと妻とのことが多い。それも、検討したが、今回は韓国の娘たちと接していて、じぶんのなかに起こっていることもしらべるころが、すこしできた。
 「ウンちゃん」こと「ウンソさん」、自転車に乗れないことからはじまって、コンタクトレンズが無くなった、夜寒くて寝れなかった、寒いというわりには、ぼくからみると薄着でいる、朝歯茎から鼻血のときのような出血があったなど、じぶんが気になる出来事が続いているように感じていた。口には出していない。でももし口に出せば「世話の焼ける娘だなあ」となるのではないか。それを、「そういうのは、じぶんの感覚だ・・」として、抑えているような感じ。
 「ウンソさんは、世話の焼ける娘かあ?」実際には、彼女には何が起きていて、ぼくにはなにが起きているのだろう。
 ウンソさんは、歯茎の出血のことが心配で、韓国の母親にも電話で相談したらしい。母親からは「心配なら帰っておいで」と言われたらしい。
 1月23日、日曜日、名古屋観光に行く日。石黒恒太さんが、つきそってくれる。ウンソさんは、朝病院に行くことを決めた。「名古屋にも行きたい」とも聞いた。彼女には、「歯茎からの出血がもしかしたら、命にかかわる症状のあらわれではないか」という惧れがあった。林医院に行く。診察でその惧れが解消したわけではなかったようだが、名古屋観光は行ってきても、全然心配ないと医師から言われた。10時ごろ出発のよていだったけど、2時間遅れでみんな連れだって、出かけたらしい。ゲストハウス帰宅は夜11時を過ぎていたとか。ウンソさんは、そのとき以来、防寒着を着るようになり、すこしずつ、元気になっていったように感じる。

 26日、豊里から李真(イー・ジン)さんに来てもらった。韓国四人娘が思っていることをハングルで思い切りしゃべって貰う時間をもった。小野みゆきさんも、ハングルには気持があって、娘たちとは、けっこうハングルで会話している。ときには、電子辞書を使いながら。石黒恒さんに言わせると、以前韓国の娘さんを迎えたときとは、雲泥の差だということである。
 炬燵にあたりながら、みゆきさんが「いままで、暮らしてみて、どうでしたか」とハングルで聞いた。
 インオクさん「韓国でもアルバイトでいろいろ仕事した。店の人からは、“早く”とか、“言った通り、きちんとやれ”と言われてきた。ここの職場では、まず自分でやってみて、それからそこに関心が行くのを待ってくれている感じがした。気持が集中してきたら、工夫も出てきた。順序があると思った。楽だった」
 イエピンさん「親とか周りの人が“こうしなさい”というのがあったとき、じぶんのなかの気持ちをあいまいにしてやってきた。職場では、わたしがやりたいと思う気持を引き出してくれるような感じがした。いつか、日本で暮らしたいとも思っている」
 ウンソさん「このコミニュテイーに来たら、人が元気になる感じがする。ここのことを、本にして、韓国の若者に読んでほしい」(みゆきさんが、「本にするんだったら、そのポイントは?」と聞いた。「ウーン」としばらく考えていて)「ここには、“待つ”という雰囲気があるということかなあ」
 ジュンウンさん「韓国では、人を見るとき、能力があるかないか、そんなんでみているようなところがある。これまで、暮らしてみて、“そのままのじぶんでいいよ”って、見てもらっている空気を感じて・・・・」(と言いながら、こみあげてくるものがあったらしく、グシュンと、そこでとぎれた。そしてしばらくして)「あはあはあ・・」と笑顔で話しをつづけたように覚えている。
 この後、なにかの拍子に、ここで暮らしてきたお互い同士が、どんな気持ちでやってきたか、「思っているのに、抑えてだしてこなかったことはなかったか」とか、ハングルで話し合いはじめた。たて板に水、息もつかせぬぐらいの勢いで出し合っている。彼女らは、高校3年間を一緒に過ごした。ウンソさんとインオクさんは、中学のときから、いっしょだったとか。イー・ジンさんが、その流れるような会話の要点をみゆきさんやぼくに通訳してくれた。お互いのことについて、それぞれの気持ちをこんなふうに出し合ったのは、はじめてだったと後でイー・ジンさんから聞いた。

 帰国前日、ゲストハウスで会食会があった。韓国の娘たちが、トッポギ&ラーメン、チジミ、白菜の葉を掌半分ぐらいにしてチジミのように焼いた料理、チゲ。プルコギはジュンウンさんがホットプレートの前に陣取って、「温かいうちに」と、焼いては一人ひとりに取り分けてくれた。
 この会には、この間、かかわってきた年配のお母さんたちのほか、白川さゆりちゃん(高2)とかみゆきさんの娘(小4)も参加していた。さゆりちゃんは、イエピンさんの隣に座っていた。寛いでいるように見えた。カラオケでは、「ハングルで韓国の歌を歌ったよ」と聞いた。韓国の娘たちも驚いたみたい。でも、ハングルで会話ができるとは、思えない。京都観光にも同行したらしい。言葉だけではないもので、お互いがつながっているのかなあ。
 みゆきさんの娘も、この会の最後までいた。韓国のアリランの歌も聞いていた。インオクさんがチャングの演奏を一人でした。途中、何回も太鼓のバチを止めて、考え込むような、照れるような素振りがあった。チャングの演目は、二人で掛け合いのようにやるものらしい。それでも、最後までやりきった。インオクさんは、物怖じしていないように思った。みゆきさんの娘も、最後までそれをじっと見ていた。
 元田ゆいみ、大江のぞみさんも参加。のぞみさんは、四日市で勤めている保育園の同僚もさそってきてた。のぞみさんのハングルが、流暢に聞こえた。「ハングルのニュアンスをものにしている」と思った。「いまから、ぼくも、勉強しようかなあ」ちらりと思った。

 2月1日朝、四人の娘たちを津の港に送る。
「宮地さあん、車、ゆっくり走らせても、いいですか?」とジュンユンさん。車中でせっせと何か書いている。静かだった。伊与田夫妻、みゆきさん、恒太さん、職場の人たち、さゆりちゃんとか、その他、手紙や色紙に気持をしたためているのかなと思った。小林耕一くんは、どうも今回の娘さんたちには、一番人気だったらしい。けっこう、「そりゃあそうだよなあ」と納得する人がいるが、ぼくは「そういうものなのかあ」と新発見の気分だ。「けんじくん」とか「どいくん」という名前も聞いたかな。娘たちのなかでは、この名前はどんなふうにイメージされているのだろう。
 津の港のロビーには、30人を越える人たちがいた。若いひとが多い。午前10時の出港を待っている。ぼくらも、しばらくそこで待つ。そのうち、40歳ぐらいの女の人がロビーにやってきて、待っている人たちに向かって「○○○○!」と言った。何と言ったかわからなかったけど、ハングルだと思った。ジュンユンさんはじめ、娘たちは一瞬息をひそめ、それから「わああ」と声をあげた。その一行は韓国サラムの面々だった。ぼくらもその一行に付いてフェリー乗り場に向かう。そうしたら、先を行く韓国サラムのなかの若い女性が、インオクさんのチャングを見つけて、なにか言っている。インオクさんが、彼女らにハングルで挨拶した。インオクさんたちが韓国サラムと知って、今度は挨拶された女のひとたちが驚きの声をあげた。
 さようなら、韓のくにから来た娘たち。また、会いましょう。
                              宮地昌幸 記
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