<< 福岡で「人を聴くためのカレッジ」を開催 | main | 12月オンライン対談 「分裂、対立の社会から「一つ」の社会へ」Youtube公開 >>

対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」文章化(その2)

サイエンズメソッド対談.jpg
10月のオンライン対談の文章化(その2)です。
ご覧ください。

10月の対談については、YouTubeで動画が見れます。
https://youtu.be/pqCM5PseOPw

-------------------
「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」(その2)

三木
それでその問う方法としてサイエンズメソッドが生まれてきたということですね。
自分自身がサイエンズスクールで8つのコースを体験させていただいて思ったのは、それぞれのコースに出てくる問いというものが、実に有効じゃないか、ということです。自分の実際がどうなっているのかを調べる問いになっている。

そこから、僕は、これが本当に21世紀の禅だなと強く感じ入ったわけです。
公案みたいなんですね。
「生まれる以前の、自分の顔とは何か」
など伝統的な公案には、非常に難しいものが多いと思っているのですが、そのような難しい公案ではないし、もっと身近な問いであるにもかかわらず、本当の自分を観れていく、いい問いだなーと思ったわけです。
ああいう問いってのいうのは、どういう形で生まれてきたのですか。

小野
そうですね。僕らは、2000年の暮れに引っ越してきて、2001年当時から本当に研究したかったんですね。
「何がどうなって間違ってきたのか」
「本当はどうしたかったのか」
「本当に固定しないでいくとは」とか、
「一つってどういうことか」とか、
もっと研究したいというメンバーで、最初の頃からズーっと毎週3時間、いろんなことを研究する中で、次第に見えていきました。
それがある程度「こういう方向だろう」とか、
「なぜ固定するのか」、
さっき言っていたように、
「いくら頭で分かっていても、そう成っていかないのはなぜか」とか、
そういうことをずっと研究していく中で、その中で自分たちが調べていく問いが自然に出てくるわけですよ。
それがある程度見えてくると、これをまた今度は
「いろんな人たちが一緒に考えていけるようになるにはどうしたらいいか」
という中で生まれてくる問いですよね。
やっぱり自分たちが問いかけてきたその中で「見えてきた問い」ですね。
またサイエンズメソッドっていうのは教える方式ではなくて、一人一人が気づいていくものにしたかった。おそらく禅の公案も同じ趣旨だと思うんですが、何か教えがあって、それを覚えたりするんではなくて、一人一人が真理の方に気づいていくためのきっかけとしての禅だったんじゃないかと思うんです。
僕たちも、教えること自体が、さっきも話に出ていましたように、考えを固定する方式ではないかと思っています。
「どうやったら一人一人が自分の頭で考えて、自分自身で本来とか真理に気づいていけるだろうか? 本来のものに気づいていくには?」
という方向ですね。特に、それを個人で「うーん」と考えるのではなくて、その真逆で、みんなで考え合う中で気づいていけるようにーーー。そういう研究をする中で見つけ出していった問いですね。

三木
なるほど。
今の話を聞いていて、やっぱりサイズメソッドがすごくいいなぁと思ったんです。
僕は瞑想などを通して、自分で自分の内側を観ることをしてきたんです。ところが、サイエンズメソッドでは僕は不意打ちを受けたんですよ。
みんなでこたつを囲んで、お茶とかお茶菓子を食べながら、問いについてみんなでべちゃべちゃべちゃべちゃ喋るじゃないですか(笑)
そういうと語弊があるかもしれないですが、そうやってみんなで深く考えながら、進むじゃないですか。ここが、自分一人で考えるんじゃなくて、みんなで一緒に探究するっていうんですかねーー。
「これはどういうことだ、どういうことだ」と。非常に新鮮だったし、経験して、これは楽だなあって思いました。
自分一人だとどうしてもブラインドスポットのようなものがあるのですね。ところが、この場合は、他の人の考えを聞いて、
「あ、それはそうだな」
と、はっと立ち止まったり、気づくわけです。そういう感じはいくつもありました。

振返ると、自分がサイエンズスクールに参加している時に、随分、いろんな人に助けてもらったなあと思いますが、しかしやっぱり気づくのは、自分自身なんです。この点が大事じゃないかと思うのは、普通の状態では、人の気づきをいくら聞いてもそれは自分の気づきにはなりえない。しかしサイエンズの探究をしている場合には、
「ああー、なるほどなるほど」と、
そういう時は自分の方で気づいてるんですよ。

小野
うんうん

三木
そういう自分自身が体験してきたことがあって、今の話でもやっぱり非常に考えられてるなぁと思うのは、もしこれが教えとして、
「これが答えだよ」とやってしまうと、
その答えを暗記して、
「この問題が出た、この答えに従って」
のような今までの教育の仕方に戻っちゃう。
だからある意味、現代人がみんなで一緒に考えたらいい質の問いを、アズワンのこれまでの経過の中でみなさんで見出してこられた。それを提供しているという印象があります。
「みんなでこれ一緒に考えてみようよ、探求してみようよ」と。

小野
うんうん

三木
あと一つは、サイエンズメソッドで、部屋に張り紙してあるじゃないですか。正確な言葉はおぼえてないのですけど、終わりなき探究でしたっけ、どこまでも続く探究、、、
ね、どこまでもいくみたいな。どこまでも広がっていくみたいな

小野
そうですね。

三木
自分の固定を、どこまでも取り外していくための問い、ということでしょうか。

小野
ええそうですね

三木
この感じがまた、禅なんじゃないかと思うんですけどね

小野
そうですね。サイエンズメソッドでは「人間の考えがどういうものか」っていうのが一つ目の問い、というか項目で、「人間の考えを知る」っていう項目がすごく大きいんですが―――、

三木
ちょっと待ってください。
その「人間の考え」って言い方がちょっとわかりにくいと思うんですが、それってどういうことですか。

小野
んー、これ、確かにね、話始めると難しいといえば難しい、、、  
例えば、いま僕たちの目の前にマイクがありますが、こういうモノに対しても、人間は全て自分の目を通して、五感を通して認識して捉えるわけですよね。真理とか本当のことを調べていくのも、絶えず人間は何かの五感を通して、経験とか知識とかを使って認識して、それを思考したりしていろんなものを見出していく、そういう生き物だと思うんです。
そういう意味で、いくら事実とか真理に迫ろうとしても、あくまでも人間なりに捉えたもの、五感で捉えて人間なりに捉えたもので真理に迫っていこう、事実に迫っていこうとする存在だと思うのです。ですから、どこまでいっても、いくら調べても、真理にどんどん近づいていくとは思うんですけども、人間は人間なりの捉え方でしか捉えられないという限界を知る。
それがある面で、決して固定しない、決めつけが起こらないことになる、この発見はすごく大きかったなぁ。

こういうのも、知識的には、脳科学の分野で、現代ではすでに言われていることですけれど、じゃあ、いざ自分たちが暮らしている日常では、やっぱり「見たら、そうじゃん」とか、「私は見た!」とかね。
「見た、絶対間違いない」とか、
結構言い張ったりしがちです。この大きさをすごく思うんですね。
理論的に留まることなく、やはり実際に迫っていこう、真理を知っていこうという姿勢でもあるし、それを探究会で、知識ではなくて、人間の限界を自覚して、絶えずそういう姿勢で生きていけるようになる、そこが大きいんじゃないかなと。

三木
なるほど。じゃあ、サイエンズの各種コースではその問いを通して、どこまでも固定しない、決めつけないということを学んでいるんでしょうか。

小野
そうですね。それが一つ大きいです。
人間の考えを知るってことは、どんな時も自分たちが見てるに過ぎない。だから認識していることとかは仮説でね。証明されたと言われている法則とか理論とかでも、
「人間なりに一応証明した」
と思ってるだけで、
「証明したから実際だ」
「証明したからこれは真理だ」
とは言いきれない。まあ実際に科学の理論とか法則も、その時代には真理だって言ってたことも、また新しい発見や理論に塗り替えられていることが多々あるわけで、今の段階で、一応真理だろう、と人間が思っている。だから真理そのものではないですよね。真理だと思っている。真理だと、一応証明されている、としているわけですね。

三木
現時点ではそう思っている、ということですね…

小野
そういうことだと知っていく。すると、決めたこと、固定したものが無くなっていく。その結果として自然に悪感情とか対立から解放されていくーーー
そこが大きいと思いますね。

三木
ここは丁寧にね、もっと聞きたいところですけど、要するに固定がなくなってくるっていうところが、他人に対する悪感情を持たなくなるということに、どうしてそこがつながってくるだろう。

小野
例えばひどいこと言われてとかね
「あいつがひどいこと言ったから、自分が腹がたった」
よくそういうことも話に出ますね。
この例で行くと、ひどいこと言ったっていうことについても、まず、ひどいこと言ったってことが事実かどうか?
:
「あいつがひどいこと言ったから自分が腹立った」
と当然のように思ったり言ったりしますが、はたしてその人はひどいことを言ったのだろうか?
ひどいことを言った、これが事実だ、そこから話が出発しますが、そもそもひどいことっていう事実があるのか?とかね・・・
ひどい事の、ひどいっていう形容詞も、相手の人が言った言葉を自分のイメージ で捉えたり、様子を見て、それを自分のイメージでやはり捉えたり、自分の過去の経験、記憶に照らして解釈して、「ひどいな」となる。そこは自分が認識してそうなる訳ですが、それを、自覚がないまま、自分自身の捉え方であり認識だということが抜け落ちて、
「ひどい事が起こった」となる・・・。
悪感情が起こるには、そう捉えてしまう捉え方や過去の記憶、その事に対する価値観など、いろんなものがあるわけです。

自分なりのそういう捉え方と、記憶や心の状態などが反応して、怒りが起こるんですが、それをあたかも、相手のせいにするメカニズムがいろいろ複雑にからんでいる。
そのプロセスを解剖していくわけです。しかし、解剖の仕方も、論じるのではなく、どういうことが自分の中で起こっているのかを観察していくわけです。
すると、ここで決めている、ここは過去の体験とを結びつけている、とみえてくる。
言葉の問題もありますね、言葉に対する価値観が自分独自のものだ、と知っていくと見えてくる。すると、どんどん悪感情や怒りからも解放されてくるわけですよね。

三木
何かひどいことを言われたと思って自分は怒っているーーそのプロセスをもう一回、最初から調べていくと、ひどいことを言われたっていう、その自分自身の解釈自体がきっかけとなっていくけれども、それは本当ですか? という問いだと言ってもいいのでしょうか。

小野
そうですね。その場面では実際に何が起こっているのだろうとかと観察できるようになるとね、怒りはほぼなくなっていく感じはしますね。
この時の「相手のせいで」となっている部分ですけど、本当に相手のせいなのか、僕たちは「調べる」という表現をしていますが、その始まりとプロセスをちゃんと観察できるようになるとね、怒りはほぼなくなる感じがしますね。

三木
それは実際に起きていることに対して、自分でジャッジしないっていうか、ニュートラルでいられるみたいな感じなんですかね。

小野
だんだんそうなってきますよね。
その起こったことについて、まずは、まあ色んな反応がパッと起こってるんですけどそれがなくなるって事でもないですが、だんだん自分がとらえているんだということが分かってくるとーーー、

三木
この野郎みたいな

小野
はい、そういうことも、なぜこの野郎ってなるのか、だんだん分かってくると
「自分中にそういう捉え方もあるんだな」
と、自分を客観的に眺めたり、
「実際相手は何言ったんだろう?」
と、自分の感情より相手の実際に対して関心がまっすぐ移ります。こうした経過を経て、サイエンズメソッドを学んでいくと、悪感情とか怒りが無くなってきますね

三木
そのプロセスが見えてない段階では、それこそ小野さんに何か言われて、この野郎と思った時には、自分の方に自分の関心が向いちゃってて、何か言ってやろうかと思ったり、いやいや自分みたいな善良な人間はそんなこと思ったりしていけないと懸命に抑え込もうとしたりします。いずれにしても、結局自分の方に関心が行っちゃってるわけですね。
ところが、さっき小野さんが言ったように、そのプロセスが観えて、ニュートラルな姿勢になってくると、相手が言ったこと自体が
本当は何を言っているのか?
と相手に関心が向いていく、そういうことですかね。
それが本当の話し合いのスタート地点になっていく。

小野
そうですね
その人が言葉を通して、何かを表現するのを聴くということは、その表現する前の、その人を知りたいわけです。しかしほとんどの場合、言葉に対して自分が反応をしてしまって、
「ひどいこと言われた」とか、
「ああ嬉しいわ」とか、ね、
もう全部、自分の中だけでぐるぐるまわっているだけですよね。だいたい自作自演で、怒ったり嬉しかったりして、相手にはほとんど関心がない、という例が多い感じがしますよねー。

しかし、「だから怒っちゃいけない」とか
「何かおかしい」とか
怒ったことに対してまたジャッジが入る、そしてそれを「言っちゃいけない」とか
「おかしい」とか言って抑え込むから、ますます何が起こっているのか見えなくなっちゃうのではないでしょうか。
しかし、実際には起こったことは起こったことで、良いも悪いもなく起こってしまったことです。しかも、これを材料に自分の中のメカ二ズムを観察するとか、どういうプロセスが起こっているか観られるようになる。
この点だけでもすでに、何かを信じ込んだり、なにかの価値観で感情を抑え込んだりするような方向とは、全然違いますよね。

起こったことを題材に、何が自分の中にあるか、どういうふうに、どんな価値観があるのかとか、そういうことが自然と見えてくる。 それをまた一人で分析したんじゃないということがまた面白いところですよね。

もし一人だったら、大体自分の解釈の方に行ってしまうことが多い。それがさっきの問いがあったり、みんなの中でいろんな話を聞きながら、冷静に自分の中が観れるようになったりします。人の例を聞きながら「あっ!」てね、自分が気付いたり・・・。
一人で自分の中を見る人は、例えばブッダとかああいう人はできた人なんだろうなと思いますけど、ほとんどの人はそういうのは非常に難しいと思うんです。しかしサイエンズメソッドのミーティングで調べていくと、かなりの人が簡単に気づいていける。
そういう感じがしますね。

三木
それで言うと、僕が体験的に思うのは、何人かと一緒に探究するのですが、そこの空気感、安心して自分の中を調べられる、というのがいいですね。どうしても普段は自分を守ってると思うんです。

小野
そうですね。

三木
そこを安心して素直に調べていける場ができてるような気がするーーーいや、ような、じゃなくて、実際出来ているのですが、そこはやはり小野さんたちのこれまでの経験が、何か生かされているのかと思うんですね。
- | -