2021年最初のアズワンセミナーを開催

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2021年最初のアズワンセミナーが開催されました
1月5日(火)から11日(月)までの一週間、各地から7名の参加者とスタッフ4名で、今年最初のアズワンセミナーが開催されました。マスクの常時着用や、食事のときのパーテーションなど、コロナ感染予防のための対策を徹底しながらの6泊7日でした。
セミナーの一週間を終えて、それぞれの参加者の中で、大きな気付きと変容があったのを感じます。自分自身や社会について、これまで頑なに思い込んでいたものがほどけて、本来の楽に生きることのできる自分に立ち還るきっかけとなったようです。

ひとりの方の感想文を紹介します。

もう、今までに既に色々な領域を探究してきたという思いがあり、パンフレットやホームページを見ても、ふんわりとした理想論に感じ、参加しても何を持って帰れるだろう・・・??と、大きな期待はせずに、どちらかといえば軽い興味で参加したアズワンセミナーでした。

ところが、1週間、参加者やスタッフの皆さんと生活を共にしながら、「人間の考え」「実際・事実はどうか」について調べ、「本来・本質はどうか」を見ていき、「理想」を本気で生活しているアズワンの方たちの話を聞いて、本を輪読し、それってどういうことだろう・・・と一緒に考え、自分は今まで想像したこともなかったけれど、(あるいは、子供の時には感じていたけど、今は忘れてしまっているけれど)想像してみたら、どんな理想を実現できたらいいと感じているのだろう・・・と考えるにつれて、思ってもみなかった世界が脳内に広がりました。
そして、一人一人の認知は違うけれども、それをミーティングという形で分かち合いながら、地上で(しかも、日本の、私の住んでいるところから近い三重県で)探究を実際の生活のレベルで実験的に形にしていっている大勢の人がいることをすごいと感じ、新しい可能性を感じています。

これらは、考えることで探究してきた部分もありますが、同時に「感じる」ことでもありました。
1週間を共にした仲間を家族のように感じます。
「やさしい社会」の中で何度も「家族のように」という言葉が出てきて、ネガティブな反応を示す私でした。
「家族」の中で、色々な辛いこともあり、また私以外にも、家族の中で辛い経験をしたストーリーを聞いてきたからです。
でもそれを、炬燵を囲みながら机上に出し、「じゃあ、どんな言い方がいいんだろう?」「自分の体の一部みたいな感じかな?」「右手と左手みたいな感じかな?」と検討するにつれ、気持ちがほぐれ、今は、自分の原家族の中で、「やさしい社会」に出てきた「家族のように」すごした時もあったな、と思い出しています。
「自分の考え」「人間の考え」はその時は強い思いに感じられたとしても、一面的なのですね。
ミーティングの中で検討し、それが見えてくる、そして固定的だった「考え」から距離が生まれるプロセスが面白いです。

セミナーで探究してきたことはすべて、そのほかの探求にもつながり、興味深く、面白いですが、「一面的」と言えば、「社会とは」について検討したことも目が覚めるような経験でした。
「社会とは」合わせないといけないもの、うまく合わせられない私は「はぐれ者」、「頑張って、『社会の一員』にならなければいけない」ように感じていた私でしたが、「社会の一員」という言葉をポジティブな意味で使っている人の話を聞き、私は「社会」と名付けていなかった社会基盤(水道、ガス、電気、交通網、病気になったら治療してもらえるシステム・・・)にどれだけ支えられて自分の人生があるのかに思いを馳せると、「自分」が頑張って社会の一員にならないといけないと思っていることがおかしな話のように思えました。
社会は本来何のためにある?」というお題に対して、「僕のため」という言葉も出ました。私は「私のため」に社会が存在していると思ったことがありませんでしたが、社会とは本来何のためにあるのかを検討すると、その本質には「分かち合い」「与え合い」があると気づき、「私のため」の社会であると考えることに矛盾はないように思えました。
そう感じることは、社会と自分の分離をいつも感じている私の癒しになりました。
(中略)
社会で受けた傷は社会の中で癒す、という言葉が印象的でした。内側に抱えている痛みや、トラウマ、思い込み、思い癖・・・等、今後の人生のためには、自分で解決したり、癒したりしないといけない、と思っている節があり、修行が進む、進んでいない、などの考えがありました。
けれども、そもそも、自分で選んで痛みを抱えたくて痛んだり、思い込みたくて思い込んだりしているのではなく、いつの間にか、気づいたら持っているもの、言い換えれば環境から、社会から取り入れたもの・・・と思うと、またそれを、社会、環境から愛されたり、慈しまれたり、見てもらったり、聞いてもらったりすることで、自然といつの間にか癒されていく・・・ことも自然に思えました。
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1月9日からアズワン鈴鹿ツアーを開催しました。

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1月9日からのアズワン鈴鹿ツアーを開催しました。
1月9日(土)~1泊と2泊の方たちのアズワン鈴鹿ツアーが開催されました。コロナ感染拡大の状況の中ですが、万全の対策を取りながら参加者を迎えました。
1泊で一家で参加された方たちは、お父さんが昨年ツアーに参加した後、4期ガイアエデュケーションにも参加して、家族にぜひアズワンの人たちに実際に触れてほしいという願いから来られました。また、2泊の人は、4期ガイアエデュケーションに参加した人から紹介されて、新たな会社経営の参考にしたいと来られました。
鈴鹿コミュニティで現れてきている会社や暮らしの仕組み、そして実際に暮らしている人たちに触れて過ごす中で、一人一人が内面を大事にして、本心で話したり聴き合ったりしていることが、とても重要だと感じられたようでした。今回の学びと体験が、これからのいろいろな活動や会社の経営などに活かしてもらえそうです。
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鈴鹿コミュニティ > アズワン鈴鹿ツアー参加者の声 | - | -

今年最初のアズワン鈴鹿ツアーを開催

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今年最初のアズワン鈴鹿ツアー(1day)を開催
1月6日(水)に、日帰りですが今年最初のアズワン鈴鹿ツアーを開催しました。
北海道から昨年参加された方から紹介された、大阪で地域コミュニティづくりの活動をされている方とその仲間の方たち、一緒に活動している奈良のガイアエデュケーション3期生、そして福岡からの方の5人でした。
10時半に集合して17時までという時間の中で、鈴鹿コミュニティの実際の現われや人に触れてもらいました。おふくろさん弁当という会社の運営について、お金を介在しないコミュニティスペースの仕組みについて、そしてコミュニティで実際に暮らしている人の自然体の姿などに、強く関心を持たれて、これからの参考にしてもらえる機会となったようでした。

参加者アンケートから紹介します。
このコミュニティで生活して、以前よりも生きやすくなった方々の雰囲気がとてもよかったです。このコミュニティでの生活が周囲との乖離も生まれているのかなと思ってましたが、より広くコミュニティが広がっていることを聞いて、安心で満たされた人の生活は、よりよい循環を生んでいることを知り、とても嬉しく感じ、これからの自分の活動動機にもなると思いました。

なお、コロナ感染拡大の状況を踏まえて、万全の予防策をとりながら開催しています。食事の時以外は、常時マスクを着用してもらっていました。最後の集合写真については、その瞬間だけ外して写させてもらったものです。3F8E5DAB-A9D8-4997-A960-C8431A1C0957.jpg
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鈴鹿コミュニティ > アズワン鈴鹿ツアー参加者の声 | - | -

アズワンネットワークニュース 新年号

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新年あけましておめでとうございます。
どんなに危機が押し寄せてくるように見えても、暗闇に閉ざされたように感じて迷う時も、今この時、命は静かに息づいて、私たちを生かしています。そんなお互いを理解し合い、知性を働かせ合いながら、日々の暮らしを紡ぐ中に、新しい社会が出現してきそうです。
各地で本心から話し合える、人と人のベースが確実に生まれていくための新しい動きが始まっているようです。これからどんな展開になるか楽しみな新年です。
https://mailchi.mp/137d0e4367fb/news-vol51-9640214
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対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」文章化(その4)

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10月25日のオンライン対談の文章化(その4)です。
ご覧ください。

▼第1回目のオンライン対談
動画⇒ https://youtu.be/pqCM5PseOPw

文章化テキスト
その1⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1185.html
その2⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1191.html
その3⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1195.html
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10月25日オンライン対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」
(その4)質問をうけて

司会
それでは、グループで先ほど話されたことや質問などありましたら、チャットに書き込んでいただいたり、発表してもらったりしたいと思います。ここからは、それにそって内容を深めたいと思います

質問)
自分が変わると社会が変わるっていうところが今一つしっくりこない、という方がグループに何人かいらっしゃいました。人と社会はどんな関係にあるとお考えなのか、どうでしょうか。

小野
自分が変わると社会が変わる、ですか?
自分の中が変わると社会や世界の見え方が変わるという意味で言ったら、変わって見えるということがあると思うんです。
しかし実際に社会が変わるということになると、まず人と人との関係性が変わるってことだと思うんですよね。もちろん、一人が変わることで関係性も変わってきますけども、本当の意味で社会が変わると言ったら、共有しているフィクションの扱い方が変わるとも言えると思うのです。
そうなるとお互いが変わっていく、お互いの社会の見え方、世界の見え方が変わっていくことから、人間関係が変わっていく。そして社会が変わっていくというのが、最初の段階ではあるのかなぁと思いますね。社会ができていきながら、新たな人間関係の人たちがたくさん出現する。そして、仕組みが変わってくることで、そこで暮らす人たちがまた変わっていくというのもまた次の段階であると思います。
まず、ご質問に答えるとしたら、社会ができていくという意味は、お互いに本心でいける人になり合って、具体的に関係性が変わっていくということが大きいのではないかなって感じはします。

三木
そうですね。今まで僕自身もサイエンズスクールを受けてきた体験で言うと、
現状の社会がまずどこにあるか、ですが、本当に一人一人の頭の中にあって、その頭の中にある社会にコントロールされちゃった上で、人と人が向き合っている。現状の社会というフィクションを通してしか、人がつながってない、だから苦しい。現状の社会っていうのはそれぞれの頭の中にある社会で、それって単なる思い込みなわけですね。
しかし、もっと頭の中は自由になると気づけるとそれが消えます。その時に、初めて直に会う、出会い直しと言いますかね。

直の小野さんと出会う、小野さんにどう思われてるのか、とか、こんなこと言うと小野さん怒るかなとかいった、頭の中に自分がつくったフィクションがなくて、もっと小野さんと自然に付き合い始められるようになる。それが次の社会の本当の始まりのような感じがします。

小野
そうですね。よくありがちな、フィクションが自然な付き合いを難しくしてしまうものに、たとえば、自分の言葉に責任を持つとか、一回言ったらやらなきゃいけないとか、意見を変えちゃいけないとか。

三木
何も言えなくなりますね

小野
さっき言ったことと違うことが、ふっと浮かんだとしても、意見を変えちゃいけないとか、そういう人間の考えが挟まると、本心と違う関係になりますよね。
今、三木さんが言ったように、そんなフィクションから解放されると、本心と本心でやり取りがシンプルになる。
「さっきはこう言ったけど、今はこう思っているよ」とか、
今あるものでやり取りできるような、そんな関係性から出現する社会と、一方で逆に、一度言ったら、もう違う意見は言っちゃいけないとか、責任持たなきゃいけない、という関係性からできてくる社会とは全然違うものですね。

質問)
「調べる」など言葉が独特な感じがある。分かりやすい言葉や説明があるといい

三木
なるほど。どうでしょう、調べる、という言葉、表現について。

小野
僕たち、「調べる」っていう言葉、平気で使っちゃっているんですが、もし言い換えるとしたら、どう言ったらいいですかね。もうちょっと分かりやすい言葉。

三木
普段、どういう文脈で言っているのかちょっと教えてくれますか。

小野
例えば、さっきの悪感情や怒りでも、怒りという現象が現れてくるそのプロセスを観察する時に使ったりします。
一般的に、怒ったりすると、なんで怒っちゃったのか、その原因とか理由を考えますよね。「調べる」というのは、そうじゃなくて、怒りが出てくるプロセスを観察する。何が起こったのかをよく見ることを表現しています。
理由を考えたり、あの人のせいだとか、自分はこういう育ちをしたからだとか、原因や理由、説明を考えることが普通は多いですが、それは調べるとは言いません。

それとは違って、実際に何を聞いて怒りが出るとか、悪感情になるとかーーー、そのプロセスでどんなことが内面で起こっているのか、それを見る、観察する、そういうプロセスのことを言っていますね。

三木
では、たとえば小野さんが何か言った。その言葉をきいて、自分が否定されたっていうふうに捉えて、いやな感情が出て来たーーーーの様に観察することですか?
すると、先程の説明であったような、自分で原因を見つけるとか、説明するということが、なぜ調べるということと区別されるのか、どう違うのか、ここでもう少し丁寧に見たいのですが、どうでしょうね。

小野
自分の内面に実際に起こったプロセスを観察することが、「調べる」ことにつながるんです。しかし逆に、怒ったことを理由づけたり、怒っても「無理もないよな」と納得してしまっている場合が非常に多いと思います。
原因を考えているつもりでも、メカニズムを調べないで、悪感情になったことや否定されたと感じて不愉快になった、そっちの結果のほうを見て、こういう理由があるから怒っちゃうんだと理由を説明して済ましてしまう場合も多いかなぁと思うんですけどね。

三木
小野さんに言われたことで、自分が否定されたから、悪感情が起きても仕方がなかったと。小野さんが言ったことが、自分の悪感情の理由になっちゃってるんですね、この場合は。自分が否定されたから、怒っても当然だ、という感じ。
しかし、調べるとなると、そのプロセス全体から離れて見る。

小野
そうですね。離れて、実際何があったのかと観察する中で、ここが勘違いしているとか、ここに決めたものがあるとかね。こことここを勝手に結び付けちゃっているとか。そういうものが見えてくる。

三木
あくまでも、その悪感情が起こっている原因を、自分の一連のプロセス、メカニズムの中で見つけ出そうとする

小野
そうですね

三木
みなさんに意味が通じているかどうか、気になっているんですが、
まぁ、そんな感じかな。

小野
やったことない人にとっては、すごく新しいと感じられると思います。これ、ぜひ体験してもらったらーー。本当に手に取るように見えてくるので。
つまり、自分の中を観察できるようになると、そこが違うんだな、とか、相手が言ったと思い込んでいたけれど、そうではなくて、自分がこう聞いたんだな、こう受け取っているんだな、等と、思い込んでいたことと実際との区別がついてきます。
すると悪感情とか、怒りから、わりに簡単に解放されるようになる。

「人間だから当然起こるもの」
「あんなこと言われたら、当然いやな気持になるに決まっている」、
という感覚が起きがちですが、そんなこと、実は決まっていないですね。
なぜなら、同じ言葉を聞いても、まったく何も思わない人は思わないですから。
それを聞いたらいやな気持になるのは決まっていると、自分が決めているんだということに気が付きやすくなる。

三木
はい。では次の質問に行きましょう。
「安心安全な場づくり」という言葉は、いつ頃どんな過程で生まれてきたのでしょうか。
それを聞いた時、自分自身が、安心安全の場をそれほど強く願っているとは思えないな、と感じました。本心本音を話せる条件として、安心安全な場づくり、それだということというのはよく分かります。しかし、自分がそういう環境を望んでいること自体、自覚することはなかなか無いと思います。」
という意見ですが、どうでしょう。

小野
そうかもしれないですね。
安心安全な場づくりとか、なんでも本音で言える場があるということ自体、無いことに慣れていますから、そんなことを望むなど思いもよらないでしょう。
今は、人と人とが、他人で、一歩外に出たら敵と思え、というくらい身構えている。それが普通の状態になっているということかなんでしょうね。

三木
そっかー。僕からすると、この「果たして自分がそれをするほど望んでいるのか分からないなと思いました」というのが、そうなんだ、という感じなんです。
安心安全を望んでないっていうことは、安心安全じゃないほうがいいことなんですか。どういうことかちょっとわからなかったです。

質問者
「そういう意味ではないです。求めなきゃいけないほど、安心じゃないとは、自分が普段から思っているかなぁ、と感じたということです。
それほど、やさしい場がないとだめだという風に感じるかなぁと。
逆に違和感というか、私はそんなにやさしさを必要としているかしら、みたいな感じになったんですよ。」

小野
わかりました。サイエンズメソッドを体験されたりすると、本当に安心している場でこそ、もっと心が開いて、関係性が変わってくることが実感を持てると思います。そういう体験をされるとまた違うのかなぁという感じもしますね。
たぶん、人によって、すでに安心の場が結構あって、それほど必要と感じていないということもあるでしょうし、逆に、人間関係において身を守るほうが普通だということで、安心安全という環境がどういう感じか、描きにくい人もいるでしょうし、人によってずいぶん違うと思うんです。
ただ、人っていうものを考えた時に、どんなことでも安心して自分の思いを出せる機会がある、そういう人との関係があるということは、非常に大きいんじゃないかなぁとは思いますね。

三木
ちょっと話がズレちゃうかもしれないんですけど、今の問いに触発されて思ったことがあります。
人間のほとんどの行動はいつでも無意識に安心安全を求めてやってるのかなと。だから戦争とか喧嘩とかでさえも。結局、どっか自分の安心安全求めて、攻撃は最大の防御がじゃないですが、そういうことなのかも知れないと思いました。

小野
そうですね。逆に言ったら、今の社会だったら、さっきの、守らなきゃいけないとか、こうしなきゃいけないとか、大人の場合は特に、言ったことに責任持たなきゃとか、約束は守んなきゃいけないとか、いっぱい、しなきゃいけないことや、こうしてはいけないことが、もう本当に多々ありますよね。勝手に人の家に入っちゃいけないとか。

三木 
はっはっはっ

小野
すっかり慣れて暮らしていますが、実は人間にとっては、ほとんど無意識に実は安心していない、守っている状態になります。

三木
そうですね。ここから逸脱しちゃいけないみたいな

小野
本当に安心安全の場と言ったら、そういう警戒から解放された時、人間ってどうなるんだろうか、それにはすごく興味があるんですけどね。

三木
チェリッシュとか学び舎で、子供たちにとっての強制のない環境の中で、どんな風に育っていくか、ということですよね。

小野
今、鈴鹿コミュニティでは、乳幼児たちが育つ空間をチェリッシュ、小学生たちがいる学び舎という場があります。そこでは、やらせるとか、やめさせるとかが一切ない子育てってどうなるのかなぁということを試しているわけですけどね。

だからと言って、子供たちに好き放題というわけではありません。何か伝える時も、「やらせる」とか「やめさせる」じゃなくて、
「これはしないでほしいよ」とか、
「これしてほしいよ」
等、はっきり伝えたいことはあります。しかし無理やりやらせることがない。そういう空間の中で子どもたちが育つように、と進んでいるわけですけども。

三木
次に行きましょうかね。
「グループの中で、それぞれの人の問題の原因を見つけて、それを解決する手助けを長年やってきましたが、一人一人についてどれだけそうやっても、また元の環境に戻っていく。社会の方の問題が解決されないままで、もぐら叩きだなぁと思っています。
問題が起きるのは、個人というより、すべて人と人の関係の中で起きるので、コミュニティが必要だと思っています、という意見が出て、他の皆さんも共感していました。」

小野
本当にそうですよね。僕も学生時代、心理学を勉強している時に痛感したんです。人が悩みを持ったり、色々病気になるというのは社会のひずみがその人に現れてくるわけで、いくらカウンセリングなどやっても、社会に戻ったらねーーーーやはり、社会の方を解決しなかったら、いつまでも繰り返しになる。このまま行くと、どうなるんだろうという疑問は素朴に抱いていました。
社会が本当に健康になったら、一人ひとりの心は自然と健康になると思うので。でも、そういう世界を作るには、健康な人が生まれないとそうはなっていかない。切っても切り離せないわけです。一人ひとりの心の問題を本当に解決しようと思ったら、社会そのものが健康になること。健康な社会でしか健康な人は育たないということですね。社会と人の心はいつも表裏一体です。

三木
はい。昔はどこの家にも玄関に鍵などかけていない、開放感のある社会でしたよねぇ。今はオートロックにカメラまでついている。社会が常に警戒している現れでしょ。そういう意味で心的安全性が社会から失われていると思います。

小野
本当にそうですよねー。この間、ある小学生の子どもをもつお母さんに聞いたら、最近は警報ベルを付けているって言っていました。だから子どもたちにも、「知らない人は怖い人と思え」のような、そんなことを教育しなければいけない社会になっているのかなぁって。

三木
悪循環ですよね。そうやって不安にさせてーー。

小野
無意識のうちに、絶えず守って、というのが普通になる。子どもだったら本当にどの人でも話しかけたいのが人の姿じゃないかと思いますが。

三木
はい。人間の精神面の成長には安心安全な環境が必要ですね。温かみのある共同体は大事です。

小野
そうですね。本当に。ここのコミュニティでは、子どもたちもたくさんのお父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんに囲まれて、本当にどの人も親しい感じ。そういう意味では警戒心とかほとんどない感じで育つ。
それは元々あった人間の姿って感じがしますよね。しかし今は失われかけている。

サイエンズメソッドで目指す、人間らしく生きる、というのも、要らないものがなくなって、本来持っている親しさでつながれる社会ということです。特別なすばらしい世界、ということではなくて、元々持っている人と人とがつながりたい、協力したい、何かしてあげたい、そういうものが自然に現れてくる社会、そこに立ち還っていくのがサイエンズメソッドって感じがしているんですけどね。

三木
今の社会だと、「人間の考え」という鎧をかぶって自分を守っている気になってしまいますが、それが実はしんどくなっている。お互い鎧と鎧で付き合っているから、会って話しても、心はまったく満たされない感じですよね。
それがサイエンズメソッドで、「これも鎧だった、あれも鎧だった」ってはずしていくと、逆に安全って言うんですかね。元々守らなくてもよかったのだと。

質問
「サイエンズメソッドの受講はオンラインでも開催可能でしょうか。それともリアルで直接会わないとできないものなのでしょうか。」

三木
なかなかいい質問ですね、時宜にかなった。

小野
本格的にサイエンズメソッドを学ぼうと思ったらリアルで、こういう入門的なとか、どういうものかっていうのを初歩的に理解しようというのでしたらオンラインですけども、やはり自分自身のかなり深い部分まで見つめながら観察する、さっきの調べていくことを学んでいくにはリアルじゃないとできないかなと今は思っています。

三木
でもオンライン入門講座ぐらいは用意されてもいいんじゃないですか。

小野
そういう研究はしたいですね。それもこれからの検討課題で。

【司会】今日はオンライン対談初めての試みだったんですけども、これからシリーズでやったら面白いんじゃないかという声もあります。
今日は第一回と位置付けてやらせてもらったんですけども、聞いてみての感想とか、シェアしたいこととか、ぜひみなさんから寄せてもらえたらうれしいです。

三木・小野
今日はどうもありがとうございました。
サイエンズ | - | -

対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」文章化(その3)

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10月25日のオンライン対談の文章化(その3)です。
ご覧ください。

▼第1回目のオンライン対談
動画⇒ https://youtu.be/pqCM5PseOPw

文章化テキスト
その1⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1185.html
その2⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1191.html

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「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」(その3)
小野
そうですね、三木さんが言及された、普通は安心した状態になれないということなんですがーーー安心していない、つまり心底に不安や警戒があるわけですが、慢性的になると、自分では気づけなくなっています。人間も動物ですから、不安や警戒、それは危険を感じているということですね。危険から身を守るほうに相当神経を使いますね。
警戒していては、落ち着いて、客観的に自分を観る方向に行くことが難しくなります。守るということは、相手から何か責められたり追及されたりなど、人が自分を襲ってくるのではないか、そう恐れている状態ですから。
今の社会で生きようとしたら、ほとんどそういうベースで暮らしている感じがしますけどね。

三木
そうですね、確かにその緊張に気づいたり目を向けたりすること自体、怖い。

小野
他から身を守らねばならないという心の状態ですと、おそらく自分を観るということは、ほぼ無理、という気がします。そこに着目して、まずは安心して何でもを出せる状態になれるように。そこでようやく、自分の方に目を向けることが始まるわけですね。

たとえば怒りとか、いわゆる普通で言うネガティブとかマイナスと言われる感情は、当人自身が不快ですから何とか無くしたいと誰しも思いますね。しかし実際にすでに起こっている。もう起きているわけですから、それを隠した状態で自分の中を観るという、そのプロセスはあり得ない、ということです。
隠していること自体が、人を警戒しているし、その場で調べていく対象には成り得ない。しかし、普通はそれを自分の内面で、一人で何とかやっちゃおうとしている訳ですから。そのベースは、ただもう人を警戒している状態、とも言えますね。

そこから、まずは警戒がいらない状態でオープンになることが先決ですね。例えば悪感情が起きた場合でも、こんな悪感情が自分に起きている、起きたなって、良い悪いなしに、そのまま観られるような状態が先にあることです。そこで初めて、こんな感情が出るけれど、これはどうなっているんだろうと調べる対象になると思うんです。

安心していたり、なんでもそのままが言えたりする状態がないと、何も始まらない。

だから、怒ったりするのはよくないとか、嘘つくのはよくないとか、隠し事しているのは悪いこと、人に知られちゃダメだ等、そういうものがあるうちは、ひたすら身を守っている状態ですから、どうしてそう思うんだろうと、元にあるものを見つめることができないですよね。むしろ、そこにカギがあるわけですが。

安心の状態と一口に言いますが、身を守ろうとする防御の壁も人それぞれで多様です。できるだけ防御のない状態にできるように、それが、サイエンズメソッドを使ってのミィーティングでは一番ベースになる部分だと思っています。

さっきのスピリチャルとか悟りとか,宗教体験をされた方の場合は,パッと世界が変わって見えたり,それで自分の世界観が変わることで世界が違って見えるってことは、多分あるだろうと思います。ただ,世界観が変わったり、どんなに自由な心境を味わったりしても、今の社会の中で生きる限り、いろんな縛りが社会から来ますよね。

世界が縛るというのも,社会が縛るというのも,実際に「社会」というものがあるわけじゃない。社会というのは人間の考えで,ハラリさんも言っているように、人間は人間のフィクションを使って,これだけ,見知らぬ人同士が協力できる。それは逆に言ったらフィクションがあるからこそですね。ホモサピエンス以前の人の群れだったら、150人程度しか協力できなかったものが,フィクションを共有することで1万人で協同するとか,野球場に5万人の人が集まってくるとか,日本の国だったら1億3千万人の人が日本の国だとか,フィクションを共有することでそれだけの強力な力を得たということです。

それがホモサピエンス、人間の一つの大きな特徴ですけれども、逆に言えば、そのフィクションが、現在だったら規則とか,お金とか,人間を縛る道具にも同時になってしまっている。
さっきの,いくら悟った,世界観が変わったといっても,縛ってくる社会にいる限りは,心境的には変わったと感じて、中にはそれが一生続く人もいるかもしれませんけども,絶えず,縛ってくる影響を受けるわけです。
人間は山の上に一人でいたらそんなに社会の影響は受けないかもしれませんね。
しかし、こういう社会の中で暮らしている限りは、影響を絶えず受けています。人間は、そういう社会動物ですね。人の心境が変わっただけでは、たぶん安心は持続できない。社会すべてから、人を縛るものがなくならない限りは,本当に自由な心境で生き続けることはできないと思いますし,逆に社会が本当にそうなったら,一人ひとりが修行とかサイエンズを学ばなくても,そういう社会の中で暮らすことで、誰でも幸せに生きられるともいえるわけです。さっきもサイエンズメソッドの目的を言いましたけども,社会がそうなったらいいわけで,一人ひとりがサイエンズメソッドを学ばなくていい社会にしたいためにやっているともいえると思っています。

ハラリさんの言うフィクションが人間の持ち味でもあるし,繁栄する能力でもあるんだったら,そのフィクションをフィクションとして扱って,フィクションに縛られない使い方をしていくことはどうか。

それは言い換えれば、人間の考えがどういうことかを知ることだと思うわけです。フィクションは人間の考えの話ですから,人間が人間のフィクションを、フィクションとして扱える,そういう知能の使い方になっていくのがサイエンズメソッドともいえるかなと思っているわけです。

三木
なるほど。だから人間の考えを、もっと意識的に使えるようになることがサイエンズメソッドの目的ですね。

小野
そうですね。新しい知能の用い方だ、と僕は思うんです。
例えば,法律があるとか,お金があるとか,常識があるとか,あたかも「ある」みたいじゃないですか。常識あるよねとか,規則あるじゃんとか。それがフィクションだという自覚もないくらい,お金がなきゃ生きていけないという人が結構多いですよね。それくらい現実感がある。

フィクションと思えないくらい現実感があるように,もう,フィクションに支配されちゃっている。人間が作ったフィクションなのに,人間がそれに支配されて,お金のために働くのは当たり前みたいな。国を守るとか当たり前のように言いますが,「国ってどこにあるのですか?」みたいなね。

三木
でもそうなると問題は、国もお金も全部ここ、頭の中にあるんですが、それをみんながみんな同じように思っていて、もし誰かが外れようとすると「おいおいおい」と引き戻すわけですよね。そこをどうやって開いていくかっていうのが、課題になるのではないか。

小野
そうですね。

三木
そこをサイエンズメソッドは徹底して探究しているのかなと思うんですが。

小野
大きなところですね。フィクションを否定しているわけじゃないんです。
国、という概念を否定しているわけじゃなくて,それに縛られている,縛っているという部分が、もっと自覚できるようになることですね。

そしたら国っていうのは何のために作っているフィクションだろう?とね,人を縛るとしたらそれは逆なんじゃないかとか。規則とかルールとかもそうですよね。規則が悪いというわけではなくて,こうしようかというルールとかはあってもいいと思うんですが,人よりもルールを大事にして,ルールを守らない人を縛ったり,責めたりして。そこがテーマではないかと感じています。

フィクションに縛られないで,フィクションを活かせる。そういう知能の使い方。人間の持っている,フィクションを使って共有できる,協力できる,それをもっと存分に発揮できる方法がサイエンズメソッドではないかという風にも思います。

三木
それが、そのサイエンズの一番新しい本で、『次の社会へ 人知革命』、という言葉で表しているのが今言った内容ですね。

小野
そうですね。革命というと、何か壊したり,あいつが悪いからやっつけろと暴力的になったりしがちですかね。
しかし、サイエンズの場合は、たとえば国とか法律とかお金、それぞれ一体「何」を指しているのか,何をしているのか知っていくプロセスが大きいです。「知る」ことで世界が変わっていく。
何かを変えたり,壊したりしていくのも一切なくて,本当は,それはどういうものなのか,フィクションっていうのはどういう存在なのか,フィクションを使って何をしたかったのかとか,そういうことを知るだけで世界が変わっていく。知ったら,自分自身もそういう方向に進んでいきますし,サイエンズメソッドを使ったミーティングを通して,何がしたいんだろうとか,何にとらわれてきたんだろうと知ることで、これまでとは違う関係性が生まれてくる。
そういう中でアズワン鈴鹿コミュニティという「形」になって現れてきていると思うんですよね。

三木
それで言えば、鈴鹿のアズワンコミュンティが面白いなあと思ったのは、
普通、コミュニティといえば、実際に限られた敷地があって、その中に建物があって、その中で共同生活をしているというイメージを抱いています。実際、多くの場合がそういう形だと思うんですが、アズワンにはそういうのがない。
20万人都市の鈴鹿の中で、それぞれの生活があって、それぞれ外から見ると普通に暮らしてるんだけども、その中に、人知革命で培ったんでしょうかね、ニュートラルな、ナチュラルな意識状態で人と人が行き来し合っている。
そこは見えないけどしっかりあって、またそれを外部から来た人がしっかり感じられる。見えないけども感じられるぐらいに育ってきているなと。

小野
そうですね。

三木
そこが本当に素晴らしいなって思っています。
形がそのまま日本に広がるってことじゃなくて、人と人、ナチュラルに付き合える人たちがどんどん増えていってーーーそれぞれの場でそれぞれの人がまたそれぞれの暮らし方をしていくというか。そういうことですよね。

小野
そうですね。知能の用い方が、フィクションをフィクションとして扱えたり、自分の内面に何が起こっているのかを観察できたりするように働きあう。
そういう人たちがいたら,人と人とのつながりの中から現れてくるのが社会ですから、次の社会は、そういう関係性が生まれたお互いの中で出来てくるもの、ということです。
鈴鹿は一つの実例としてみてもらいながら,こんな暮らし方や関係の仕方がありうることや、そのベースになっている、サイエンズメソッドにも触れてもらったらうれしいですね。感じられたところから、新たに新しいものが生まれていくのではないでしょうか。

何歳になっても、人というものは、自分自身からいろんなこと気づいていけるということ、そういう人同士が何人か集まってきたら、そこに新しい関係性が生まれます。もしそれが皆さんご自身の場所で、各地で生まれはじめると,いろんな形のコミュニティが生まれてくると思うのですよね。コミュニティの形は,そこの地域とか,そこにいる人たちによっていろんな現れ方をしていくでしょうから、結果として多様な姿になってくると思いますけどね。

三木
普通、次の社会というと、民主主義とか資本主義とか、あるいはそういうものじゃない、もっと良い制度とか何とかーーー、という発想になりがちですが、しかしそこは全部オープンですよね。
形にとらわれるのじゃなくて、もっと具体的な、人と人の自然な状態での暮らしぶりが、次の社会を生み出していく。

小野
そうですね。まず一人一人がある。それぞれがその人らしく生きられるために制度がある。しかし現状では,制度に人が合わせる,制度を維持するために人が合わせなきゃいけない,それに合う人を教育する、となっているから,どうしても維持させようとして、人に圧力がかかったり,自分の意志ではないことを強いられたりすることがおきる。だが社会を守るためには、それも仕方がない、いやむしろ必要じゃないかとーー。
要するに,フィクションで作った社会ありきで,そこに合う人を育てる、という構造になってしまっているのですね。

しかし,一人一人が実在するわけです。一人ひとりが本当にその人らしく自由に生きられるためにフィクションを使う。というか,協力し合うためにフィクションを使う。
いまは本末転倒ですね。フィクションを守るために人が要るから、人を縛るためのフィクションを生み出している。
そこ、人のためにフィクションを扱えるようになっていきたい。

今,アズワンがスタートして丸20年になりますが、サイエンズメソッドをベースに,人が社会に合わせるのではなくて,誰もがその人らしく生きるための社会ということに焦点が当たってきました。
研究も,最初は、認識とか個人の悪感情からの解放とか,話し合えるということが最初の研究テーマとして大きかったわけですけども,今は、社会がそうなっていくための研究になってきました。誰もがその人らしく生きられる社会の仕組みはどんなものか。社会がどうできていくのかという研究に重点が移ってきている感じです。

社会ができたら一人ひとりがそんなに努力しなくてよくなるのではないか。そういう社会の中で育ったら、それが当たり前になる。
たとえば、固定しないということも、元々,自然界にも、そこに生きる人間という生物にも、固定のない、常に変化する動きの中で生存している。そういう存在です。実は努力しなくても。本来の人の姿で生きられるような社会というものが、研究を通してだいぶ見えてきた感じはしますけどもね。

三木
その意味でいうと、今の社会の方が、無理をしている、ということになりますね。
無理なことをしている、それで必然的にみんなそこで強いられて、しんどいわけですね。この状態から、もとの姿に自然に戻す感じですかね?

小野
はい。サイエンズメソッドを学んで、何かを身につけて立派な人になる,努力して取り組んで悟るんだ、とかではまったくない。逆に、本来は要らないもの、無理のある社会に適応するためにつけざるを得なかったものを外していくということなんですかね。
それは、元々人間、あるいはその人に備わっている、「ある」ものに気づいていって,元々あるもの同士でつながっていく。
お互いに,互いの元々のもの、その人らしさを応援し合っていこうみたいな,すごいシンプルな感じですね。

三木
そうですね。やっぱり21世紀の禅かなあと。僕としては、そこにこだわってる(笑)

小野
三木さんの文章で、足し算じゃなくて引き算だ、みたいなことを紹介していましたよね。

三木
そこが本当にいいですね。どんどん楽になる。

小野
自分で修行して高みに上がっていく、ということではない、その真逆ですね。要らないものがまず取れていく。もちろん本来のもので伸びていきたいという気持ちは自然にあると思います。しかし、頑張ってとか,努力して、など自分に強いるようなことでは、そうならない。苦しいことではなくて、本当にそうなりたいという分だけが、そうなっていくというかーーー

三木
するとその分、もっと今より豊かな社会になっていく気がしますね。

小野
それはすごく思うね。恐れたり警戒したり,社会に合わせなきゃいけなかったり,頑張らなきゃいけないとか,評価を得なきゃいけないとかーーーー,多くの人たちが、そのことのためにエネルギーの多くを費やしている感じがします。
まず人から責められないようにしようとか,言ったことには責任取らなきゃとか,言いたいことが言えないとか。

三木
はい、自分で自分と戦ってる感じですよね。相当消耗をしてしまう。

小野
そういう無駄なエネルギーが要らなくて,本当に言いたいことが言える,やりたいことがそのまま言えるとか,やりたくないことはやらなくてもいいとか,そうなったらどれだけ人ってエネルギーが出て来るんだろう。みんな、心ならずも、ものすごいエネルギーを浪費してしまっていますよね。

三木
そうなると本当にね、自然に人がみんな、もともと持っているやさしさとか、思いやりとか、創造性だとか、いろんなものが楽に出てくる感じですね。

小野
そういうお互いが,してあげたいとか,他の人からしてほしいと言われたら、やってあげたくなるとかね。人に求めるもの,人に応えたいもの,それで響き合っていく人間関係がベースに。

小野
それが今の鈴鹿では現実に感じられる。初めて来た人にも少し感じてもらえるとこまで成長しつつあるところかなぁって思っているのですが、どうですかね。

三木
僕らは日本語で学べる、学ぶって言い方がいいのかどうかわからないですけど、すごくいいなと思います。今、サイエンズアカデミーには、スイスとかブラジルとか韓国から鈴鹿に学びに来ている人たちがいますが、皆すごい偉いなあ。

日本語から学んで、暮らしを通して学びながら、いずれそれぞれ各国に戻って広げていくんですよね。僕らは日本語で恵まれてるなって。

ここでぼくはOSHOの宣伝をしたいのですが、OSHOは日本に禅のスピリットは今で
も生きてるって言ってたのです。が、そのスピリットは生きてるんだけども、日本人は同時に世界で一番抑圧されている、とも言いました。
そこからすると、多分、日本人くらい、人間の考えに一番忠実に従わなきゃいけないって思っているのかもしれないですね。だから、そこを突破すれば、その日本人がずっと伝えてきた禅のスピリットが開花すると。そして21世紀は禅の時代だと。

小野
そうなんですか。なるほど。

三木
はい、すいません。

小野
それで21世紀の禅なんですね。

三木
そうなんですよ。それで21世紀の禅なんですよ。 ちょうどいい感じでまとまりましたね。(笑)

小野・三木
だいぶしゃべりましたねー、そうですね。少ししゃべり疲れたんですけど。(笑)
サイエンズ | - | -

New Video! ”サイエンズアカデミーって、何してるの?”

新しいビデオができました!
誰もがその人らしく生きれる社会を願う若者たちのための学びの場「サイエンズアカデミー」のPart.3。(3回シリーズ)

ジエゴとフンミのビデオに続いて、今回は👉アカデミーの日常を紹介したいです!
一人一人の日常の中の一つの「推し」を聞いてもらえたらと思います。
https://youtu.be/664wcpkPLJE
Academy Life(英語、ドイツ語、ポルトガル語、韓国語、日本語の字幕があります)

・Vol.1 ジエゴ(ブラジルより)「次の社会を創る人が育つ」
https://youtu.be/csYI-kTrOag
・Vol.2 フンミ(韓国より)「親愛なる友へ」
https://youtu.be/TVzRmrX_fvw

アズワンネットワークサイエンズアカデミーの目的をもう少し知りたいと思う方は、こちらへどうぞ👉 https://tinyurl.com/yddd3cq8
アズワンネットワークの活動をもっと知りたかったら👉 https://tinyurl.com/y7lrudac
サイエンズアカデミーの母体となる鈴鹿コミュニティをもっと知りたかったら👉 https://tinyurl.com/yaq73q79
アカデミー | - | -

11月12日~13日でアズワン鈴鹿ツアー開催

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11月12日(土)~13日(日)でアズワン鈴鹿ツアーを開催しました
岐阜県と愛知県からの参加者を迎えて、12日(土)から13日(日)にかけてアズワン鈴鹿ツアーを開催しました。
お二人とも、多くの友人・知人からアズワンにぜひ行ったらよいと勧められていたそうで、今回タイミングが合って来られました。
一緒に理想のコミュニティや社会をつくりたいと活動されていて、実際に1泊2日を過ごしてみて、たくさんの学びや気づきがあったとのことでした。

参加アンケートから紹介します。

争いのない世界、平和と調和の世界を理想に掲げ歩まれてきた道のりに、今、新しい世界、新しい時代、新しいシステム、新しい人々が、実際、実現されていることに、敬意と感動です。もっと知りたい、学びたいと思いました。
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鈴鹿コミュニティ > アズワン鈴鹿ツアー参加者の声 | - | -

12月オンライン対談 「分裂、対立の社会から「一つ」の社会へ」Youtube公開

12月9日に開催された、オンライン対談
「分裂、対立の社会から「一つ」の社会へ~理想論でも、宗教・道徳でもない第三の道 アズワンとサイエンズメソッド」
の動画をYoutubeに公開しました。
ご覧ください。

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メディア情報 | - | -

対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」文章化(その2)

サイエンズメソッド対談.jpg
10月のオンライン対談の文章化(その2)です。
ご覧ください。

10月の対談については、YouTubeで動画が見れます。
https://youtu.be/pqCM5PseOPw

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「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」(その2)

三木
それでその問う方法としてサイエンズメソッドが生まれてきたということですね。
自分自身がサイエンズスクールで8つのコースを体験させていただいて思ったのは、それぞれのコースに出てくる問いというものが、実に有効じゃないか、ということです。自分の実際がどうなっているのかを調べる問いになっている。

そこから、僕は、これが本当に21世紀の禅だなと強く感じ入ったわけです。
公案みたいなんですね。
「生まれる以前の、自分の顔とは何か」
など伝統的な公案には、非常に難しいものが多いと思っているのですが、そのような難しい公案ではないし、もっと身近な問いであるにもかかわらず、本当の自分を観れていく、いい問いだなーと思ったわけです。
ああいう問いってのいうのは、どういう形で生まれてきたのですか。

小野
そうですね。僕らは、2000年の暮れに引っ越してきて、2001年当時から本当に研究したかったんですね。
「何がどうなって間違ってきたのか」
「本当はどうしたかったのか」
「本当に固定しないでいくとは」とか、
「一つってどういうことか」とか、
もっと研究したいというメンバーで、最初の頃からズーっと毎週3時間、いろんなことを研究する中で、次第に見えていきました。
それがある程度「こういう方向だろう」とか、
「なぜ固定するのか」、
さっき言っていたように、
「いくら頭で分かっていても、そう成っていかないのはなぜか」とか、
そういうことをずっと研究していく中で、その中で自分たちが調べていく問いが自然に出てくるわけですよ。
それがある程度見えてくると、これをまた今度は
「いろんな人たちが一緒に考えていけるようになるにはどうしたらいいか」
という中で生まれてくる問いですよね。
やっぱり自分たちが問いかけてきたその中で「見えてきた問い」ですね。
またサイエンズメソッドっていうのは教える方式ではなくて、一人一人が気づいていくものにしたかった。おそらく禅の公案も同じ趣旨だと思うんですが、何か教えがあって、それを覚えたりするんではなくて、一人一人が真理の方に気づいていくためのきっかけとしての禅だったんじゃないかと思うんです。
僕たちも、教えること自体が、さっきも話に出ていましたように、考えを固定する方式ではないかと思っています。
「どうやったら一人一人が自分の頭で考えて、自分自身で本来とか真理に気づいていけるだろうか? 本来のものに気づいていくには?」
という方向ですね。特に、それを個人で「うーん」と考えるのではなくて、その真逆で、みんなで考え合う中で気づいていけるようにーーー。そういう研究をする中で見つけ出していった問いですね。

三木
なるほど。
今の話を聞いていて、やっぱりサイズメソッドがすごくいいなぁと思ったんです。
僕は瞑想などを通して、自分で自分の内側を観ることをしてきたんです。ところが、サイエンズメソッドでは僕は不意打ちを受けたんですよ。
みんなでこたつを囲んで、お茶とかお茶菓子を食べながら、問いについてみんなでべちゃべちゃべちゃべちゃ喋るじゃないですか(笑)
そういうと語弊があるかもしれないですが、そうやってみんなで深く考えながら、進むじゃないですか。ここが、自分一人で考えるんじゃなくて、みんなで一緒に探究するっていうんですかねーー。
「これはどういうことだ、どういうことだ」と。非常に新鮮だったし、経験して、これは楽だなあって思いました。
自分一人だとどうしてもブラインドスポットのようなものがあるのですね。ところが、この場合は、他の人の考えを聞いて、
「あ、それはそうだな」
と、はっと立ち止まったり、気づくわけです。そういう感じはいくつもありました。

振返ると、自分がサイエンズスクールに参加している時に、随分、いろんな人に助けてもらったなあと思いますが、しかしやっぱり気づくのは、自分自身なんです。この点が大事じゃないかと思うのは、普通の状態では、人の気づきをいくら聞いてもそれは自分の気づきにはなりえない。しかしサイエンズの探究をしている場合には、
「ああー、なるほどなるほど」と、
そういう時は自分の方で気づいてるんですよ。

小野
うんうん

三木
そういう自分自身が体験してきたことがあって、今の話でもやっぱり非常に考えられてるなぁと思うのは、もしこれが教えとして、
「これが答えだよ」とやってしまうと、
その答えを暗記して、
「この問題が出た、この答えに従って」
のような今までの教育の仕方に戻っちゃう。
だからある意味、現代人がみんなで一緒に考えたらいい質の問いを、アズワンのこれまでの経過の中でみなさんで見出してこられた。それを提供しているという印象があります。
「みんなでこれ一緒に考えてみようよ、探求してみようよ」と。

小野
うんうん

三木
あと一つは、サイエンズメソッドで、部屋に張り紙してあるじゃないですか。正確な言葉はおぼえてないのですけど、終わりなき探究でしたっけ、どこまでも続く探究、、、
ね、どこまでもいくみたいな。どこまでも広がっていくみたいな

小野
そうですね。

三木
自分の固定を、どこまでも取り外していくための問い、ということでしょうか。

小野
ええそうですね

三木
この感じがまた、禅なんじゃないかと思うんですけどね

小野
そうですね。サイエンズメソッドでは「人間の考えがどういうものか」っていうのが一つ目の問い、というか項目で、「人間の考えを知る」っていう項目がすごく大きいんですが―――、

三木
ちょっと待ってください。
その「人間の考え」って言い方がちょっとわかりにくいと思うんですが、それってどういうことですか。

小野
んー、これ、確かにね、話始めると難しいといえば難しい、、、  
例えば、いま僕たちの目の前にマイクがありますが、こういうモノに対しても、人間は全て自分の目を通して、五感を通して認識して捉えるわけですよね。真理とか本当のことを調べていくのも、絶えず人間は何かの五感を通して、経験とか知識とかを使って認識して、それを思考したりしていろんなものを見出していく、そういう生き物だと思うんです。
そういう意味で、いくら事実とか真理に迫ろうとしても、あくまでも人間なりに捉えたもの、五感で捉えて人間なりに捉えたもので真理に迫っていこう、事実に迫っていこうとする存在だと思うのです。ですから、どこまでいっても、いくら調べても、真理にどんどん近づいていくとは思うんですけども、人間は人間なりの捉え方でしか捉えられないという限界を知る。
それがある面で、決して固定しない、決めつけが起こらないことになる、この発見はすごく大きかったなぁ。

こういうのも、知識的には、脳科学の分野で、現代ではすでに言われていることですけれど、じゃあ、いざ自分たちが暮らしている日常では、やっぱり「見たら、そうじゃん」とか、「私は見た!」とかね。
「見た、絶対間違いない」とか、
結構言い張ったりしがちです。この大きさをすごく思うんですね。
理論的に留まることなく、やはり実際に迫っていこう、真理を知っていこうという姿勢でもあるし、それを探究会で、知識ではなくて、人間の限界を自覚して、絶えずそういう姿勢で生きていけるようになる、そこが大きいんじゃないかなと。

三木
なるほど。じゃあ、サイエンズの各種コースではその問いを通して、どこまでも固定しない、決めつけないということを学んでいるんでしょうか。

小野
そうですね。それが一つ大きいです。
人間の考えを知るってことは、どんな時も自分たちが見てるに過ぎない。だから認識していることとかは仮説でね。証明されたと言われている法則とか理論とかでも、
「人間なりに一応証明した」
と思ってるだけで、
「証明したから実際だ」
「証明したからこれは真理だ」
とは言いきれない。まあ実際に科学の理論とか法則も、その時代には真理だって言ってたことも、また新しい発見や理論に塗り替えられていることが多々あるわけで、今の段階で、一応真理だろう、と人間が思っている。だから真理そのものではないですよね。真理だと思っている。真理だと、一応証明されている、としているわけですね。

三木
現時点ではそう思っている、ということですね…

小野
そういうことだと知っていく。すると、決めたこと、固定したものが無くなっていく。その結果として自然に悪感情とか対立から解放されていくーーー
そこが大きいと思いますね。

三木
ここは丁寧にね、もっと聞きたいところですけど、要するに固定がなくなってくるっていうところが、他人に対する悪感情を持たなくなるということに、どうしてそこがつながってくるだろう。

小野
例えばひどいこと言われてとかね
「あいつがひどいこと言ったから、自分が腹がたった」
よくそういうことも話に出ますね。
この例で行くと、ひどいこと言ったっていうことについても、まず、ひどいこと言ったってことが事実かどうか?
:
「あいつがひどいこと言ったから自分が腹立った」
と当然のように思ったり言ったりしますが、はたしてその人はひどいことを言ったのだろうか?
ひどいことを言った、これが事実だ、そこから話が出発しますが、そもそもひどいことっていう事実があるのか?とかね・・・
ひどい事の、ひどいっていう形容詞も、相手の人が言った言葉を自分のイメージ で捉えたり、様子を見て、それを自分のイメージでやはり捉えたり、自分の過去の経験、記憶に照らして解釈して、「ひどいな」となる。そこは自分が認識してそうなる訳ですが、それを、自覚がないまま、自分自身の捉え方であり認識だということが抜け落ちて、
「ひどい事が起こった」となる・・・。
悪感情が起こるには、そう捉えてしまう捉え方や過去の記憶、その事に対する価値観など、いろんなものがあるわけです。

自分なりのそういう捉え方と、記憶や心の状態などが反応して、怒りが起こるんですが、それをあたかも、相手のせいにするメカニズムがいろいろ複雑にからんでいる。
そのプロセスを解剖していくわけです。しかし、解剖の仕方も、論じるのではなく、どういうことが自分の中で起こっているのかを観察していくわけです。
すると、ここで決めている、ここは過去の体験とを結びつけている、とみえてくる。
言葉の問題もありますね、言葉に対する価値観が自分独自のものだ、と知っていくと見えてくる。すると、どんどん悪感情や怒りからも解放されてくるわけですよね。

三木
何かひどいことを言われたと思って自分は怒っているーーそのプロセスをもう一回、最初から調べていくと、ひどいことを言われたっていう、その自分自身の解釈自体がきっかけとなっていくけれども、それは本当ですか? という問いだと言ってもいいのでしょうか。

小野
そうですね。その場面では実際に何が起こっているのだろうとかと観察できるようになるとね、怒りはほぼなくなっていく感じはしますね。
この時の「相手のせいで」となっている部分ですけど、本当に相手のせいなのか、僕たちは「調べる」という表現をしていますが、その始まりとプロセスをちゃんと観察できるようになるとね、怒りはほぼなくなる感じがしますね。

三木
それは実際に起きていることに対して、自分でジャッジしないっていうか、ニュートラルでいられるみたいな感じなんですかね。

小野
だんだんそうなってきますよね。
その起こったことについて、まずは、まあ色んな反応がパッと起こってるんですけどそれがなくなるって事でもないですが、だんだん自分がとらえているんだということが分かってくるとーーー、

三木
この野郎みたいな

小野
はい、そういうことも、なぜこの野郎ってなるのか、だんだん分かってくると
「自分中にそういう捉え方もあるんだな」
と、自分を客観的に眺めたり、
「実際相手は何言ったんだろう?」
と、自分の感情より相手の実際に対して関心がまっすぐ移ります。こうした経過を経て、サイエンズメソッドを学んでいくと、悪感情とか怒りが無くなってきますね

三木
そのプロセスが見えてない段階では、それこそ小野さんに何か言われて、この野郎と思った時には、自分の方に自分の関心が向いちゃってて、何か言ってやろうかと思ったり、いやいや自分みたいな善良な人間はそんなこと思ったりしていけないと懸命に抑え込もうとしたりします。いずれにしても、結局自分の方に関心が行っちゃってるわけですね。
ところが、さっき小野さんが言ったように、そのプロセスが観えて、ニュートラルな姿勢になってくると、相手が言ったこと自体が
本当は何を言っているのか?
と相手に関心が向いていく、そういうことですかね。
それが本当の話し合いのスタート地点になっていく。

小野
そうですね
その人が言葉を通して、何かを表現するのを聴くということは、その表現する前の、その人を知りたいわけです。しかしほとんどの場合、言葉に対して自分が反応をしてしまって、
「ひどいこと言われた」とか、
「ああ嬉しいわ」とか、ね、
もう全部、自分の中だけでぐるぐるまわっているだけですよね。だいたい自作自演で、怒ったり嬉しかったりして、相手にはほとんど関心がない、という例が多い感じがしますよねー。

しかし、「だから怒っちゃいけない」とか
「何かおかしい」とか
怒ったことに対してまたジャッジが入る、そしてそれを「言っちゃいけない」とか
「おかしい」とか言って抑え込むから、ますます何が起こっているのか見えなくなっちゃうのではないでしょうか。
しかし、実際には起こったことは起こったことで、良いも悪いもなく起こってしまったことです。しかも、これを材料に自分の中のメカ二ズムを観察するとか、どういうプロセスが起こっているか観られるようになる。
この点だけでもすでに、何かを信じ込んだり、なにかの価値観で感情を抑え込んだりするような方向とは、全然違いますよね。

起こったことを題材に、何が自分の中にあるか、どういうふうに、どんな価値観があるのかとか、そういうことが自然と見えてくる。 それをまた一人で分析したんじゃないということがまた面白いところですよね。

もし一人だったら、大体自分の解釈の方に行ってしまうことが多い。それがさっきの問いがあったり、みんなの中でいろんな話を聞きながら、冷静に自分の中が観れるようになったりします。人の例を聞きながら「あっ!」てね、自分が気付いたり・・・。
一人で自分の中を見る人は、例えばブッダとかああいう人はできた人なんだろうなと思いますけど、ほとんどの人はそういうのは非常に難しいと思うんです。しかしサイエンズメソッドのミーティングで調べていくと、かなりの人が簡単に気づいていける。
そういう感じがしますね。

三木
それで言うと、僕が体験的に思うのは、何人かと一緒に探究するのですが、そこの空気感、安心して自分の中を調べられる、というのがいいですね。どうしても普段は自分を守ってると思うんです。

小野
そうですね。

三木
そこを安心して素直に調べていける場ができてるような気がするーーーいや、ような、じゃなくて、実際出来ているのですが、そこはやはり小野さんたちのこれまでの経験が、何か生かされているのかと思うんですね。
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