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【オンライン対談】本当に自由な社会とは? テキスト版 その4

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~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~

2020年10月25日に第1回、12月9日に第2回を開催して好評だったアズワンネットワークのオンライン対談は、2月11日に第3回「本当に自由な社会とは? 」
を開催しました。2月に動画を掲載しましたが、テキスト版ができましたので、下段に掲載します。

対談の文章は4回に分けて、毎週Webサイトにアップロードします。
今回はその4回目(最終回)になります。

第1回の対談動画はこちらから
第2回の対談動画はこちらから

 対談者は、元大手出版社の編集者で、個人の意識の覚醒と社会変革を求め続けて、一昨年アズワンに出会った三木卓さんと、アズワン初期からのメンバの一人でもある、サイエンズ研究所の小野雅司さんです。

~サイエンズメソッドで見えてきた人間と社会の姿~
今回の対談テキスト版 その3は、こちらから


↓テキスト版その3からつづく↓

三木
今の話の中で出てきた質問とかあるいは意見とかあったらまた書き込んで頂ければと思います。
まず小野さんに質問ということで、縛るフィクションと縛らないフィクションというコメントがあったけれども、具体的に縛らないフィクションとはなんですかと言う浜松の智ちゃんからの質問です。


小野
さっきも少しお話しましたけど、例えば普通でしたら規則やルールとか決めたら、ルールは守らなければいけない、ルールを守らない人は責められる、罰せられると、そういうのが今の現状のフィクションですね、縛りのある。
やらなければいけない、やっちゃいけないってことのある強制束縛があるフィクションだと思うんです。例えばアズワン鈴鹿コミュニティでも、ルールっていうか、「こうしようか」っていうフィクションはたくさんあるんですよ。例えばここはこんな風に使おうとか、この日にはこういうミーティングをやろうとかね。そういうのは、全部、そういうことは一応あるわけですけれども、そういうのは、一応あっても、それについて、やらなかったら責められるとか、やらない人を罰するとか、そういうことがない。「一応こうしようか」っていうフィクションがあっても、それについて、やらなければいけないとか、やってはいけないというのがくっつかないフィクション、それを人を縛らないフィクションっていうような形で言っています。例えばこのクルマは僕が使うようにしようとかいうこともね、それも僕用に使うというのも一応のフィクションですね。それで、もし、他の人が使ったからって罰するとかそいうこともなくって、「使わないでね」とか「今は僕が使うからね」とか、そういうことを責めたり罰したりとかがなく、「一応こうしようか」っていう感じですね。そういうことを縛らないフィクションというっていうことかなと思ってるんで


智子(オンライン参加者)
それもうちょっと聞きたいなぁと思って、言ってもいいかな?
ルールを決めて、責めないとかそういうのはただ言わないってだけじゃないような気がしてて。ルールは決めて、それでやりたくない人がいて、それは責めないようにしようと思って我慢して、本当は心の中で思っていても言わないっていう、そういう人達ではないような感じがしてます。そこがなんか大事っていうか、知りたいっていうところです。


小野
なるほど。これも責めないようにしようっていうのも、また人間の考えの方になっちゃうからね。また、責めてはいけませんとかやると、また違う縛りになってくるからね。そこがサイエンズメソッドの大事なところでもあるんです。やっぱその責めたりとかそういうことがないというのは社会的にも、社会の仕組みの中にも責めがないとか罰がないっていうこともありますけど、そういうことが成り立つのは一人一人の中の責めとか、そういうことは罰するべきだという考えがなくならないと、いくら責めがないっていうことを掲げてもならないですよね。そこがさっきもお話しましたけど、2004年頃にね、僕らが一番突き当たったテーマでもあるんですけどね。いくら自由を掲げても、自分の中に、こうしなければいけないとか、こうしてはいけないとか、規則を守らない人は責めるとか、そういうものが自分の中にを深く入り込んでいる。そういうキメつけとか思い込み自体をどうなっているの? 自分の中のそのキメつけていることを、こうじゃなきゃいけないと思っているその自分の中の固定化されたフィクションに気づいて、「あ、それが本当に思い込みなんだ」「自分の単なるキメつけなんだ」ってことに気づいていく。そのプロセスがないと今言った縛りのないフィクションっていうの実現しないですよね。
そこを調べてくるのもこのサイエンズメソッドのすごく大事なポイントになるかなと思っています


三木
八重樫信子さんからの質問なんですけれども、わかっちゃいるけど、その矛盾を繰り返す理由として、お金、所有に対する考え、それらがないことへの恐れの縛りが大きいように感じます。
その従来のフィクションに対して新しいフィクションに移行するのに必要なプロセスも聞きたいです。

このわかっちゃいるけどって、補足すると理想と現実っていうところですよね?


信子(オンライン参加者)
そういうようなループになるというところです。


小野
はい、そうですね。これも、一人でやってるとなかなかっていうのはあると思うんですよね。この壁を超えていくというのは、なかなか簡単ではないという感じが確かにします。そこがコミュニティをつくるって事の一つの大きな意味だと思うんです。例えばお金とかね、さっきの規則とかがないとか言ってもね、一人では、周りが圧倒的に「そういうのをやったらあかん!」とか、やったら責めるという人の中では、なかなかそういう観念も変わっていかない、移行できない。結局また自分も自発的服じゃないですけど、またそれに従ってしまうっていうようになってしまう。それの繰り返しになるっていうのは、個人とか、2~3人という規模だと、やっぱり、そういうふうになりやすいのだなぁと思ってます。そこをコミュニティーという単位で、5人とか10人、今だと僕らは200人とかそういう単位になってきますが、そういうコミュニティの力が大事だと思うんです。今だと一般社会の力の中に、個人がいて、それにもう巻き込まれて、そういう観念にどんどん服従せざるを得ないっていうね、そういう力にこう巻き込まれていくと思うんですけど、逆にコミュニティ単位ができると、本来の方に行こうとする力がどんどん出てきて、お金とか所有とか、なになにしちゃいけないということから解放されていく。そのエネルギーは、コミュニティの力でなっていく。個人でこういうのを悟っていくのではなくて、悟るって表現ね、第一回でもありましたけれども、そういうのを知っていく、そういうふうな人になっていくということですが、やっぱり、みんなで成り合ってくっていう要素が、欠かせないんじゃないかなっていうふうに思います。


三木
今の話にも関わってくるんですけども、香川さんから自発的服従から解放されるって心地いいですね、ということなんですが、自発的服従についてもう少し補足してもらっていいですかね?


小野
そうですね。自発的服従というのは、僕たちが作った言葉じゃなく、自発的服従とか自発的隷従という言葉で社会学の中なんかによく出てくる言葉ですけども、自分自身は自発的主体的であるかのようだけれども、客観的に見ると、規則とか制度に服従してしまっている状態を自発的服従とか自発的隷従とか言うらしいです。
それが、この「やらなければいけない」っていう社会を構成してしまっていると思うんですね。やらなきゃいけないよっていくら言っても、周りが全然そんなことを無視していたら、それは成り立たないわけですよね。例えば一人の人がこれはやらなきゃいけないんだって言っても、周りの人が「何ソレ?」「そんなの関係ないじゃん」って言ったら成り立たないわけですね。やらなきゃいけないっていう人がいて、それはやらなきゃいけないことがあるんだというふうに服従する人がいて、初めてそういうやらなければいけないっていう制度が持続してるとも言えると思うんですね。
ですから、自分が自発的服従して、しなければいけないということが、どこかに、社会の中にあるかのように言ってますけど、実はもう一人一人の中に、それが根付いてしまっているという構造になっていると思うんですよね。そういう自分の中にやらなければいけないことがある、それがフィクションととても思えない。実際にあるじゃないかっていう風に見えるぐらい自分の中に叩き込まれてしまっている。そこに一人一人が気づいていく。
自発的服従から解放されるっていうことは実はすごく気持ちがいいし、その解放された人たちで新しく、従うものがあるとかやらなきゃいけないことがあるとかいうものがない、そういう自由に解放された人同士で新しい社会をつくっていこうじゃないかっていう試みです。そうしたら本当に外から強制されるものがなくて、一人一人が本当に願うもので構成していく社会、そういうものがそこから見えてくるんじゃないかな。そういうことでも社会ができるってことと個人が自発的服従から解放される、それはすごくリンクしていて、大きなテーマになりますね。まず最初に作るときには一人一人が自発的服従から解放される、そういう人がいないと社会が始まらないと思いますけど、今度社会ができ始めると、自発的服従から解放されるのもどんどん簡単になってくると思うんですよね。
さっきの八重樫さんからの質問にもあったけど、自分がそういう人になってくっていうことと共に、社会ができることでなっていく。僕らも自発的服従を強制される社会だから自発的服従になってきたわけで、自発的服従を強制されない社会ができちゃったら、そんなね、自分から服従したい人なんているわけないですから、それから解放されるのは実にだんだん簡単になっていくっていうね、そういうプロセスになるんじゃないかなっていうふうに思います


三木
佐藤淳さんからの質問なんですけど、今の自発的服従にも関連しているところですね。対談の中で自発的服従から解放されることは、何もしなくていいっていう表現も使ったと思うんですけど、それに対して何もしなくていいというの働かなくてもお弁当を食べさせてもらえるというようなことなんですか?って質問が来てますが。


小野
えー、これはですね、ちょっと違うかな(笑)。「やらなくてもいい」っていうのは、やんなきゃいけないとか、やってはいけないってことがないってことですね。何をしてもいいし、何もしなくてもよい。だから要するに、何かしなくても責められたり、罰せられることが一切ないってことで、やらなくても弁当がもらえる、そういう権利があるという話でもないんですよね。だから何もしなくてもいいということは、弁当をあげたいという人がいればあげたい、だからもらえますし、あげたいっていう人がいなかったら、弁当もないっていうことになりますね(笑)。だから本当に一切の当然とするものがないっていう状態のことを、やらなくてもいいって表現してるだけで、なんかもらえる、それが当然もらえるということは、一切ないわけです。逆に言ったら、何もしなくてもいいっていう状態になったら、一人ひとりは自発的なもの、どの人も自発的なもので動き始めるということですね。逆に、じゃあそうは言って、何もしなくてもいいって言ったら、人間何もしなくなるんじゃないかってね、そういう意見も出てくると思うんです。それは僕はすごく違う感じがして、それは何かしなきゃいけないっていう、そういう世界の中にいたら。そうしなければいけないがなくなったらもう反動でも何もしない、遊んで暮らすみたいになるんじゃないかという、そういう風に思われるのかなと思います。だけど、人というのは、そういうものじゃない感じが僕はしていて、子供なんか赤ちゃんとか見ていたら、別に言われなくても、何の強制がなくても、どんどん成長してどんどん自分で歩くようになり、どんどん言葉を覚えて、どんどんいろんなことをしたがりますよね。そういう自発的なものがどんな人にもあると思いますね。
例えばこうやって怪我をしたら体は別に意識しなくても自然と治そうとする作用があるみたいに、人間ってのは体も心も本来健康になろうという作用があると思いますし、やっぱり人と人とが調和していきたいという、意識的じゃなくてね、調和していこうという力は、どの人も本来持ってるんじゃないかって思います。
だから何もしなくてもいいっっていうのは、要するに強制とか束縛がない、そういう状態になってはじめて、その本来持ってる、人間が健康になっていこう、人と調和していこう、より良くなっていきたいとか、そういう本来もっているものがどんどん発揮される、そういう状態を言ってるのかなっていうふうに思うんです。


三木
はい。次はですね。自由には受益者の期待を超える各主体の知性ある努力と、受益者によるその理解、合意され、最小限のルールの順守が成立の前提になると思います。私も自由の一つの形といえるオープンソースや、教育による地方創生、町おこしの取り組みに関わっていますが、まさにそのようなことを痛感します。逆を言えば、反自由(束縛)とは、例えば商業的依存で起こるものであり、それは思考停止などの怠惰が起因して起こるものだと考えます。もしも各主体の努力が取り巻く受益者の期待以下であれば、不平不満が生まれ、それから争いが生まれます。動物行動学的にも何もしないところには自由は生まれないのではないでしょうか、という問いです。


小野
難しいですね。努力なきところには怠惰があり、商業主義に巻き込まれ、思考停止になって、不平不満みたいなものが生まれるみたいな、そういう現状認識かな。
この辺りが、自由というものが元々どういうものか? 自由が生まれるというか・・・この辺りも、ちょっとこれはどういう意味か? 僕も、これだけでは、判断できないんですけど・・・。
自由も生まれるとか生まれないっていう話も、さっきも言いましたが、元々やらなければいけないとか、やってはいけないとかがなかったら、元々が自由ですよね。そういうことから言ったら・・・


三木
そうですね、今回の対談の文脈で言うと、このご意見はやっぱり自由とは獲得するものみたいな・・・


小野
そうですね。


三木
そういう感じの自由という感じで、今回話ししていた自由とは同じ言葉ですけど、違う物差しで考えているのかなと。


小野
そうですね。今の自由というのは、獲得していくというもの。今の不自由ということが前提になっていて、それから自由になっていく。各主体の努力が期待以下であれば不平不満が生まれっていうのも、やっぱり、自分達の感覚で言うと、本当に自由な中で、やりたくてやってるってことで言ったら、別にやりたくてやるわけですから、やりたくてやるって世界で、見返りとか報酬とか、そういうのは一切いらない感じになるんですよね。やりたくてやる行為ですから、期待以下とかってことはないのではないでしょうか。自分がやりたくてやる、それは相手が喜ぶか喜ばないかっていうのは、相手の気持ちがあるわけですよね。けれども、本当にやりたくてやる行為には、報酬とか不平不満とかって出ない。そういう世界かなという感じがしてるんですよね。
自由に、本当の自由に、本当に何にも束縛とか強制とかがない中で、やりたくてやる行為は、まぁ一種の遊びみたいなかんじですね。本当に自分が純粋にやりたくてやる行為。そういう世界になってくると思うんですよ。これは、今の世の中では、なかなか理解し難いところかなーと思うんですけど、見返りとか報酬とか一切ない、本当にやりたくてやる、一方的なやりたい気持ちでやる行為が、束縛や強制がなくなったときに出てくる行為なんじゃないかなって気がしてますね。


三木
うおみんさんですね
貨幣経済って自主的束縛だったんですねっていう意見があります。


小野
そうですね。
貨幣とか、交換とか、所有でもそうですけど、元々所有なんかもね、地球上のものに所有なんか元々なく、人間が所有するって決めて、「これは誰だれのもので、自分の許可なしには使ってはいけない」って、人間が決めたものですね。それこそフィクションの最たるもので、それを交換する材料としてお金っていうのがね、出てきてるわけですね。でもそれも人間のすごいフィクションですよね。すごく自由を阻害している要素のひとつだと思うんですよね。
所有をベースにしてるって事は、これは自分の許可なしには使ってはいけない、そういう束縛を前提としている交換の制度だと思うんですよね。交換しなかったら使ってはいけないって、またそこに束縛が入るわけですからね。
すごくお金を持っていたら、感覚的には自由という感じがありますが、それはお金がないときは使ってはいけない、使えない。そういう不自由な社会をつくっておいて、その中で自由を獲得しようっていう、そういう構造の一つの現れって感じがするんですけどね。


三木
そうですね。最後になるかなと思うんですけど、山ちゃんからなんですけど。科学が発展すれば生産力はあがり、科学が人間を自由にします。


小野
はい。そういう面はありますよね。。生産力がすごく上がって、どんどん自由度が上がってるっていう側面は一つあると思います。でも一方でそれを、今の所有とか貨幣とか国境とかですね、人間が「これは許可がなければ使えない」「お金がなければ使えない」っていう制限でどんどん囲ってやっていますね。物がどんどん増えてるにいる割には貧困ね、日本でも貧困がテーマになったりとか、物が豊富にあるのに、自由に使えない。そのいうことで言ったら、科学がもっと発展して物も移動も自由になるっていう事にはどんどん発展させていきたいですよね。その一方でやっぱり人間のこのフィクションで人間が縛り合うってことから自由にならないと、本当の自由っていうのは生まれないんじゃないかなって僕は考えているんですね。物はもう今でも十分に溢れるぐらいにあるのに、なんでこんなに貧富の差ができたりするんでしょうね? ブラジルに僕は行くわけですけども、すっごい立派な家の脇にも貧民街もずっと並んでる現状を見ると、こんだけ物があるのに、なんでこんな貧富の差が出るのかあって、目の当たりにすることがあるんです。これは人間が作り出したフィクションが、人と人とを囲って、物を自由に使わせない。使ってはいけない。そこから、人間のフィクションから解放されないと、科学で物が豊富になった世界を本当には活かし切れてないんじゃないかなって、そんな風に思ってしまいます。


三木
ありがとうございました。


小野
全部の質問答えられなくてどうも申し訳ありませんでした。


三木
また次の機会に話し合いができたらと思います。どうもありがとうございました。
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