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対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」文章化(その4)

サイエンズメソッド対談.jpg
10月25日のオンライン対談の文章化(その4)です。
ご覧ください。

▼第1回目のオンライン対談
動画⇒ https://youtu.be/pqCM5PseOPw

文章化テキスト
その1⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1185.html
その2⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1191.html
その3⇒ http://as-one.main.jp/sb/log/eid1195.html
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10月25日オンライン対談「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」
(その4)質問をうけて

司会
それでは、グループで先ほど話されたことや質問などありましたら、チャットに書き込んでいただいたり、発表してもらったりしたいと思います。ここからは、それにそって内容を深めたいと思います

質問)
自分が変わると社会が変わるっていうところが今一つしっくりこない、という方がグループに何人かいらっしゃいました。人と社会はどんな関係にあるとお考えなのか、どうでしょうか。

小野
自分が変わると社会が変わる、ですか?
自分の中が変わると社会や世界の見え方が変わるという意味で言ったら、変わって見えるということがあると思うんです。
しかし実際に社会が変わるということになると、まず人と人との関係性が変わるってことだと思うんですよね。もちろん、一人が変わることで関係性も変わってきますけども、本当の意味で社会が変わると言ったら、共有しているフィクションの扱い方が変わるとも言えると思うのです。
そうなるとお互いが変わっていく、お互いの社会の見え方、世界の見え方が変わっていくことから、人間関係が変わっていく。そして社会が変わっていくというのが、最初の段階ではあるのかなぁと思いますね。社会ができていきながら、新たな人間関係の人たちがたくさん出現する。そして、仕組みが変わってくることで、そこで暮らす人たちがまた変わっていくというのもまた次の段階であると思います。
まず、ご質問に答えるとしたら、社会ができていくという意味は、お互いに本心でいける人になり合って、具体的に関係性が変わっていくということが大きいのではないかなって感じはします。

三木
そうですね。今まで僕自身もサイエンズスクールを受けてきた体験で言うと、
現状の社会がまずどこにあるか、ですが、本当に一人一人の頭の中にあって、その頭の中にある社会にコントロールされちゃった上で、人と人が向き合っている。現状の社会というフィクションを通してしか、人がつながってない、だから苦しい。現状の社会っていうのはそれぞれの頭の中にある社会で、それって単なる思い込みなわけですね。
しかし、もっと頭の中は自由になると気づけるとそれが消えます。その時に、初めて直に会う、出会い直しと言いますかね。

直の小野さんと出会う、小野さんにどう思われてるのか、とか、こんなこと言うと小野さん怒るかなとかいった、頭の中に自分がつくったフィクションがなくて、もっと小野さんと自然に付き合い始められるようになる。それが次の社会の本当の始まりのような感じがします。

小野
そうですね。よくありがちな、フィクションが自然な付き合いを難しくしてしまうものに、たとえば、自分の言葉に責任を持つとか、一回言ったらやらなきゃいけないとか、意見を変えちゃいけないとか。

三木
何も言えなくなりますね

小野
さっき言ったことと違うことが、ふっと浮かんだとしても、意見を変えちゃいけないとか、そういう人間の考えが挟まると、本心と違う関係になりますよね。
今、三木さんが言ったように、そんなフィクションから解放されると、本心と本心でやり取りがシンプルになる。
「さっきはこう言ったけど、今はこう思っているよ」とか、
今あるものでやり取りできるような、そんな関係性から出現する社会と、一方で逆に、一度言ったら、もう違う意見は言っちゃいけないとか、責任持たなきゃいけない、という関係性からできてくる社会とは全然違うものですね。

質問)
「調べる」など言葉が独特な感じがある。分かりやすい言葉や説明があるといい

三木
なるほど。どうでしょう、調べる、という言葉、表現について。

小野
僕たち、「調べる」っていう言葉、平気で使っちゃっているんですが、もし言い換えるとしたら、どう言ったらいいですかね。もうちょっと分かりやすい言葉。

三木
普段、どういう文脈で言っているのかちょっと教えてくれますか。

小野
例えば、さっきの悪感情や怒りでも、怒りという現象が現れてくるそのプロセスを観察する時に使ったりします。
一般的に、怒ったりすると、なんで怒っちゃったのか、その原因とか理由を考えますよね。「調べる」というのは、そうじゃなくて、怒りが出てくるプロセスを観察する。何が起こったのかをよく見ることを表現しています。
理由を考えたり、あの人のせいだとか、自分はこういう育ちをしたからだとか、原因や理由、説明を考えることが普通は多いですが、それは調べるとは言いません。

それとは違って、実際に何を聞いて怒りが出るとか、悪感情になるとかーーー、そのプロセスでどんなことが内面で起こっているのか、それを見る、観察する、そういうプロセスのことを言っていますね。

三木
では、たとえば小野さんが何か言った。その言葉をきいて、自分が否定されたっていうふうに捉えて、いやな感情が出て来たーーーーの様に観察することですか?
すると、先程の説明であったような、自分で原因を見つけるとか、説明するということが、なぜ調べるということと区別されるのか、どう違うのか、ここでもう少し丁寧に見たいのですが、どうでしょうね。

小野
自分の内面に実際に起こったプロセスを観察することが、「調べる」ことにつながるんです。しかし逆に、怒ったことを理由づけたり、怒っても「無理もないよな」と納得してしまっている場合が非常に多いと思います。
原因を考えているつもりでも、メカニズムを調べないで、悪感情になったことや否定されたと感じて不愉快になった、そっちの結果のほうを見て、こういう理由があるから怒っちゃうんだと理由を説明して済ましてしまう場合も多いかなぁと思うんですけどね。

三木
小野さんに言われたことで、自分が否定されたから、悪感情が起きても仕方がなかったと。小野さんが言ったことが、自分の悪感情の理由になっちゃってるんですね、この場合は。自分が否定されたから、怒っても当然だ、という感じ。
しかし、調べるとなると、そのプロセス全体から離れて見る。

小野
そうですね。離れて、実際何があったのかと観察する中で、ここが勘違いしているとか、ここに決めたものがあるとかね。こことここを勝手に結び付けちゃっているとか。そういうものが見えてくる。

三木
あくまでも、その悪感情が起こっている原因を、自分の一連のプロセス、メカニズムの中で見つけ出そうとする

小野
そうですね

三木
みなさんに意味が通じているかどうか、気になっているんですが、
まぁ、そんな感じかな。

小野
やったことない人にとっては、すごく新しいと感じられると思います。これ、ぜひ体験してもらったらーー。本当に手に取るように見えてくるので。
つまり、自分の中を観察できるようになると、そこが違うんだな、とか、相手が言ったと思い込んでいたけれど、そうではなくて、自分がこう聞いたんだな、こう受け取っているんだな、等と、思い込んでいたことと実際との区別がついてきます。
すると悪感情とか、怒りから、わりに簡単に解放されるようになる。

「人間だから当然起こるもの」
「あんなこと言われたら、当然いやな気持になるに決まっている」、
という感覚が起きがちですが、そんなこと、実は決まっていないですね。
なぜなら、同じ言葉を聞いても、まったく何も思わない人は思わないですから。
それを聞いたらいやな気持になるのは決まっていると、自分が決めているんだということに気が付きやすくなる。

三木
はい。では次の質問に行きましょう。
「安心安全な場づくり」という言葉は、いつ頃どんな過程で生まれてきたのでしょうか。
それを聞いた時、自分自身が、安心安全の場をそれほど強く願っているとは思えないな、と感じました。本心本音を話せる条件として、安心安全な場づくり、それだということというのはよく分かります。しかし、自分がそういう環境を望んでいること自体、自覚することはなかなか無いと思います。」
という意見ですが、どうでしょう。

小野
そうかもしれないですね。
安心安全な場づくりとか、なんでも本音で言える場があるということ自体、無いことに慣れていますから、そんなことを望むなど思いもよらないでしょう。
今は、人と人とが、他人で、一歩外に出たら敵と思え、というくらい身構えている。それが普通の状態になっているということかなんでしょうね。

三木
そっかー。僕からすると、この「果たして自分がそれをするほど望んでいるのか分からないなと思いました」というのが、そうなんだ、という感じなんです。
安心安全を望んでないっていうことは、安心安全じゃないほうがいいことなんですか。どういうことかちょっとわからなかったです。

質問者
「そういう意味ではないです。求めなきゃいけないほど、安心じゃないとは、自分が普段から思っているかなぁ、と感じたということです。
それほど、やさしい場がないとだめだという風に感じるかなぁと。
逆に違和感というか、私はそんなにやさしさを必要としているかしら、みたいな感じになったんですよ。」

小野
わかりました。サイエンズメソッドを体験されたりすると、本当に安心している場でこそ、もっと心が開いて、関係性が変わってくることが実感を持てると思います。そういう体験をされるとまた違うのかなぁという感じもしますね。
たぶん、人によって、すでに安心の場が結構あって、それほど必要と感じていないということもあるでしょうし、逆に、人間関係において身を守るほうが普通だということで、安心安全という環境がどういう感じか、描きにくい人もいるでしょうし、人によってずいぶん違うと思うんです。
ただ、人っていうものを考えた時に、どんなことでも安心して自分の思いを出せる機会がある、そういう人との関係があるということは、非常に大きいんじゃないかなぁとは思いますね。

三木
ちょっと話がズレちゃうかもしれないんですけど、今の問いに触発されて思ったことがあります。
人間のほとんどの行動はいつでも無意識に安心安全を求めてやってるのかなと。だから戦争とか喧嘩とかでさえも。結局、どっか自分の安心安全求めて、攻撃は最大の防御がじゃないですが、そういうことなのかも知れないと思いました。

小野
そうですね。逆に言ったら、今の社会だったら、さっきの、守らなきゃいけないとか、こうしなきゃいけないとか、大人の場合は特に、言ったことに責任持たなきゃとか、約束は守んなきゃいけないとか、いっぱい、しなきゃいけないことや、こうしてはいけないことが、もう本当に多々ありますよね。勝手に人の家に入っちゃいけないとか。

三木 
はっはっはっ

小野
すっかり慣れて暮らしていますが、実は人間にとっては、ほとんど無意識に実は安心していない、守っている状態になります。

三木
そうですね。ここから逸脱しちゃいけないみたいな

小野
本当に安心安全の場と言ったら、そういう警戒から解放された時、人間ってどうなるんだろうか、それにはすごく興味があるんですけどね。

三木
チェリッシュとか学び舎で、子供たちにとっての強制のない環境の中で、どんな風に育っていくか、ということですよね。

小野
今、鈴鹿コミュニティでは、乳幼児たちが育つ空間をチェリッシュ、小学生たちがいる学び舎という場があります。そこでは、やらせるとか、やめさせるとかが一切ない子育てってどうなるのかなぁということを試しているわけですけどね。

だからと言って、子供たちに好き放題というわけではありません。何か伝える時も、「やらせる」とか「やめさせる」じゃなくて、
「これはしないでほしいよ」とか、
「これしてほしいよ」
等、はっきり伝えたいことはあります。しかし無理やりやらせることがない。そういう空間の中で子どもたちが育つように、と進んでいるわけですけども。

三木
次に行きましょうかね。
「グループの中で、それぞれの人の問題の原因を見つけて、それを解決する手助けを長年やってきましたが、一人一人についてどれだけそうやっても、また元の環境に戻っていく。社会の方の問題が解決されないままで、もぐら叩きだなぁと思っています。
問題が起きるのは、個人というより、すべて人と人の関係の中で起きるので、コミュニティが必要だと思っています、という意見が出て、他の皆さんも共感していました。」

小野
本当にそうですよね。僕も学生時代、心理学を勉強している時に痛感したんです。人が悩みを持ったり、色々病気になるというのは社会のひずみがその人に現れてくるわけで、いくらカウンセリングなどやっても、社会に戻ったらねーーーーやはり、社会の方を解決しなかったら、いつまでも繰り返しになる。このまま行くと、どうなるんだろうという疑問は素朴に抱いていました。
社会が本当に健康になったら、一人ひとりの心は自然と健康になると思うので。でも、そういう世界を作るには、健康な人が生まれないとそうはなっていかない。切っても切り離せないわけです。一人ひとりの心の問題を本当に解決しようと思ったら、社会そのものが健康になること。健康な社会でしか健康な人は育たないということですね。社会と人の心はいつも表裏一体です。

三木
はい。昔はどこの家にも玄関に鍵などかけていない、開放感のある社会でしたよねぇ。今はオートロックにカメラまでついている。社会が常に警戒している現れでしょ。そういう意味で心的安全性が社会から失われていると思います。

小野
本当にそうですよねー。この間、ある小学生の子どもをもつお母さんに聞いたら、最近は警報ベルを付けているって言っていました。だから子どもたちにも、「知らない人は怖い人と思え」のような、そんなことを教育しなければいけない社会になっているのかなぁって。

三木
悪循環ですよね。そうやって不安にさせてーー。

小野
無意識のうちに、絶えず守って、というのが普通になる。子どもだったら本当にどの人でも話しかけたいのが人の姿じゃないかと思いますが。

三木
はい。人間の精神面の成長には安心安全な環境が必要ですね。温かみのある共同体は大事です。

小野
そうですね。本当に。ここのコミュニティでは、子どもたちもたくさんのお父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんに囲まれて、本当にどの人も親しい感じ。そういう意味では警戒心とかほとんどない感じで育つ。
それは元々あった人間の姿って感じがしますよね。しかし今は失われかけている。

サイエンズメソッドで目指す、人間らしく生きる、というのも、要らないものがなくなって、本来持っている親しさでつながれる社会ということです。特別なすばらしい世界、ということではなくて、元々持っている人と人とがつながりたい、協力したい、何かしてあげたい、そういうものが自然に現れてくる社会、そこに立ち還っていくのがサイエンズメソッドって感じがしているんですけどね。

三木
今の社会だと、「人間の考え」という鎧をかぶって自分を守っている気になってしまいますが、それが実はしんどくなっている。お互い鎧と鎧で付き合っているから、会って話しても、心はまったく満たされない感じですよね。
それがサイエンズメソッドで、「これも鎧だった、あれも鎧だった」ってはずしていくと、逆に安全って言うんですかね。元々守らなくてもよかったのだと。

質問
「サイエンズメソッドの受講はオンラインでも開催可能でしょうか。それともリアルで直接会わないとできないものなのでしょうか。」

三木
なかなかいい質問ですね、時宜にかなった。

小野
本格的にサイエンズメソッドを学ぼうと思ったらリアルで、こういう入門的なとか、どういうものかっていうのを初歩的に理解しようというのでしたらオンラインですけども、やはり自分自身のかなり深い部分まで見つめながら観察する、さっきの調べていくことを学んでいくにはリアルじゃないとできないかなと今は思っています。

三木
でもオンライン入門講座ぐらいは用意されてもいいんじゃないですか。

小野
そういう研究はしたいですね。それもこれからの検討課題で。

【司会】今日はオンライン対談初めての試みだったんですけども、これからシリーズでやったら面白いんじゃないかという声もあります。
今日は第一回と位置付けてやらせてもらったんですけども、聞いてみての感想とか、シェアしたいこととか、ぜひみなさんから寄せてもらえたらうれしいです。

三木・小野
今日はどうもありがとうございました。
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