7月ライフミーティングの前夜 

これまで毎月第一土曜日と日曜日(おおよそ)に開催されてきたライフミーティングに遠方から参加する人で、コミュニティーハウスでの暮らしを希望する人を受け入れしてきました。今月は4日(土)5日(日)の予定で、今のところ名古屋、静岡、鈴鹿(ちょっと離れている)在住の人から連絡があり、夕食、ミーティング終了後の夜の交流の集い、宿泊など準備をしたいと思います。
ライフミーティングの参加動機はひとりひとり、それぞれだと思いますが、ライフミーティングに参加し日常の具体的な自分の実態を観察・検討したり、ミーティング以外での暮らしでは、コミュニティに触れながらじっくり、たっぷり二日間を過ごしてもらえたらな・・・と思います。
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「コミュニティ ハウス えぐち」 の紹介

「コミュニティハウスえぐち」を写した写真にあるように、玄関先に看板を掛けたのが1年3ヶ月程前だったように思います。最近はこのコミュニティハウスをやるにあたっての私たちの希いや気持ちを文章に表した看板も掛けててみました。

「人と人とが出会い、話し合い、気持ちが通じ合う・・・家族・近所・地域・職場などが心通い合うつながりへと展開していくことを願っております。
食事会・飲み会・茶話会などに活用していただければと思います。
問い合わせ、活用希望の際は声をかけてください。」

看板をかける前から、気心の知った人にはわが家を開放し、食事会や飲み会など、いろんな人やグループに活用してもらっていましたが、1年半くらい前から、知人にとどまらず、この地域に暮らしている人たちと共に、どんな場でも話し合い、気持ちが通じ合い・・・この地域がより住みよい社会へと展開していくよう、コミュニティハウスを活用していきたいとの私たちの希いを現す活動をしてきたように思います。
一番最近の活用状況を紹介したいと思います。
6月26日(金)午後6:30~第二回「同時代を共に生きたメンバーと、今を語る会」と称して、男性6名と女性1名(私)が、食べながら飲みながら、語り合い、11時ごろお開きとなりました。
数十年共に同時代を生きてきたとはいえ、一人一人の人生、心のうちを観ながら言葉にしても、それを語り尽くすことは難しいと思います。ある時はトツトツと、ある時は勢いよく、内容もいろいろ、アッチへ・・・コッチヘ・・・。それぞれが思う辺りを語り、突っ込みを入れたり、出したり、何ナノかな~というところで続く・・・語る会終了となりました。
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コミュニティハウス 江口宅

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研修生コースやってみて

研修生コース最後の朝の検討会を終えて、その日の夜に何人かで寄って
ミーティングのようなものをやった。
日ごろ、自分が何気なく人に対して言ったりしたりの行為が、
その人の領域を侵しているということに目が行き出しているように思った。
普通に「・・・したほうがいいよ」とか「・・・してたのにぃ」とか
づかづかと割り込み言っている。
今まではそんなことにも気付かずにやり過ごしてしたようだ。
「自分の感覚だという自覚があるかどうか」という着目の仕方よりも
より強力に敏感に意識が動きだした気がする。
自分を照らし出すサーチライトが強烈な明るさを増してきた。
お粗末な恥ずかしい自分の姿だが、はっきりと映し出して
白日のもとに晒し出そう。
日常の暮らしの中でも、有志で寄って繰り返し繰り返し(基本)を
身につける練習をしようと思った。
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研修生コース2日目

検討会の後ブログを書こうとパソコンに向かった
入り口のテーブルに Oさんと Tさんが座っていて、しゃべっていた
しばらくして、いやだな、、と不快な感じが浮かんだ
不快な感じ、感情かな
いやという感情の中味は集中できない、静かにしてほしい、、?
ほしい、、という以上の感じ

何に対して出たのかな   Oさんに対してかな、、??
この時間食堂はブログを書くのに使う、、というような考え
考えというより、この時間・食堂は、、となっている

私はパソコンに向かっている Oさんたちはしゃべっている
どんな見方で見ているかな
ブログ書いているのにしゃべっている、、と見ているな
しゃべっているのにブログ書いている、、とは見ていない
なぜブログ書いているのに、、と出るのかな
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正月・自分を知るためのコース感想レポート

事実の世界から見ると 自分の存在というのは 
どういうものになるのだろう
実際の世界は 自分には 計り知れない広大無辺のものなのだろう

一応この自分と呼ばれる存在も 
いつどこから来て どこへ行くともわからない
そしてまた日々共に生活し暮らす人たちも その背景には 
計り知れない世界が あるのだろう

ひとと共に暮らすとは どういうことなのだろう
ひとと共に生きるとは どういうことなのだろう
ひとの中で生きるとは どういうことなのだろう

年の初めに 十人のメンバーと共に 自分を知るためのコースに参加し、色々気づかせてもらいました

自分は 人間であることを知っていたつもりだったが
人間は、自分の感覚を通してでしか、
世界を 受け取ることが 出来ない
すべて自分の感覚で 捉えているに過ぎない というような気付き

そして それに気づいて来ると 自分の中は その時々に どうなっているのだろう
自分の目には どのように写っているのだろう 自分のこころには どのように
聞こえているのだろう と 自ずとと自然に関心が 湧いて来るような感じを 味わわせてもらいました

決め付けの無い考え方の一つなのかな
決め付けのある考えと決め付けの無い考え方とは
どう違うのかな
事実の世界と人間界を繋ぐために生まれた考え方なのかな
自分を知り 自分が生きる方法でもあり目的でも
あるのかな
凡ての始まりでもあり目的でも あるのかな

自分を知るとは どういうことか を 考えてみた時のこと

よくわからない
自分ってコトバは 知っているけど 子供の頃は 知らなかった。
自分って言葉を知りはじめた頃から 他人(ヒト)と自分に 囲いや境が 出来た感じ
自分を知るって こういうコト ああいうコト となって考えて行く回路って
なんか妙な感じ
でも自分なりに幼稚でも自分に向き合って楽しく眺めるきもちで 自身を見てみよう
観察してみよう その時の体の具合は どんな風なのかな
きもち・こころの状態は どんな風なのかな
自分の目には どんな風に写っているのかな
自分の耳には どんな風に聞こえているのかな
などなど やって行くうちに 色々 浮かび上がって来るような作業を
やって行くことなのかな

2009年は 自分を使って その時々に 自分の中がどのようになってあるかを
自分の方法で観察し、自問し、自覚する年にして行きます
今年もどうぞよろしくお願いします
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内観のテーマ

内観をし調べようとする時に、その視点が検べどころを 替える。 

お世話になったこと・してかえしたこと・めいわくをかけたこと
  お世話になったこと・の多さに驚く・・・観察から相手の心情へ迫る
  してかえしたこと・の少なさに驚く・・・自分の事実に迫る
  めいわくをかけたこと・で自分の中身に迫る・・・観察から相手の心情に迫るのと、自分の価値観の観察と心情に迫る

嘘と盗み・・・・・自分の事実の認めが起こる
嘘とごまかし・・・記憶の中身へ 観察から自分の価値観と心情に迫る  
劣等感・・・・・・自分の傾向と実際へ迫る。 認める。 観察と分析と解明。 開放が起こる。
  
 テーマによって思い出すことが違ってくる。  
 記憶は事実と違って記憶されるていることがある。 
 蓋をされた記憶は、思い出された記憶によって、違う記憶の蓋を開ける。
 面接によって開放と次の集中がおこる
 
 自分の内面 の 直視 へつながる テーマ が、その時その時によって、人によって 色々あるのかな
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自分を知るための生活、仕事

朝1時間、夜2時間半の検討会を持ちながらの一日の暮らし。
自分を知るための材料が、ほんとにたくさんあった感じがする。
見て聞いて即座に反応する頭の回路は、考え調べようとする回路をとめている。
わずかの言葉のやりとりの中に、言葉の奥に何かがあることにも関心がいきだした。
聞くということの中身を知りたくなった。
さて、この男どんな人間なのかまだわからない。
昨日、ライフセンター事務局で面談をし年末にかけての計画を考えた。計画の中身より「どうですか最近は?」と問われ、思うがままに話し聞いてもらうことの心地よさを感じ頭の整理ができていく。
こんな1週間だったかなと振り返り書いている。
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10月度のライフミーティングに参加して

 今月は引き続き「聞くとはどういうことか」を探るとともに、理解するというところまで探っていった。そんなミーティングだったと思う。
いろいろあった中で、思っていることを言っていると思っている場合、相手が言っていることは相手が思っていることを言っているとなるが本当はどうだろうかと考えたのがおもしろかった。
 自分の場合では自分の思っていることをどれだけ言い表せているだろうかという思いが強い。そんなつもりで言った訳ではないが思いもかけないような受け取りをされた経験は多くある。受け取り方の問題だけではなく話し方もいろいろとあるように思う。
 聞いた言葉と相手の思いを分けて聞いていきたいと思う。すると、そういうことを言っているが相手の気持ち、本心はどうなんだろうかとなると思う。これが、相手を理解していこうとする態度かなと思った。
 それともうひとつ、日常の会話の中で、相手が「こう思う」と言った場面であなたはどう思うかと聞かれていないのに、とっさに、「私はこう思う」と返す場面がよくあるが、これは相当重症で頭の回路にこびりついているように思う。
 これらは、日常生活においても意識して見ていきたいと思った。
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「自分を知る」ための自主トレーニング

6月の末から始めて約10週間のプログラムを最後までやってみた。

内容は実際にやってみないと言葉で表現しづらいのですが、ざっとこんな感じです。

・身体を観察する
・感覚を観察する
・呼吸を観察する
・心を観察する
・自分を観察する

毎日、心静かに 座るなり横になるなりして30分から45分ほど、プログラムにあるポイントを押さえながらやってみました。

やってみて 実際その時の「自分」が今 生きているんだなという実感に気づいたようです。
そこにいくポイントのようなものを、身体が覚えていってるようです。
人と話をしていても、
「ああ、自分はこんなふうに聞いているんだなー」とか
「ああ、自分はこんなふうに反応しているんだなー」とか
「今、自分はこんなふうに話したいと思ってるんだなー」とか
いうふうに、その時の自分を客観的に見ている「目」があるようです。

「こんなふうに」という世界は、私にしか分かりませんし、言葉で表現するのは、とってもむずかしいです。

家庭でも職場でもどこでも、人と接して生きていくわけだし、何かを話し合っているわけだし、そこんとこが、スムーズに お互いの意思が分かち合える空間なら、みな ずい分 快適なんじゃないかなと思います。
自分が思っていることや自分が感じている感覚とは別に、実際のその人やその物があるんだなーと思います。

ここの区別は 頭で理解していても なかなか応用できません。
この自主トレは 頭の筋肉も含めて身体が自然に覚えていったのかもしれません。

今はまだまだ基礎練習中ですが、やってみてなかなかおもしろいです。

自分はこんなふうになっているのか・・・と
その時その時を捉えているのって、まるでドラマをみているようで、あまり深刻にはなっていかないようです。
自分で自分を縛っているものも なんとなく見えてきて、へーっとか、ハッと気づかされます。
まだまだこの歳になっても、より良く心豊かに成長していきたいものです。
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