ベース

仕事している時なんかでも
「やって欲しい」って気持ち出てくることある。
それ取って欲しい、とか、手伝って、とか
これも二通りある感じで、純粋に出て来るものと、やって当然とするところから出て来るもの。
何でやらないんだ、って非難する気持ちに変化していくのは「やって当然」という考え方があるのだろう。
(やらせようとするのもコレか!?)
考えてみれば何故「やって当然」っていえるのだろう。
どっちかといえば「やらなくて当然」のほうが実際に即したようにも思える。

やって当然、やらなくて当然
あって当然、なくて当然
自分のベースを眺めてみよう。
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研究所サロン

人の自由、社会の自由、自由っていい感じだけど、そうなりたいと思うだけではなりそうもない。
生まれてから今までに、人間社会にはこれが必要ということを一杯覚えてきて、自分を縛り、人を縛り社会を縛り、無自覚にやっていることにもっと光を当ててみて、自分を解放していくことで実質の自由に近づいていけるのかなと思った。
人から縛られる、社会から縛られる、自分を縛る、人を縛るという感覚はあったけれど、人が自分が社会を縛るというのは新鮮だった。社会の中の自分ということからすると切っても切れない関係がありそうだ。
人の何に関心があるのか、何を大事にしているかというようなことと、主体的自律的ということと、自由と、とても関連があるように思った。
もともと社会は何も無くて、今生きている人と人、今いる人達で出来ている。何の決まりも無くて、自由意志あるのみ。
今日の夕方、母と鈴鹿川の河川敷に行ってみた。太鼓をたたいている人、逆立ちしている人、バーベキュウーかないくつかのグループ、犬と歩いている人、私達は人達を見ながら歩いて、川の水際まで降りてみたり、山並みの風景をながめたりして楽しんだ。母が太鼓もこういうところでたたくと、迷惑にならないしいいねと言った。私はサロンに出ていた広場というのを思いながら歩いた。
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研究所サロンに参加して

「社会=万人に開かれた広場」というような表現があった
社会というものが、もしそういうものなら
もし本当に現に実在する万人に開かれたものなら
こうすべきだとかああすべきだとかいう考えや
こうあるべきだという考え(あり方)を持ち込む余地はないな

そんなことをしたら、それに合わない人がどんどん排除されてしまいそう
「万人に開かれた広場」とは、なんと壮大な描きだろう!
社会というと、すぐルールや制度(決まりや規則)を考えようとする
いかにも狭くて姑息な行き方だ

組織や会社の中で、「こうした方がいいああした方がいい(こうすべきだああすべきだ)、こうあったらいい」というような言葉を自分が口にする時、何か組織や会社のことを言っているつもりでいたけど、その実、自分の心のうちの不満(気に入らないこと)の表明であったかな

もしかしてルールやら規則やらあり方やら、そういうもの全部、人に対する不信・不満・悪感情からのものかもしれない
不信・不満・悪感情が自分を縛り、人を縛り、社会を縛る
ルールや規則というのは人をまとめて一網打尽に縛る方式だ
そんなんで人にとって住みよい感じのいい社会が生まれるはずはないな

まずは不信・不満・悪感情のもとに潜む自分の中の縛る観念を直視するところからの出直しかな
そうして初めて、自分の中から自発的自由意志が出てくるのだな
社会に依存しないで、ルールや規則に頼らないで、好き勝手に気ままに、自発的自由意志で動く人たちが構成する社会、何か想像を絶する!

研究所サロンに参加して何か残るものがあるなと思い、書き始めてみたら自分の中も思わぬ展開になってきたようだ。
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人生を知るためのコースに参加して

随分と表面的なもの自分の印象に気をとられ
実際・中身を見ようとしない生き方をしてきたと思う
帰ってきて人に接するときの自分が
発する言葉の奥のその人に関心が向くのが新鮮な感じ
じっくりとくりかえしくりかえし
そのときの心の状態は、、と調べてきて
自分も人も意識にのぼるものの元に
受けたものからの心の状態と
人として成っていきたいという本来の心があるように思った

それは自分の中のものか、、という問い
日ごろやろうとしてやっていると思っていることでも
自分の中のものか、どこから出ているものか、、とよくよく見ようとする
見れるようになったというものでもなく
やろうとしてやっている、、
それで何をやろうとしているか、、と自分に問う
そういうことをメインにおいた暮らし
自分も人も観察し、心の状態を見ようと
観察・洞察する力を育てる暮らしを想う
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自分の感覚であるとの自覚があるだろうか

先日、日常化レッスンが終わった後のいつもの席でのこと、M さんがウイスキーの瓶を1つ持ってきた。そして、続いてもうひとつ高級のものだよ、と言って持って来たものを、みんなで飲んでいて、半分ぐらいになった瓶をみて、I さんがだいぶ減ってきたみたいな事をしゃべった時、M さんが自分のウイスキーが減ったなと言った。
セミナーでどこからが自分か、と考えてきた事もあって、どこから M さんのウイスキーになったんかな、なんて事もお酒のつまみにしながらたのしく時を過ごした。
翌日、畑の草を取りながら、M さんのウイスキーを、M さんがそのウイスキーを自分のウイスキーと思うのは、M さんに所有観念が有るんだなで済ましていたなと思った。あの場面で、自分は自分のウイスキーではないと捉えていた、そして、よく考えてみると、自分の物ではないというのも所有観念があることだなと思えた。
自分の物である世界と自分のものでない世界とが同じ世界のことかと思った。
誰のものでもない世界ってどんな感じになるかなと思われてきた。
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短期内観に参加して

日曜月曜の二日間内観に参加、
今回は、前に録音を聞いたときから興味のあった「嘘と盗み」のテーマでやってみました。
参考資料に、その時代にかかわりのあったすべての人に、、とあって
小学校3年まで、、から現在までの自分を年代に区切り二日かけて調べてみました。

ある年代にかかわりあった人を思い出し
その人に対して、嘘と盗みという観点でどうであったかと
一人ずつに対しての自分を点検するというような感じで調べてみました

こそこそしていたり、隠そうとしていたり、気持ちにないことを言ったり、聞きたくないのに聞こうとしている自分が見えて、面接のときは恥ずかしい気持ちでしたが、そのことを出して聞いてもらうと安心し、また次を調べようと意欲につながるのは、どういう作用なのかと思いました

その時代にかかわりあった全ての人を思い出そうとすると
20年前の暮らしの場、職場、周囲の景色、毎日接していた人の姿、表情、名前、その人の印象などがありありと思い出され、記憶というものはどうなっているのかと驚きでした。

今回やってみて
人に対して立ち入ったり、自分の気持ちをごまかそうとしたことが記憶に残っていること
調べない限りはそのことを持ち続ける
見よう見ようとすることで自分の嘘に気づける、、心の不思議さを思いました

二日間でしたが  けっこうみっちり、、という感じでした
自分を観察する、そこに集中するには訓練が要ると思うし
少しづつだけど、短期内観など機会を得ながら自分を観察する能力が
開発されていくように思いました。
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自分を知るための集中内観コースに参加して

自分で自分を調べるということ
そのときのその人に対しての自分がどうであったかと
記憶ではあるけれども
できるだけ具体的な事実とそのときの気持ちを
いい悪いとか考えをはさまないで
そのままを見ようとするということを
全て用意された中で面接に助けられながら
やってみようとした1週間でした。

気持ちをありのまま見よう見ようとすると
その人に対して高いところにいたり
素直でない,
自分で自分を狭くしている姿が見えてきました。

初めのうちはそういう自分の姿が認められず
眼をそむけたい感じでした
それでも見よう見ようとしていると
調べてみたい気持ちに変わっていきました。

そのときの自分を調べ
自分を狭くしている姿に気づくと
すっとその人に対して素直な気持ちになり
心の世界が広がるのが不思議でした。
その人に対して狭い気持ちになったときの場面や
そのときの気持ちが、記憶に残っていること、
調べることですっと溶けていくのが不思議で
記憶や心はどうなっているんだろうと思いました。

ふりかえってみて
自分で自分を客観視するということは
いいとか悪いとかでなくそのままを見ようとする
ありのままの自分の姿を認めることかと思いました
認めることでだんだんと
自分が離れてながめられるようになりました。

5歳の女の子の内観、10時間に及ぶ面接の録音を聞きました
3歳のときからの自分を振り返り
お母さんに対してどうであったかと
素直に自分を見つめ面接者に表現しているのを聞き
こういう自分で自分の内面を見つめるということが
こんなに幼いときからできるということは驚きでした。

法や規則の要らない社会がどういうものか
人と人がどのようにして調和していくのだろうかと
つねづね思っていました。
今回自分で自分を調べるということを体験してみて
自分を客観視する能力が人間には備わっているということ
自分で自分を調べ、まちがいに気づき
反省できるということは
人間らしい崇高な能力と思いました。

これからも人間らしさを失わないで
反省の能力を磨いていくために
日常的に内観できるようになっていきたいと思いました。
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ライフミーティング

 ライフミーティングに参加して、いろいろなことを感じた。整理してみたいと思いブログに向かっているが、本当に盛りだくさんで、どこから書き始めようか、、、。

 ●出かける頃雪が降ってきた。車で行って大丈夫かな?
会場までは行けそう。帰りは。夜、帰れるかな?今回は、ミーティングが終わってからどうしようか決めようと出発する。
10時過ぎ、帰るのはこわいので、急遽公ちゃん宅に泊めてもらう。急に言って悪いかな等なんの不安もなく、泊めてもらい、楽しい宴会(?)にも出れていろんな人と話ができて大満足だった。
 そのとき、私の中で何故、予定が決まったことになっていくのか少し解けた感じがした。
<急に言ったら悪い><迷惑だ>という思いが自分の中に結構強くあって、道路が凍ってなかったら帰りたい。もしだめなら危ないのでどこかに泊まりたい。
でも急に言ったら迷惑がかかるから、昼のうちに決めて置かないと、泊まるって言ったらそうしないと、となっていく考え方があるんだな。今回は、そのときは誰か泊めてくれる人もいるだろうなあと、なんの不安もなかった。
こういう人々の中では、予定と実際とは違うってことは当りまえの
こと。日常化レッスンの中で、なんで私の中で決まっていくにかと何回も考えたが、仲々ほぐれていかないのが、コミニティの中では、案外簡単に解けていくのかなと。

 ●先月あたりから<自立>ということがよく出ている。私は、ここ4,5年<自立って自由ってなんだろう>と模索してきたように思う。
自立といっても、一人で食べていける、人に迷惑をかけないなんて、そんなもんじゃないだろうけど、どういうことを自立っていうのか、検べたことがなかった。
<自分の意思で行動する人>自分の意思がはっきりしている。自分がそうしたくてしている。
そうなるためには、「~だからやる。」「~から~。」などありえない。そういう人になるためには、すこしでも<決め付け>があったらそのことで自分が動かされているような錯覚に陥る。
自分の思いだとなったら、どうかなとか、どうしたいかと調べていける。改めて、自分の感覚であるという「自覚の大切さ」を思う。

 ●自立、自主的に生きようとする人、仲間がこんなにいるんだなとなんかすごく嬉しかった。そういう社会で暮らしたい。知らせたいと切に思う。

 ●「~から~。」しきたり、ここでは~することになっている。
こんなことは、見直したことなかったなあ。
そうなっているから当たり前のようにやっている。そういうことを見直し、検討する場として、ミーティングは私にとって不可欠なものだと思う。

 自分の人間観、社会観から考え、暮らしている。
 ひとつひとつ本当にに見直して生きたいです。
 まだまだいっぱいありそうだが、思いつくまま。
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ライフ ミーティング

駐車場に白線が引いてある カラ 線にそって駐車する
決まっているからする 言われたカラする 
私の具体例は 「掛け布団を踏んでは いけないもの」
自分を縛り  家族にはもちろん いけないと叱る 

自立 という所から調べてみると 毎年 母が 布団を打ち直しを手伝いつつ
ふんわりとした掛け布団を大切にしたいなと自分がそう考えていたのに
踏んでは いけないと 教えられた となっている。
どうなのかな? いくら叱られたり 教えられても 守っていないこともある。
やはり 自分がやっていこう そうしてみよう としていることなのだ。 
そうなのなら 自分がそうしょう としていることを伝えようと なって いくのではないだろうか。  
私の日常は 主体性ゼロ あげくの果ては そうしてない人を なんで そうしないのと責めている。
自分が そうのように考えて行ってること 自分を観察して 観て行きたいと思いました。
カレンダーに赤い〇印を入れて 参加を指折り数えていたライフミーティングに参加できてよかった 楽しかった おもしろかったです。
みんなと一緒に考えたからで 一人では 出来ない事とおもう。
神戸から一緒に参加できる 仲間が増えるように考えるのが楽しみになってきています。 
2泊3日 留守をしてくれている夫に いっぱい感謝の気持ちです。
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研修生コース2日目

みかんを前に、トレーナーから・・・・「味はどこにありますか?」
皮をむいて・・・・「味はどこにありますか?」
それまで「このみかんの味は最高!」と思っていたのが、あやしくなってきた。
次に、5人で一人一房食べ、感想を出し合う。そして、また一人一房食べる。見る段階から、口に入れて、初めて自分の中で反応が起きる。
一人一人違うし、一房目と二房目の味も違う。一人一個ずつ食べるのもやってみた。
みかん一個をこんなにゆっくりと丁寧に食べたのも初めてだ。
美味しいと簡単に言っているけど、その中味は何だろうか、調べてみたくなった。
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