『いきたひ』上映会で「死と生」を見つめ直す


上映会後に長谷川監督とトークセッションする中井正信さん(理想の暮らしを語る会)

長谷川ひろ子監督のドキュメンタリー映画『いきたひ』の上映会と講演会が、6月16日、鈴鹿医療科学大学白子キャンパスでありました。主催は鈴鹿地区「いきたひ」上映実行委員会と「いのちと心を守る鈴鹿市民の会」の共催。そのイベントのトークセッションにゲストとして、「理想の暮らしを語る会」の中井正信さん(アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティ)が登壇しました。死を見つめることは、今、生きていることを見つめ直すこと、そして死や生がけっして一人だけのものではなく、人と人のつながりの中にあること、など深く考える場になりました。中井さんと参加者の感想を紹介します。



(長谷川ひろ子監督が上映後に講演する)

「死と生」 中井正信

6月16日。長谷川ひろ子さんが4人の子どもと共に末期がんの夫を家で看取った、彼女が監督のドキュメンタリー映画の上映会があった。
この日は終日、人間の死と生について観て反応し、思い、そして「生」を考えた一日だった。
観終わって「看取りって本当にいいなぁ~」と湧き上がってくるものがあった。

末期がんの夫の日記の一節に「死を見つめることによって、生きているものたちへの価値や愛しさが倍増する」とあった。

死を見つめることは生きるということの意味を浮かび上がらせてくれる。死を受容した人の姿に本来の人間の姿を観ることが出来た。しかしながら、看取りという時間が無く死ぬことだってある。

「死は人間の完成だ」と小説家の山本周五郎は語る。彼の小説、武士を捨て浄瑠璃の作曲に一生を賭けた男の物語『虚空遍歴』の最終章の一節が僕の中で浮上した。

―――そうだ、これなのだ。あたしは芝居を見ながらそう頷いた。あの方が自分の作に満足せず、作っては直し、直したのを作り変え、また初めからやり返す、という苦心を繰り返したのは、一篇の浄瑠璃をまとめあげるのが目的ではなかったからだ。一篇の浄瑠璃を仕上げる以上の、もっと真実な、動かすことのできないなにかを求めていらっしゃったのだ。なにか、というものを現実にとらえようとするために苦心したので、ひとつの浄瑠璃が成功するかしないかは問題ではないし、たとえそれがどんなに成功しても、あの方は決して満足はなさらなかったに違いないと思う。死は人間の完成だ、とあの方は仰った。――

僕は15年近く前に重度の障害をもつ青年の詩に出会った。生まれてから今日までベットの上での生活の彼の言葉(うる覚えだが)。

「社会の役にたつというのが人が生きる意味だとしたら僕が生きる意味は何なのだろう」と。

それ以来、思い続けているテーマであった。人は人と人から生まれ、そして人と社会の影響を受け続けながら生き、そしてその中で死んでいく。どんな人も人と人のつながりから決して離れて生があるのではない。

ということを知る一日であった。
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サンデー毎日に「おふくろさん弁当」の働き方が掲載

『サンデー毎日』 2018年06月24日号(6月12日発売)の記事に「『働き方』と表裏一体の『休み方』三重『おふくろさん弁当』の挑戦」というタイトルで掲載されています。「働き方改革」が進行する中で、「休み方」にも「働き方」が現れているとして、「おふくろさん弁当」の運営に着目しています。
WEB上で記事が公開されているので、ここに掲載しました。







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恵共同体・アズワン物語〈9〉「フィクションの向こうにあるもの」


「フィクションの向こうにあるもの」


「フィクション」について触れたので、その観点でもう少し話してみたい。

坂井氏の「フィクションからの解放、次の社会へ」の話はかなりインパクトがあったようだ。3日間を通じて、彼らの中に深く入っていった。

フィクションが悪いわけではない。私達はフィクションを共有することで社会を営んでいる。ただ、自分たちが作り出したものに縛られてしまい、本来あるものに気づかなくなっていないかを問いたい。

坂井氏の次に話しをしたのが生活スタッフの中井佳子さんだった。ここでの暮らし方を案内した。佳子さんはみんなのお母さん役といったところ。
「今まで、ツアーに参加する人たちを“お客さん”として迎えてきたが、今回は、“お客さん”とスタッフという関係でなく、共に暮らしをつくっていけたら…」そんな主旨のことを伝えた。

「お客」と「スタッフ」という関係も一つのフィクションだろう。
そのフィクションの中で互いの関係を成り立たす。お客はサービスを受ける側で、店は提供する側になる。ここに「お金」というフィクションが絡んでくる。

例えば、「お金を払ったからしてもらえた」とか、「お金のために仕事をする」と言う時がある。その場合「お金」は意識に上るが、そこにいる相手の人が、どう見えているだろう? 「フィクション」が潜在的に刷り込まれているために実際の人の行為や相手の人に目が向いていかない。

お金や仕事とは関係なく、人と人の間には、してもらったり、して上げたりという行為はごく普通にある。その自然なやりとりの方が、本来は当たり前ではないかと思う。また、自分が人にして上げた行為よりも、人からしてもらっている行為の方がはるかに膨大であるのだが、そのことを知らない。

今の社会では、「お金」というフィクションが大きくなり、そこに支配されているという錯覚すらある。実際の人と人の関係や行為が見え難い状況だ。

フィクションがフィクションだと気づくことは、その実際に関心が向いていくことでもある。

佳子さんが言った「お客さんという関係ではなく…」という言葉の真意は何だったのか? フィクションではない、実際の人と人という間柄で、共に暮らしたい、そんな願いからだと思う。その元には、母親が子どもの世話をするような「無償の愛」があったのかもしれない。この元々あるもの。本来誰の中にもあるものが発露し発揮される社会、そんな社会が出来ないだろうか……フィクションから解放されることで発揮されるのでは……つづく(文・いわた)

(写真は、講義の後のヨガで一呼吸)
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恵共同体、アズワン物語〈8〉「フィクションからの解放」


「フィクションからの解放―次の社会は?」

昨年話題になった本で、イスラエルの歴史学者ハラリ氏が書いた『サピエンス全史』がある。人類がなぜ今のように繁栄したのか。人間一人の生存能力は他の動物よりも低いだろうが、今やこの地球上で他を凌駕し繁栄している。その人類史を紐解き、人間の幸せとは何かを問いかける。

人類の最初のステップは、フィクションを作り出し、それによって協働出来たことだという。実在しないものを「物語」(フィクション)として仲間と共有することで、一人では出来ないことを力を集めて実現してきた。

そして、国家も貨幣も宗教も法律も、みな人間が作り出したフィクションで、物語であり虚構であると進言する。確かにそうだろう。そうして現代人は自ら作り出したフィクションに縛られ、不自由になっている。

アインシュタインの言葉の中にもよく似た表現がある。私たちは、意識にあるある種の錯覚という牢獄に縛られていて、自らを解放しなければ人類は生き延びれないだろう、とも言う。

こうした提言や警告は多くの学者や研究者、あるいは賢者が発しているが、はたして人類は、新たな道を進むことが出来るのだろうか。

その一つの試みとして鈴鹿で始まっている「アズワンネットワークプロジェクト」は、新しい社会モデルをコミュニティという形で創り、人間の可能性にチャレンジしている。既存のフィクションが行き詰っているから、新たなフィクションをどう作るか、という方向ではなく、まず、そのフィクションがフィクションである、ことに気づくことが出発点になる。

フィクションという虚構に縛られてしまうのは、フィクションを「現実」や「実在」のものとして認識しているためで、そのことに気づければ……。解放される…。固定観念に気づくと世界が広がるように…。実は、ここで立ち止まってしまうケースがよくある。解放されてどこに行きたいのか…。その先に何があるのかを知らない。
その次は、何が実際なのか、何が本質なのか、そこを知りたいのでは?。そこを知ることで……
本来の自由で調和した世界が実在し、その世界が現出してくるはず…?
たぶん、これが「as one(アズワン)一つ」と呼んでいる世界。

牢獄から解放されたら自由になれる、と思いがちだが、実存する世界へ心が向かわなければ、心は自由になれないのだろう。

……という話は、僕の解釈だが、上記は、スタディツアーの開口一番で行われる「アズワンネットワークの目的と概要」という講義の一部である。講師はサイエンズ研究所の坂井和貴氏。フィクションをフィクションと認識した先に何があるのか、その世界を垣間見せてくれる。誰でも一度は聞いて頂きたいお話しです。つづく。(文・いわた)
(写真は、坂井氏が恵のみなさんにパワーポイントでプレゼンしている様子)
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恵共同体、アズワン物語〈7〉「人と人が出会うとき」



「お互いを引き寄せ合うものとは」

初日の「歓迎式」では、恵の人たちがジョンレノンの『イマジン』をアカペラで、そして全員による合唱を披露してくれた。それを聴いた時、その歌で表現したい何かに触れた気がして、僕の方は何だか胸が熱くなった。

昨年10月にアズワンの小野さんが恵共同体の暮らすシェアハウスに行き、その時、合唱で歓迎してくれたという。そのたまたまの出会いが今回のツアーへと発展し、鈴鹿でも、彼らの歌を聞かせてもらえたのだ。彼らが、ここで何をしたいのか、そんな気持ちに思いを馳せたからかもしれない。

前日の子どもたちを迎えた時も感じたが、人と人が出会うとは、どういうことだろう? まだ見ず知らずのお互いでありながら、どこか懐かしい友と再開したような感覚になる。何と表現していいか、互いに引き合うものがあるというか。心が相手の方に引き寄せられていくというか…。

こうした心の働きが親しさを生んでいくのだろうか。

この日の歓迎式でも予定外のことがあった。司会をするはずだったメンバーが来れずに、僕が急遽司会に立ったのだ。そんな内輪話しも公表しながら、和やかな式になった。彼らが、やたらと盛り上がってくれるノリのよさに、僕の方が面食らってしまった。

なんだか、いろいろ失敗しても許されるお互いになれたような気がした。

「どんなハプニングがあっても、その場を共に創っていこう!」

こうして、ようやく、2泊3日の「恵アズワンスタディツアー」がスタートしたのでした。(*^^*) つづく(文・いわた)
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恵共同体、アズワン物語〈6〉「計画というフィクション」


「計画(というフィクション)を共有していても、その時の実際がある」

恵メンバー81人の中で、一泊早くやってきたのが小中高の子どもたち17人と先生2人の19人だ。やって来るその日は、名古屋で水族館を見学し、夕食を済ませてから夜に鈴鹿に来る計画だった。

こちらも、駅までの迎えの時間にドライバーが車を用意し待機していた。ワゴン車1台、乗用車2台、荷物車1台の4台を用意して。

ところが、予定時間の夜9時30には着けないという連絡が入る。どうやら名古屋で乗る電車を間違えたらしい。10時半過ぎるということと子どもたちはまだ夕食を食べてないということも。

また、電車の乗り継ぎもうまくいかず、迎え便も遠方の駅まで出迎えた。

こちらのメンバーもその対応をLINEでやり取りした。

僕も待ち遠しくなり、今か今かと外に出て待った。到着したのは夜10時半を回ったころだ。車が次々と到着した。中から小さな子どもたちが降りてきた。みんな元気そう。無事到着したことを一安心した。はるばるこの子たちが来たことを、しみじみと思った。

アズワンハウスにはアカデミー生という「サイエンズを学ぶ」学生たちが暮らしている。その彼らが子どもたちを出迎えてくれた。持参した韓国ラーメンをアカデミー生が調理し、11時頃からの夕食になった。みんなお腹を空かせているようで、バクバク食べた。

翌日午前中は、「すずかの里山」という車で15分ほどの場所へ行き「里山遊び」を企画していた。「今晩遅くなったが、どうする?」と聞いてみると、先生から「子どもたちは、大丈夫だ」と言う。翌朝からは予定通りに動くことになった。

遅い到着になったが、みんながそこに合わせて動いていた。誰かが指示するでもなく、恵の情報をそれぞれが受けて、それぞれが思い思いに体制を作っていた。たぶん、こうしよう、ああしよう、という動き方ではなく、気持がそこに集まっていたから自在に動けたのだろう。

ちょっとしたハプニングだったが、明日から来る62人のことを思った。こんなふうに受け入れられたら……。つづく(文・いわた)
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恵共同体、アズワン物語〈5〉「準備の中にある目的」



「計画通り進むのがツアーの目的ではない」

恵共同体の受け入れについては、こちらでも緻密な計画を立てていたが、恵の人たちもツアーの計画から相当の準備をしていたように思う。
当日を迎えるまでも、双方に情報交換をし、連絡を取り合った。

鈴鹿でも、彼らがどんな動機や目的で来るのか、また、ツアー中の暮らしのことなど一人ひとりを把握しようとアンケートを出して、それにも丁寧に応えてもらった。ここには韓国のアズワンネットワークコリアのメンバーも入って両者の間を取り持ってくれていた。こうした3者の情報交換によってお互いが知り合うことが出来た。

当日歓迎式の中で、恵のツアー実行委員の代表が、その事前のやりとりをこんなふうに語っていたのが心に残る。

「81人の多くの人が団体で来る場合、一人一人を把握するという発想はなかった。一人ひとりに対して興味を示してくることが印象的だった。
10分くらい歩きますが、歩けない人はいませんか? みんな歩けますか?とか。食べ物のアレルギーがある人はいませんか?とか。
その他、一人ひとりに気をかけてくれることに対して、準備の段階から感動がありました」と。

そんな話しをしてくれた時、こちらの要望を誠実に受け止め、それに応えようとしてくれていたことがとても嬉しかった。ツアーで何をお互いがやろうとしているのか。ここに来る以前から既に始まっていたのだと改めて思った。

ツアー中の計画は綿密に立てていたが、それはあくまでもフィクションだ。先の予想というか、目安でしかない。私達は、計画通りに実行することをしたいわけではなく、どんな状況になっても、その中で実現したい「目的」がある。
そのことを、このツアーを通して、学ばせてもらったように思う。

恵の全員が来る、その前日に子どもたち19人が前泊組として来ることになっていた。その子ども達を迎える時から早くも、予想外の展開となった。予定の時刻の電車に乗れずに夜遅くに到着する。その知らせが届いたのだった。つづく(文・いわた)
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「おふくろさん弁当」次の一歩へ

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『本当にあったこんな会社!“規則も命令も上司も責任もない”幸せを運ぶおふくろさん弁当』そんな本が出版されて、世間からも注目を集めた会社、おふくろさん弁当。しかし、今また、ゼロからその中身を見直そうとしています。「本来の人、本来の社会」を実現していく会社として、どうなんだろう? そのための集中研究会が、弁当屋の社員22名で開かれました。その参加者の一人のレポートです。


5月の第2週、第3週でおふくろさん弁当の集中研究会が開かれました。22名のサイエンズスクール会員対象で、午後から夜まで、それぞれ4日間に渡っての研究会でした。午後からとは言え、日々の営業をしながら、これだけまとまった人数での研究会は初めてのことでした。

おふくろさん弁当は今年で営業11年目を迎えます。アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティの産業部門の中では一番の大所帯です。
11年間かけて「人のための会社」を目指して、試行錯誤を重ねて来る中で、規則や命令、上下関係がなく(上司がいない)、責任もない。いつでも休みたい時に休める会社として、各方面から注目を集めるようになりました。
やっているメンバーも、何か本来の方向に進んでいるような感覚も生まれてきました。

しかし、ほんとうに、このような現れは、本来の人間、本来の会社の実現と関係があるのでしょうか? 
現状の社会からすると、人に優しく、人のために良い会社に見えます。しかしそれは「現状の社会観」をベースにしたところからの見方ではないか、そんな意見も出てきました。
もしそうだとすると、これはいつまでたっても、目指す会社の実現には至りません。

今年に入り『SCIENZ6号 次の社会へ 「人知革命=サイエンズメソッド」』が出版され、アズワンネットワークメンバーによる輪読会が各所で始まっています。
そんな中、おふくろさん弁当でも今一度自分達のやっていることを見なおそうということになったのです。研究会では、『SCIENZ6号』の第4章「サイエンズメソッドによる人知革命」を資料に、みんなで読み合い深めていきました。(O)

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恵共同体、アズワン物語〈4〉「一つのチームになるには」



「職場や部門間にある壁がなくなり、一つのチームになるには…」

鈴鹿コミュニティの中にも、職場や部門がいろいろあり、普段は各自それぞれの場で仕事や活動をしている。どこか忙しい職場があれば、応援に駆けつけたり、急がれることがあれば、その時やれる人がやったり、融通しながら臨機応変に対応し、互いに周り合う関係性がある。

ただ、いつでもそうかと言えば、そうでないこともあるし、担当が明確ではない仕事になると、誰がやるんだろう?という狭間が出来たりする。
そのため、ということではないが、今年に入ってくらいから、職場や部門がもっと「一つ」であることを「サイエンズメソッド」によるミーティングを重ねる中で明らかになり、それによって各自の意識に大きな変化が出てきた。意識の変化というよりも、心の内面の変化だろうと思う。

自慢話しかもしれないが、いろんな面でコミュニティが成長しているように感じている。そういった内部成長が、職場や部門の壁をなくし、一つのチームのように動くことが出来たのが今回の受け入れだった。

恵共同体81人の企画が、スムーズに、ギクシャクすることなくやれたのは、上記の成果ではなかったかと思う。やったことのない規模にも関わらず大きな安心があったし、一つのチームになれたこと、やれたことが、何よりも大きかった。

恵共同体の彼らの感想に、「ここに来てとても居心地がよかった」「安心していられた」という言葉があった。ちょっと驚きだった。というのも、滞在中は、鈴鹿のメンバーが接した人数よりも彼らの人数の方がよっぽど多かったのに、鈴鹿の空気に浸ってくれたのだ。一体何が伝わっていたのだろうか。

私達は、地球という星に生まれ、自然と共に生き、社会という人の営みの中で暮らしている。本来は、みな一つの営みの中に存在しているのだろうが、人の意識の方は、個々別々のものとして認識し、世界が一つであることや全体の一部であるという意識の方はあまりないだろうと思う。

意識がバラバラであっても、本来はそういう「一つの世界」の中にいる私達。心の方(無意識の方)は、たぶん、その世界に生きているのだろう。つづく…(文・いわた)
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安心して看取られる地域の施設を創りたい

4月28日、理想の暮らしを語る会の公開講座がありました。
今回のテーマは「介護は新しい文化を創造する
――子育て中の介護士が語る介護現場と地域での看取り」です。
講師は、子育て真っ只中で介護士として老人施設に勤務しケアマネの資格を取得した森原遼子さんでした。レポートは、語る会のメンバーの一人、辻屋康子さんです。



講師の森原遼子さん

森原さんの話を聞いて、現場の様子が伝わって来ました。

要介護度によって、入所できる施設の違いを私も父の介護のことで、学んだばかりですが、どこも一緒ではないし、職員さんの質が大きく問われる上に経営者の考え方が変わっていかないことも問題らしいです。



家で最後まで過ごせるのはもちろん良いのですが、私たちの地域力で新しい楽しい誰でも行きたくなって、帰るのが嫌になるような、そんな施設を増やしていけないかなって思いました。



見取りを自宅で、家族に見守られて出来るのは理想かもしれないけど、身内が一人も居なくても、安心して看取られる地域の自分達の施設を創りたいなあと思った1日でした。
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