10月25日のオンライン対談の文章化(その3)です。
ご覧ください。
▼第1回目のオンライン対談
動画⇒
https://youtu.be/pqCM5PseOPw
文章化テキスト
その1⇒
http://as-one.main.jp/sb/log/eid1185.html
その2⇒
http://as-one.main.jp/sb/log/eid1191.html
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「次の社会への扉を開く 21世紀の禅!?」(その3)
小野
そうですね、三木さんが言及された、普通は安心した状態になれないということなんですがーーー安心していない、つまり心底に不安や警戒があるわけですが、慢性的になると、自分では気づけなくなっています。人間も動物ですから、不安や警戒、それは危険を感じているということですね。危険から身を守るほうに相当神経を使いますね。
警戒していては、落ち着いて、客観的に自分を観る方向に行くことが難しくなります。守るということは、相手から何か責められたり追及されたりなど、人が自分を襲ってくるのではないか、そう恐れている状態ですから。
今の社会で生きようとしたら、ほとんどそういうベースで暮らしている感じがしますけどね。
三木
そうですね、確かにその緊張に気づいたり目を向けたりすること自体、怖い。
小野
他から身を守らねばならないという心の状態ですと、おそらく自分を観るということは、ほぼ無理、という気がします。そこに着目して、まずは安心して何でもを出せる状態になれるように。そこでようやく、自分の方に目を向けることが始まるわけですね。
たとえば怒りとか、いわゆる普通で言うネガティブとかマイナスと言われる感情は、当人自身が不快ですから何とか無くしたいと誰しも思いますね。しかし実際にすでに起こっている。もう起きているわけですから、それを隠した状態で自分の中を観るという、そのプロセスはあり得ない、ということです。
隠していること自体が、人を警戒しているし、その場で調べていく対象には成り得ない。しかし、普通はそれを自分の内面で、一人で何とかやっちゃおうとしている訳ですから。そのベースは、ただもう人を警戒している状態、とも言えますね。
そこから、まずは警戒がいらない状態でオープンになることが先決ですね。例えば悪感情が起きた場合でも、こんな悪感情が自分に起きている、起きたなって、良い悪いなしに、そのまま観られるような状態が先にあることです。そこで初めて、こんな感情が出るけれど、これはどうなっているんだろうと調べる対象になると思うんです。
安心していたり、なんでもそのままが言えたりする状態がないと、何も始まらない。
だから、怒ったりするのはよくないとか、嘘つくのはよくないとか、隠し事しているのは悪いこと、人に知られちゃダメだ等、そういうものがあるうちは、ひたすら身を守っている状態ですから、どうしてそう思うんだろうと、元にあるものを見つめることができないですよね。むしろ、そこにカギがあるわけですが。
安心の状態と一口に言いますが、身を守ろうとする防御の壁も人それぞれで多様です。できるだけ防御のない状態にできるように、それが、サイエンズメソッドを使ってのミィーティングでは一番ベースになる部分だと思っています。
さっきのスピリチャルとか悟りとか,宗教体験をされた方の場合は,パッと世界が変わって見えたり,それで自分の世界観が変わることで世界が違って見えるってことは、多分あるだろうと思います。ただ,世界観が変わったり、どんなに自由な心境を味わったりしても、今の社会の中で生きる限り、いろんな縛りが社会から来ますよね。
世界が縛るというのも,社会が縛るというのも,実際に「社会」というものがあるわけじゃない。社会というのは人間の考えで,ハラリさんも言っているように、人間は人間のフィクションを使って,これだけ,見知らぬ人同士が協力できる。それは逆に言ったらフィクションがあるからこそですね。ホモサピエンス以前の人の群れだったら、150人程度しか協力できなかったものが,フィクションを共有することで1万人で協同するとか,野球場に5万人の人が集まってくるとか,日本の国だったら1億3千万人の人が日本の国だとか,フィクションを共有することでそれだけの強力な力を得たということです。
それがホモサピエンス、人間の一つの大きな特徴ですけれども、逆に言えば、そのフィクションが、現在だったら規則とか,お金とか,人間を縛る道具にも同時になってしまっている。
さっきの,いくら悟った,世界観が変わったといっても,縛ってくる社会にいる限りは,心境的には変わったと感じて、中にはそれが一生続く人もいるかもしれませんけども,絶えず,縛ってくる影響を受けるわけです。
人間は山の上に一人でいたらそんなに社会の影響は受けないかもしれませんね。
しかし、こういう社会の中で暮らしている限りは、影響を絶えず受けています。人間は、そういう社会動物ですね。人の心境が変わっただけでは、たぶん安心は持続できない。社会すべてから、人を縛るものがなくならない限りは,本当に自由な心境で生き続けることはできないと思いますし,逆に社会が本当にそうなったら,一人ひとりが修行とかサイエンズを学ばなくても,そういう社会の中で暮らすことで、誰でも幸せに生きられるともいえるわけです。さっきもサイエンズメソッドの目的を言いましたけども,社会がそうなったらいいわけで,一人ひとりがサイエンズメソッドを学ばなくていい社会にしたいためにやっているともいえると思っています。
ハラリさんの言うフィクションが人間の持ち味でもあるし,繁栄する能力でもあるんだったら,そのフィクションをフィクションとして扱って,フィクションに縛られない使い方をしていくことはどうか。
それは言い換えれば、人間の考えがどういうことかを知ることだと思うわけです。フィクションは人間の考えの話ですから,人間が人間のフィクションを、フィクションとして扱える,そういう知能の使い方になっていくのがサイエンズメソッドともいえるかなと思っているわけです。
三木
なるほど。だから人間の考えを、もっと意識的に使えるようになることがサイエンズメソッドの目的ですね。
小野
そうですね。新しい知能の用い方だ、と僕は思うんです。
例えば,法律があるとか,お金があるとか,常識があるとか,あたかも「ある」みたいじゃないですか。常識あるよねとか,規則あるじゃんとか。それがフィクションだという自覚もないくらい,お金がなきゃ生きていけないという人が結構多いですよね。それくらい現実感がある。
フィクションと思えないくらい現実感があるように,もう,フィクションに支配されちゃっている。人間が作ったフィクションなのに,人間がそれに支配されて,お金のために働くのは当たり前みたいな。国を守るとか当たり前のように言いますが,「国ってどこにあるのですか?」みたいなね。
三木
でもそうなると問題は、国もお金も全部ここ、頭の中にあるんですが、それをみんながみんな同じように思っていて、もし誰かが外れようとすると「おいおいおい」と引き戻すわけですよね。そこをどうやって開いていくかっていうのが、課題になるのではないか。
小野
そうですね。
三木
そこをサイエンズメソッドは徹底して探究しているのかなと思うんですが。
小野
大きなところですね。フィクションを否定しているわけじゃないんです。
国、という概念を否定しているわけじゃなくて,それに縛られている,縛っているという部分が、もっと自覚できるようになることですね。
そしたら国っていうのは何のために作っているフィクションだろう?とね,人を縛るとしたらそれは逆なんじゃないかとか。規則とかルールとかもそうですよね。規則が悪いというわけではなくて,こうしようかというルールとかはあってもいいと思うんですが,人よりもルールを大事にして,ルールを守らない人を縛ったり,責めたりして。そこがテーマではないかと感じています。
フィクションに縛られないで,フィクションを活かせる。そういう知能の使い方。人間の持っている,フィクションを使って共有できる,協力できる,それをもっと存分に発揮できる方法がサイエンズメソッドではないかという風にも思います。
三木
それが、そのサイエンズの一番新しい本で、『次の社会へ 人知革命』、という言葉で表しているのが今言った内容ですね。
小野
そうですね。革命というと、何か壊したり,あいつが悪いからやっつけろと暴力的になったりしがちですかね。
しかし、サイエンズの場合は、たとえば国とか法律とかお金、それぞれ一体「何」を指しているのか,何をしているのか知っていくプロセスが大きいです。「知る」ことで世界が変わっていく。
何かを変えたり,壊したりしていくのも一切なくて,本当は,それはどういうものなのか,フィクションっていうのはどういう存在なのか,フィクションを使って何をしたかったのかとか,そういうことを知るだけで世界が変わっていく。知ったら,自分自身もそういう方向に進んでいきますし,サイエンズメソッドを使ったミーティングを通して,何がしたいんだろうとか,何にとらわれてきたんだろうと知ることで、これまでとは違う関係性が生まれてくる。
そういう中でアズワン鈴鹿コミュニティという「形」になって現れてきていると思うんですよね。
三木
それで言えば、鈴鹿のアズワンコミュンティが面白いなあと思ったのは、
普通、コミュニティといえば、実際に限られた敷地があって、その中に建物があって、その中で共同生活をしているというイメージを抱いています。実際、多くの場合がそういう形だと思うんですが、アズワンにはそういうのがない。
20万人都市の鈴鹿の中で、それぞれの生活があって、それぞれ外から見ると普通に暮らしてるんだけども、その中に、人知革命で培ったんでしょうかね、ニュートラルな、ナチュラルな意識状態で人と人が行き来し合っている。
そこは見えないけどしっかりあって、またそれを外部から来た人がしっかり感じられる。見えないけども感じられるぐらいに育ってきているなと。
小野
そうですね。
三木
そこが本当に素晴らしいなって思っています。
形がそのまま日本に広がるってことじゃなくて、人と人、ナチュラルに付き合える人たちがどんどん増えていってーーーそれぞれの場でそれぞれの人がまたそれぞれの暮らし方をしていくというか。そういうことですよね。
小野
そうですね。知能の用い方が、フィクションをフィクションとして扱えたり、自分の内面に何が起こっているのかを観察できたりするように働きあう。
そういう人たちがいたら,人と人とのつながりの中から現れてくるのが社会ですから、次の社会は、そういう関係性が生まれたお互いの中で出来てくるもの、ということです。
鈴鹿は一つの実例としてみてもらいながら,こんな暮らし方や関係の仕方がありうることや、そのベースになっている、サイエンズメソッドにも触れてもらったらうれしいですね。感じられたところから、新たに新しいものが生まれていくのではないでしょうか。
何歳になっても、人というものは、自分自身からいろんなこと気づいていけるということ、そういう人同士が何人か集まってきたら、そこに新しい関係性が生まれます。もしそれが皆さんご自身の場所で、各地で生まれはじめると,いろんな形のコミュニティが生まれてくると思うのですよね。コミュニティの形は,そこの地域とか,そこにいる人たちによっていろんな現れ方をしていくでしょうから、結果として多様な姿になってくると思いますけどね。
三木
普通、次の社会というと、民主主義とか資本主義とか、あるいはそういうものじゃない、もっと良い制度とか何とかーーー、という発想になりがちですが、しかしそこは全部オープンですよね。
形にとらわれるのじゃなくて、もっと具体的な、人と人の自然な状態での暮らしぶりが、次の社会を生み出していく。
小野
そうですね。まず一人一人がある。それぞれがその人らしく生きられるために制度がある。しかし現状では,制度に人が合わせる,制度を維持するために人が合わせなきゃいけない,それに合う人を教育する、となっているから,どうしても維持させようとして、人に圧力がかかったり,自分の意志ではないことを強いられたりすることがおきる。だが社会を守るためには、それも仕方がない、いやむしろ必要じゃないかとーー。
要するに,フィクションで作った社会ありきで,そこに合う人を育てる、という構造になってしまっているのですね。
しかし,一人一人が実在するわけです。一人ひとりが本当にその人らしく自由に生きられるためにフィクションを使う。というか,協力し合うためにフィクションを使う。
いまは本末転倒ですね。フィクションを守るために人が要るから、人を縛るためのフィクションを生み出している。
そこ、人のためにフィクションを扱えるようになっていきたい。
今,アズワンがスタートして丸20年になりますが、サイエンズメソッドをベースに,人が社会に合わせるのではなくて,誰もがその人らしく生きるための社会ということに焦点が当たってきました。
研究も,最初は、認識とか個人の悪感情からの解放とか,話し合えるということが最初の研究テーマとして大きかったわけですけども,今は、社会がそうなっていくための研究になってきました。誰もがその人らしく生きられる社会の仕組みはどんなものか。社会がどうできていくのかという研究に重点が移ってきている感じです。
社会ができたら一人ひとりがそんなに努力しなくてよくなるのではないか。そういう社会の中で育ったら、それが当たり前になる。
たとえば、固定しないということも、元々,自然界にも、そこに生きる人間という生物にも、固定のない、常に変化する動きの中で生存している。そういう存在です。実は努力しなくても。本来の人の姿で生きられるような社会というものが、研究を通してだいぶ見えてきた感じはしますけどもね。
三木
その意味でいうと、今の社会の方が、無理をしている、ということになりますね。
無理なことをしている、それで必然的にみんなそこで強いられて、しんどいわけですね。この状態から、もとの姿に自然に戻す感じですかね?
小野
はい。サイエンズメソッドを学んで、何かを身につけて立派な人になる,努力して取り組んで悟るんだ、とかではまったくない。逆に、本来は要らないもの、無理のある社会に適応するためにつけざるを得なかったものを外していくということなんですかね。
それは、元々人間、あるいはその人に備わっている、「ある」ものに気づいていって,元々あるもの同士でつながっていく。
お互いに,互いの元々のもの、その人らしさを応援し合っていこうみたいな,すごいシンプルな感じですね。
三木
そうですね。やっぱり21世紀の禅かなあと。僕としては、そこにこだわってる(笑)
小野
三木さんの文章で、足し算じゃなくて引き算だ、みたいなことを紹介していましたよね。
三木
そこが本当にいいですね。どんどん楽になる。
小野
自分で修行して高みに上がっていく、ということではない、その真逆ですね。要らないものがまず取れていく。もちろん本来のもので伸びていきたいという気持ちは自然にあると思います。しかし、頑張ってとか,努力して、など自分に強いるようなことでは、そうならない。苦しいことではなくて、本当にそうなりたいという分だけが、そうなっていくというかーーー
三木
するとその分、もっと今より豊かな社会になっていく気がしますね。
小野
それはすごく思うね。恐れたり警戒したり,社会に合わせなきゃいけなかったり,頑張らなきゃいけないとか,評価を得なきゃいけないとかーーーー,多くの人たちが、そのことのためにエネルギーの多くを費やしている感じがします。
まず人から責められないようにしようとか,言ったことには責任取らなきゃとか,言いたいことが言えないとか。
三木
はい、自分で自分と戦ってる感じですよね。相当消耗をしてしまう。
小野
そういう無駄なエネルギーが要らなくて,本当に言いたいことが言える,やりたいことがそのまま言えるとか,やりたくないことはやらなくてもいいとか,そうなったらどれだけ人ってエネルギーが出て来るんだろう。みんな、心ならずも、ものすごいエネルギーを浪費してしまっていますよね。
三木
そうなると本当にね、自然に人がみんな、もともと持っているやさしさとか、思いやりとか、創造性だとか、いろんなものが楽に出てくる感じですね。
小野
そういうお互いが,してあげたいとか,他の人からしてほしいと言われたら、やってあげたくなるとかね。人に求めるもの,人に応えたいもの,それで響き合っていく人間関係がベースに。
小野
それが今の鈴鹿では現実に感じられる。初めて来た人にも少し感じてもらえるとこまで成長しつつあるところかなぁって思っているのですが、どうですかね。
三木
僕らは日本語で学べる、学ぶって言い方がいいのかどうかわからないですけど、すごくいいなと思います。今、サイエンズアカデミーには、スイスとかブラジルとか韓国から鈴鹿に学びに来ている人たちがいますが、皆すごい偉いなあ。
日本語から学んで、暮らしを通して学びながら、いずれそれぞれ各国に戻って広げていくんですよね。僕らは日本語で恵まれてるなって。
ここでぼくはOSHOの宣伝をしたいのですが、OSHOは日本に禅のスピリットは今で
も生きてるって言ってたのです。が、そのスピリットは生きてるんだけども、日本人は同時に世界で一番抑圧されている、とも言いました。
そこからすると、多分、日本人くらい、人間の考えに一番忠実に従わなきゃいけないって思っているのかもしれないですね。だから、そこを突破すれば、その日本人がずっと伝えてきた禅のスピリットが開花すると。そして21世紀は禅の時代だと。
小野
そうなんですか。なるほど。
三木
はい、すいません。
小野
それで21世紀の禅なんですね。
三木
そうなんですよ。それで21世紀の禅なんですよ。 ちょうどいい感じでまとまりましたね。(笑)
小野・三木
だいぶしゃべりましたねー、そうですね。少ししゃべり疲れたんですけど。(笑)