内藤氏(中央)と参加者
第3回講座に参加して(岩田隆)
「循環共生とは何か」をテーマに内藤正明氏の第三回目の講座が4月20日、アズワンカンパニーで開催された。今回は、人と人の関係とお金のあり方をポイントに、地域通貨の可能性を探った。
内藤氏は、Euro通貨の設計に携わったというベルナルド・リエター氏との最近のやりとりを紹介しながら講座を進めた。リエター氏は、現在のグローバルな通貨に対して、地域通貨を補完的に流通させることが必要だと説いている。
お金がない時代は―
内藤氏の発言で印象的な内容をまとめると――――
昔の日本の村落では、「講」や「結」という相互扶助の仕組みがあり、お金の介在なく、互いに助け合う地域共同体があった。実はこの基盤が人間生活には重要な役割を果たしていたのだが、近代化と共に失われ、何でもお金のやりとりで社会が回るようになってきた。現代においては、そのお金が肥大化し様々な問題を生んでいる。
お金があって当たり前の感覚は、人類の歴史から見ると極最近のことで、稀な事だ。もう一度、お金の存在も白紙に戻して考えていく必要があるのではないか。また、世界中で通用するドルや円という存在も不思議だが、地域通貨とのバランスが必要だ。スイスの経済が安定しているのは、そのバランスが取れているから。
もともとお金がなくても助け合って暮らしていた地域社会で、そこにあえて地域通貨という貨幣を介在させることにも疑問はある。お金があることで、人と人の関係はどうなるのか。
また、逆に、地域通貨を介在させることで、人と人の関係を築くことも出来るのではないか。その可能性を探ってみたい。
お金というテーマは人間の生きがいとは何かを考えることに通じる。現代はお金によって人の欲望を駆り立て、社会を回しているようにも見える。江戸時代の人々は、食べるために畑を耕し作物を作り、命をつなげてきた。しかし、そこにはどんな生きがいがあったのだろうか。そこに一つのヒントがあるようにも思う。
人はお金で動いているのか?
以上が講座で印象に残ったことだが、それを踏まえて私の感想を述べてみたい。――――
本来助け合いで成り立っていた地域社会や家族の暮らしが、お金という一見便利な仕組みによって、人と人のつながりが断ち切られ、お金を通して物や行為が動くという関係になってきたように思う。村落共同体でもお金の代わりに、してもらったらして返す、という見返りや義理などの互いに縛り合う関係もあったのではないだろうか。そういった間柄には不自由感が発生し、お金があれば自分の自由が手に入ると思い、お金=自由、という発想も生まれたとも考えられる。もちろん、モノが自由に手に入るという点でもお金を多く所有することは、物質的な豊かさともイコールとなる。そして人間は、その欲望を求めてお金を手に入れることに奔走する。自分の生きる目的や生きがいや、何をしたいのか、と考える前に、取り合えず、お金があれば安心だ、豊かで幸福だ、と思いやすい。
現在の日本では、モノがあふれ、かなり自由に生きられ社会であるように思う。それでも、将来に対しては、不安を抱え悲観的な思いが過ぎる。現状にも満足出来ない心も隠せない。
犯罪や経済不安や政治不信、目先の利益ばかりを追った商売に操られ、無意識にマスコミの情報に翻弄されていることもあろう。これからの子育てや教育への不安材料もまた募るばかりでもある。
とりあえず、お金を求めて頑張ってみたところで、簡単には解消されない問題が蔓延っている。こうした人と人、地域や社会に起こる不安や問題を如何に解決していったらよいのだろうか。
一人ひとりの人間の精神的な進化や向上が求められるが、それは単なる教育で可能なものか。また、そう一足飛びにはいかないことでもある。
サイエンズ研究所やサイエンズスクール、アズワンコミュニティの試みは、地道ではあるがその解決に至る道なのか。その可能性を私自身も探りながらの日々でもある。つづく(取材=岩田)
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