連載第6回【アズワンネットワークメンバーの近況】
2021年11月号から連載が始まった【アズワンネットワークメンバーの近況】
各地で活動するネットワークメンバーの今に焦点を当てて、紹介していきたいと思います。今回はその第6回です。
第6回は、広島県在住の松岡泰子さんです。
(紹介してほしい人や、サイエンズスクールのコースで、一緒だったあの人どうしてるかな? また私の近況をお知らせしたい!など、是非お寄せください。)
こんにちは!
広島市在住の松岡泰子です。
鈴鹿では、やすみんとか、やすこさんとか、呼ばれてます。
2022年9月で52歳になりますが、これまでの経緯、記憶の寄せ集めを書いてみます。
広島市中区光南という海に近いところで、歯科医院を開業していた父と母のもとで生まれた。
2歳年上の兄と2歳年下の弟がいて、木登りが好きなお転婆でした。よく兄弟を追いかけまわして、猫のようにひっかいていた記憶がある。
父は感情の起伏が激しく、何事も思い通りにしたい亭主関白な人。
母は肝が座った、器の大きい人で、そんな父にも不平不満を言わず、何事もやり遂げる人だった。
父方が曾祖母の代からキリスト教(プロテスタント)だったためか、子どもはセブンスデーアドベンチスト教会の三育幼稚園・三育小学校に入った。
三育小学校は1学年約20人×1クラスの学校で、全校生徒合わせて120人くらいのこじんまりとした学校。
毎週土曜日は安息日で、1~6年生がミックスしたファミリーという6クラスに分かれて、讃美歌歌ったり、聖書を読んだり。
人数も少なかったので、学校ではのんびり過ごしていた印象。
父は教育熱心で、子どもに成績優秀を求めたので、家のサバイバルに勉強が必須だった。
小学4年生から塾に通って、ノートルダム清心中学校入学。
1クラス女子50人×4クラス、中学生600人、高校生600人、合計1200人という環境で、
全校生徒120人の小学校から来た私にはかなりのカルチャーショック。
いま考えれば子どものたわいもない遊びなのだけど、中1の時に松茸コロンという友達の嘘を信じてからかわれ、人間不信になった。
カソリックの学校で、服装等の校則も厳しく、勉強重視な雰囲気。
家庭でも勉強できることが最重要な雰囲気。
振り返ってみても、私が一番私らしくない時期だった。
英語力を身に付けたかったので、本当は上智大学か東京外国語大学の英語学科に行きたいという希望があったのだけど、
親も先生も信頼してなかった、安心して本音を話したいという気持ちが起こらなかったので、
誰にも相談せず自分の中だけで考えて、周りの同級生が優秀だから希望校には行けないという思い込みの結論で、東京女子大学に推薦入学。
やあ、ここまで書いて、めっちゃ暗いわー!
もう少しお付き合いください!
全部書いてたら長くなりすぎるので、ポイント絞って書きます。
大学に入って、本当に行きたい大学に行ってないことでとても苦しくなった。
キャンパス内にあったカウンセリングルームに行き、自分の心情を話すということをして、自分の内側と向き合うことを始めた。
今思い返すと、この時に、もう絶対にやりたいことは諦めないと決めたのだと思う。
在学中ヨーロッパでバックパック旅行して、まち創りに興味を持ち、卒業後は北海道にある高野ランドスケーププランニングにアシスタントとして入ったけれど、やりたいことと違うなあと思い、帰郷。
自分のやりたいこと、仕事にしたいことが分からず、広島でとにかく興味あることをいろいろ経験。お茶、お華、フラワーアレンジメント、陶芸、ヨガ、日本語教師の勉強、アジア大会選手村でバイトなど等。
そうこうするうち、1995年春に父の脊髄癌が見つかり、手術。1996年2月他界するまで、母と毎日交代で病院に寝泊まりの生活。
病院に行ったら父にハグ。身の回りの世話、排便の手伝い、エドガケーシーのオイルで手術痕をマッサージ、朝起きたら一緒に上半身体操、下半身マッサージ、朝食終わったらハグして帰宅。
病気になるまでは、父はワンマンで怖くて近寄りがたく、そんなに仲良い父娘ではなかった。
私が病院で生まれて、母が父に女の子がだったと電話したら、父は男の子がよかったらしく、「女の子か」と言って残念そうだったと母から聞いたことがあり、
それ以来「私は生まれてこない方がよかったのかなあ」と思ったりした。
でも、父の命が短いと知り、後で後悔したくないので、父への愛情を私のできる精一杯で表現した。
おかげで、その11ヶ月は本当に密度の濃い時間だった。
ある時勇気を出して、父に「私のこと、好き?」と聞いた。父は「とってもとっても大好き」と答えた。
私はすごーく安心して、涙がいっぱい出た。
いつものように父とハグしてたある日、2人のエネルギーが円環になって溶けて一つになる体験をした。至福だった。
父はお金、地位、名誉、家族等、一般的に皆が欲しがる、人が羨むほぼ全てのものを持っていた。
でも、手術で車椅子になった自分を受け入れられず、身内以外の面会はシャットアウトした。
そんな父を見て、人にとっての本当の幸せは物質的なこと、表面的なことにはないことを学んだ。
そして、本当のこと、本物を知りたい!という強い欲求が起こって、そこから自己探求が始まる。
興味の向くまま、ボディワーク、代替療法、セラピー、瞑想、OSHO瞑想、カウンセリング、コーチング、NLP、催眠などを経験した。
そして、ありのままの自分を愛すること、自分に正直で透明なケーションをすることがゴールだった。
特に母と正直で透明なコミュニケーションをすることは、私にとって大きなテーマだった。
2001年、家族の反対のなかネパール人のOshoサニヤシンのVidurと結婚。8年間一緒に過ごした。
2008年エコビレッジのことを知って、木の花ファミリーやエコビレッジネットワークに関わった。
2015年アースデイでアズワンのブース訪問。持続可能な社会カレッジに参加。
2016年アズワンセミナー、自分を知るためのコース、自分を見るためのコース、内観を受講。
2019年ガイアエデュケーション3期参加。7月にアズワンセミナー再受講。
2016年11月に母がすい臓がんの手術をすることになり、東京から実家に戻って母と暮らし始める。
その後、2018年6月腸閉塞、2018年11月右脳内出血。入院、リハビリを繰り返して、2019年3月~自宅で車椅子生活をしながらリハビリに通った。
私が中3の時に留学したかったのを母が反対したことがあり、当時の私は「母は私のことを理解できない人」とラベルを貼り、それ以来、自分の本当のところを母に話そうと思わなかった。
たぶん、理解されないから話すことを諦めたのだと思う。
私の今世のテーマは両親との間のワークだったので、母が病気になってようやく、そこにエネルギーを注力できるようになった。
母に本当の私を出すと、母は理解できない、反対するという経験が多かったので、母と話す時には遠慮があったけれど、
母に私の気持ちを伝える等しているうちに、徐々に母とのコミュニケーションが変化していった。
そして2021年には、まるでパートナーに話すように、母になんの遠慮なく、思ったまま、何でも話すようになった。
私は母に対してイライラしたり、怒ったりすることもあったけれど、その時は私の内面の状況を説明して謝った。
母は私が怒るのが怖いと言って、言いたいことも言えないと言ってた。
まあ、そんな風に、まだまだ母との関係性、コミュニケーションには伸びしろはあったけれど、私にとっては予想以上のところまで来たなあという感覚だった。
2021年12月母が急に呼吸困難になり救急車で入院。ICUと普通病棟を数回行き来して、1/6他界。
思いがけず、あっという間に逝ってしまった。
母と隔てのない間柄だったのか?と今思い返すと、私の中に「母はこういう人」という決めつけもあったけれど、母を一人の女性として見ることができるようになっていた。
そして、母を女性として尊敬していたし、彼女が大好きだった。
でも、母のすることにイライラしたり、怒ったりすることもあった。
ヘルパーさんも来てたし、家政婦さんもいたけれど、ほとんどの時間は私が母といてケアをしていたので、正直いっぱいいっぱいだった。
自分だけの時間をしっかり取ることを絶対的なタスクにしていれば、母にもっと優しくできただろうなと思う。
2021年6月〜自分を見るためのコース+アズワン体験プログラム。自分を知るためのコース。内観+アズワン体験プログラム。
2021年12月広島在住の友人まやちゃん(24歳)とアズワンツアー参加。
2022年2月〜人生を知るためのコース受講+アズワン実習プログラム
「人生を知るためのコース」を受講して、私が人生ですることは「実際を生きる。本来の人間が育つ土台作りをする」というのが出てきた。
2021年、母が代表取締役をしていた不動産管理会社(大家業)を承継したのだけれど、その会社も本来の人間が育つ土台作りをすること、やさしい社会を創ることに貢献したい。
3月のアズワン実習プログラムを経て、小野さんと話したり、盛岡の吉田直美さんと話したりして、鈴鹿での今後の基盤作りやアズワンネットワークに関わるような動きになってる。
2月から自宅3階に友人カップル+赤ちゃんが試験的に暮らし始めた。
彼らは4月にアズワンツア―参加、6月にアズワンセミナーに参加予定で、サイエンズメソッドを共有できる予兆がある。
会社としては、本心を生きたい人、自分自身を生きたい人が集まる、オーガニック素材を使ったDIY賃貸発酵住宅プロジェクトを進めてる。
自宅をシェアハウスにする計画もある。
いろいろ進んでるけど、私にとって大切なのは、まずはアドバンストコースを全部受講すること。
そして、いつも事実・実際を観るという日常を過ごしたい。
とはいっても、広島でそれを1人で継続するのはなかなか困難なので、鈴鹿に通いながら進んでいきたいと思う。
鈴鹿のみなさん、これからもどうぞよろしくお願いいたします♪